• このエントリーをはてなブックマークに追加
劇場版 魔法少女まどか☆マギカ
閉じる
閉じる

新しい記事を投稿しました。シェアして読者に伝えましょう

×

劇場版 魔法少女まどか☆マギカ

2012-10-14 01:50
  • 73


 参った……。
 ブログ記事二回目にして、「女災」と直接関係ないテーマになってしまいました。
 今回は劇場版『まどか☆マギカ』について。
 というよりは、それにまつわる騒動についてですね。
 くどくど書くのも面倒なのですが、掻い摘んで説明すると、要はマニア向けの深夜アニメが劇場版となった、それを見た子供がショックを受けていた、という目撃談がツイートされ、それに過剰反応する者が大勢出た、というお話です。
『魔法少女まどか☆マギカ』は見ればわかるように可愛らしいタッチのキャラクターデザインですが、しかしその内容は非常に凄惨なもの。可愛いキャラでシリアスなことをやるというある意味「不意打ち」が、マニア層に衝撃を与え、話題作となったわけです。この「不意打ち」という戦略が一種、確信犯的に採られたことについては恐らく、マニア間でもコンセンサスとして認められているのではないかと思います。そうした作品が、深夜放映している分には問題はなかったものの、劇場版となったがために問題が露呈したというハナシです。
 近年の『ひぐらし』などは問題視されたとは言え、一応、その時の受け手は本来のターゲットである中高生でした。しかし今回は「子供が知らずに見てしまった」、或いはそうなる可能性が充分に想定できる、というものです。例えば『セーラームーン』のエロ同人誌が普通の書店に並べられるとか、古くはいわゆるオタク系の美少女エロ漫画を子供が間違って買ってしまったとか、「萌え系」と呼ばれる文化はこの種の問題をずっとはらみ続けて、しかしそれをしつこくしつこく華麗にスルーし続けてきたわけです。

 普通に考えて、こんなものは子供に見せるべきではないし、そうしたものを劇場公開する以上、作り手は多少なりとも考えておくべきだったでしょう。
『ゴジラ』が『とっとこハム太郎』と併映した時、映画館には「『ゴジラ』は怖い映画なので子供に見せる時は注意して云々」といった注意書きが貼られました。『ゴジラ』についてはむしろ「そんなに怖いかなあ?」というのがぼくの個人的な印象なのですが、とは言え、対策としては非常に行き届いていて好ましいものであったと思います。
 しかしこうしたことにガマンがならない層がおいでのようで、ツイッター上でも論争が起きました
 一部の人たちは今回の騒動に拒否感を示し、「そんな子供などいなかったに決まっている」といった根拠のない願望を押し通したり、「下調べをせずに見に来るヤツが悪い(見に来るヤツがいるはずがない)」などと詰ってみたり、「子供にはこの話を理解するだけの力がある」という意味のない反論(別にお話が難解だ、ということは問題にされていないのですが)をしてみたり、「不意打ちのどこが悪い」といった居直りをしたりで、本件を「スルー」しようとしていました。
 そうした人たち(問題なし派)が本件を問題視する人を「規制派」と呼んだり、或いはまとめの「みんなのおすすめ商品」に『有害コミック撲滅!――アメリカを変えた50年代「悪書」狩り』が配置されたりしているのを見ると、彼らの本心が仄見えてきます。
 つまり、彼ら彼女らは『まどマギ』によって傷つけられた幼い少女、或いはそれに反応する人々に「コミック規制派」であったり「オタク差別者」であったりの影を見ているのでしょう。
 この映画を規制せよ、上映中止にせよなどと言っている者など、少なくとも上のまとめを見る限りはただの一人もいないのに。また、その少女が実在かどうかについても、少なくとも「証拠もなくいたのだと決めつける」意見などは、ぼくの記憶する限りなかったように思います。むろん、ぼくの知らない場でそうしたやり取りがあった可能性は否定しませんが、上のまとめを見る限りでは、過剰でヒステリックなのは問題なし派の方だと言って間違いがないでしょう。

 上にも書いたように彼らは「下調べもしないヤツが悪い」と言い張るのですが、ポスターを一見して、ましてや小さな子供やその親御さんであれば本作をまず、『プリキュア』などの延長線で考えるでしょう。
 それが入ってみるや美少女キャラクターの首が飛ぶとか、美少女キャラクターが「私、ゾンビになっちゃったから好きな男の子とはつきあえない」と絶叫するとか、そんなものを観せられたらどんな気分になるか。

 ダメだよ、こんなの絶対におかしいよ!

 非道いよ、こんなのあんまりだよ!

 上に書いたような「注意書き」の一つもあれば間違って観る者も減り、また嫌な言い方ではあるけれども作り手や上映館の責任も回避でき、いいこと尽くめではないかと思うのですが、彼らはそれがどうしても許せないようです。まとめ人の有村悠師匠自身、「ゾーニングまかりならん論」の主なのですが、こうした規制に反対し、表現の自由を標榜する「リベラリスト」たちは、どうしたわけかそうした「住み分け」が絶対に許すことのできない蛮行だと、どういうわけか考えている比率が大変に高いようです。
 コミック規制の問題でも、話していくと彼らは非常に頻繁に「子供にエロ漫画を見せることの何が悪い、ゾーニングは認めぬ」といった主張をします。
 彼ら彼女らにとっては子供の心理よりも、遙かに「表現の自由」が大事なのでしょう。その「表現の自由」とは、上にも見た通り、他人の意見から耳を塞いだところでのみ、成立するものなのですが。
 まあ、他人様のガキの心の痛みなんざ、どうでもいいですからなあ。

 ねえ、この世界って守る価値あるの? 私何のために戦ってたの? 教えてよ。今すぐあんたが教えてよ?

 ちょっと余談になりますが、この種の議論の時に出てくる「ガキもこうしたトラウマを受けて成長するのだ」論を一種の「シゴキに耐えてこそ男は成長する」と言った類の精神論のバリアントだ、として批判している人がおり、それは大変面白いと感じました。なるほど、彼らリベラリストはそうしたマチズモを狂ったように批判してきたにもかかわらず、自分にとって都合のいい時ばかりマッチョなことを平然と言い出すというのは、当たっているように思います。

 ふふふ……ふふふ! うっふふふ! 本当だ! その気になれば痛みなんて! あはは、あはは! 簡単に消しちゃえるんだ!!

 上の「ゾーニングまかりならん論」を見てもわかる通り、大変不思議なことですが、「リベラリスト」を持って任じる方々はどういうわけか、他人の権利については一切考えないという性向を持っている場合が、大変に多い。後藤和智師匠しかり、高橋直樹師匠しかり。
 そしてまた公立の図書館で小学生にでもBL本が借りられる状態になっていたことが問題視された時、「BL本排除はホモ差別だ!」と絶叫したフェミニストしかり、任意の表現に「ミソジニーだ」とのレッテルを貼ることに躍起になるフェミニストしかりです(やっとちょっとだけ絡めることができました)。
 残念なことですが、オタク界にもそうしたご立派なリベラリストが増えてきた。てか、意見を言える立場にいるのって、そうした人たちばかりのように、ぼくには思われます。何しろ、そうした学閥だの何だのに与さないことには、偉くなれませんからなあ。

 ぼくと契約して、リベラリストになってよ!!

 自由なんてそもそも他人のそれとバッティングすることが多いのは自明の理であり、ぼくたちの自由よりも「リベラリズム」という正義の心を持った者の自由こそが優先されるのは、彼らにしてみれば当たり前のことなのでしょう(リベラリスト同士の同士討ちの場合はどうなるのか知りませんが、まあグリーフシードを多く得た者の方が強いとか何とか、恐らく彼らだけにわかるルールがいろいろとあるのでしょう)。

 この国では成長途中の文化のことをサブカルチャーって呼ぶんだろ? だったら、やがてファシストになる君たちのことはサブカルファシストと呼ぶべきだよね。


 最後にもう一つ、テーマを「女災」と絡めて結論めいたことを書いておきましょう。
 結局、A君とB君の「自由」がバッティングするのが自明である以上、「自由主義」という名の美辞麗句の中には既に「尊重されるべき自由/尊重されない自由」という価値判断が内包されていると考えざるを得ないわけです。それは「差別」という言葉の中に、実は既に差別性が内包されていることが、「ミソジニー」という言葉で明らかになったのと、全く同じに。
コメント コメントを書く
他63件のコメントを表示

兵頭新児さん>

へんしんありがとうございます。
あなたの意見は個人的にはいいとも悪いとも思っていません。
ある意味では事実を書いているのに過ぎないものなのでしょう。

しかしながら私が言いたいのは、
この文章がオタクといわれる人たちの反感をわざと買うような書かれ方になっているところではないでしょうか?

また、落としどころとして注意書きを書けばいいみたいなことを書かれていますが
映倫がしっかりとしていて制作された作品をもっとよく理解し、
R指定などの規制をきっちりと掛けるべきなのではないでしょうか?
私個人的には、映画倫理委員会の審査において抜け道のようなものがあってはならないと考えます。

つぎに、まどか☆マギカ上映中の親子の途中退席についてのことですが
確かに話の内容の深淵のところでは子供たちが安易に想像するであろう魔法少女ものとは違いますが
「敵と戦い傷つきやられる」というプロセスにおいてはプリキュワと騒ぐほどの違いがあるでしょうか?
そして退席した子供たちはこの映画を最後まで見ず、怖い映画として認識するでしょう。
しかし、もし最後まで見たなら、子供の成長に大きな傷を与えるものではなく
もっと別の大事なことを学ぶ機会になると思います。


なぜならそれは、子供が好きなプリキュワも
まどか☆マギカもどちらもハーッピーエンドではないでしょうか。
バッドエンドではなくハーッピーエンドになっているからこそ何かしらのことを学ぶ機会になると思います

最後に、ポスターの絵を見ただけで入って途中退席する親子のことですが、
私は、事前に調べろとは言いません。
注意書きがなかったことで不快な思いをしている方もいたかもしれません。
ですが、最後まで見ればいい話であり、人間的な面がいろいろ描かれているので
この映画が悪いものだとはいえません。

したがって、最大の問題点はこうやってグダグダとこの問題について議論していることではないでしょうか。
人それぞれ感性は違うものです、だから言い合って解決するとは限らない
ならば議論する必要などないではありませんか。

No.70 140ヶ月前
userPhoto 兵頭新児(著者)

まず、大原則ですが、議論する必要がない、なんてことはあり得ないです。
本件についてよき議論が成立しているかはおくとして。

最近ツイッターで

>日本のオタクって、憲法で保障された「表現の自由」あってこその存在なのに、自分たちが報道されることについては許さないという傾向が強いように思うところ、そりゃあ「タダ乗り」ってもんじゃないのと思うんだけど、どうも賛同者が少ないΣ(´∀`;)

といったつぶやきがありました。
オタクには「自分の姿を大っぴらにしたくない」という心情が大変強い。
この記事に対する過剰反応にも、そうしたオタクの心性がよく顕れています。
もっとも、それ自体は尊重されるべきだと思いますが。
しかし今回のおやじさんの発言もそうした心理に基づいたものだと思え、「それはちょっとどうなの」と思います。
いくら何でも劇場公開までしたんだから、議論すら否定しようとするのは、ちょっと虫がよすぎる。

上のつぶやきに対して、

>だって報道された先に「気持ち悪いから規制しよう」があるの解りきってるし。

といった反論があったのですが、これがぼくにはオタクにつけいって「契約」させようとしているキュウベエのものに見えてしまうんですね。

以上はまあ、お返事とは言いにくいですがちょっと気になったので。

>「敵と戦い傷つきやられる」というプロセスにおいてはプリキュワと騒ぐほどの違いがあるでしょうか?
そして退席した子供たちはこの映画を最後まで見ず、怖い映画として認識するでしょう。
しかし、もし最後まで見たなら、子供の成長に大きな傷を与えるものではなく
もっと別の大事なことを学ぶ機会になると思います。

本作は『プリキュア』とは全く違います。
全く違うものをミスリードで観せようという戦略が、意図的に採られています。
それは深夜アニメとしては優れた試みでしたが、劇場版としてはちょっとな、ということが今までの議論で言われていることだと思います。
またこれを観て「大事なことを学ぶ」子供がどれだけいるか、ぼくは疑問です。
そうしたことを言う人は「自分の感動を他人にもわかって欲しい」という(ある意味、ものすごく素直で心優しい)気持ちを持っているのですが、それがちょっと強すぎて暴走してしまった、というのがぼくの印象です。

No.72 140ヶ月前

製作者の意図した手法、可愛らしいキャラからは想像できない「不意打ち」に
子供がショックを受ける。マズいので「注意書き」という配慮をしてやったら?そこは解る。
…が、どうにも矛盾のようなものを感じる

映倫レーティングによるゾーニングが行われなかった状況下で
「観るなら注意してください」程度の「注意書き」があったとしても
それは明示的なゾーニングではないので、子供アニメが観たかった子供は無事に回避できるが
それでも、誰もが劇場版『魔法少女まどか☆マギカ』を観ることはできる。
選択は個々人の裁量に任され、意見が割れる訳だ。グレーな領域で。

兵頭氏は上のレスで、おゃじ氏の「子供に観せても大丈夫ではないか?」との意見に対しても
子供に観せるのであれば、それはオタクの『暴走』だと、はっきりとそう述べている様に見られるが
或いは、考えた末の判断であっても冷酷なマチズモ呼ばわりなのだろうか?

この手の作品は"絶対に"子供の目に触れるべきではない!とのスタンスで発言するのであれば
映倫指定が無かった事と、審査のあり方には特に追求の矛先が及ばないままで
注意書き程度を「落としどころ」にできるのは、…ちょっと論理的におかしくはないかな?

No.73 140ヶ月前
userPhoto 兵頭新児(著者)

ぼくは本作は映倫の基準ではレーティングしにくいのだろう、と想像しています。問題は具体的な残酷描写というわけではないですから。
だからこそ「現場判断での注意書き」が落としどころとしては適切だなと。
ぼくが採り上げたまとめでも「映倫が問題なしと認めたんだからいいじゃないか」といった発言をする人がいましたが、その人たちは映倫が規制を厳しくしたら真っ先に文句を言うのではないでしょうか。

ただ、映倫に「乳首はNG」的な即物的な規定があるというのはぼくの思い込みで、警察OBとかが鶴の一声で判断している気もしてきました。
その辺はすみませんが不勉強でわかりません。

No.75 140ヶ月前

日本の映画倫理規定管理委員会によるレーティングでは
PG12、R15+、R18+という等級分けになってて(R-12って無いのね…)
Rは「Restricted(制限)」PGは「Parental Guidance(親の指導)」の略
この年までは「見てはいけません」とできるレーティングは、R(Restricted)で
PG12は、12歳未満の年少者には保護者の助言・指導が必要、との規定だそうな。

劇場版まどか☆マドカの公開では、厳しい区分け(ゾーニング)によって
年少者に「観せない」という措置まではとられなかった。
(というかRestrictedだと、まどか観れない年齢は中学生まで引き上がる)
しかし「現場判断で注意をするべき」という提言があるなら
本来『PG12』が助言・指導という名目で明示化している訳で…
結論を言うと、兵頭氏のスタンスは『PG12』の推奨と似るところがあって
それならば「映倫審査が片手落ちでオカシイんじゃね?」 て観点でも語らないと
筋が通らない事になるような…そんな気がする。

仮に『まどか☆マドカ』が、決して子供の目に触れさせてはならない程の
ある種の"暴力"だと認識するなら、その人は『Restricted』派であるべきで
「注意書き」は『PG12』以下のソフトな制限力しかないから「落としどころ」にすべきではないな。

No.76 140ヶ月前
userPhoto 兵頭新児(著者)

いろいろと博識のようで、勉強になってありがたいのですが、話としてはあまり噛みあっていません。
ぼくが言っているのは年齢による区分けの問題ではなく、レーティングの基準がある種の即物的基準で定められ得ているのではないか、との想像であり、また「公のルール」というのはそもそもそうしたものだから、本件のような特殊事例にはなじみにくいよね、といいう感想です。

例として挙げた「乳首を出してはならない」との即物的なルール。
その裏を掻いて「Tシャツ濡らして透け乳」。
両方とも好ましいあり方だと思うけれども、ちょっと最近は乳が透けすぎだろ。とは言え、そこまでルール化すると無自覚に乳を透けさせて歩いているその辺のオッサンまで逮捕されかねない。
だからまあ、当事者同士で注意しあえば。
ある種手ぬるい考えですが、ぼくの言っているのはそういうことです。
また、単純に本件の問題点は「期待したものと別なものが出てくる」というところが強いので、「予告」「告知」によってかなりショックを和らげられるということもあります。

それと、どうもあなたはぼくが「何が何でもこの映画を子供に観せてはならない」と執念を燃やしているように捉えていらっしゃいますが、そういうわけではありません。
むしろ過剰反応するリベラリストへの違和が、こうした記事を書く動機になっています。

No.77 140ヶ月前

一つの結論を言うと、緩い『PG12』の適用が本来望ましかったと、そう思う次第。

ただ、一定水準でエロかグロがキツくない限り適用されないんじゃ、まるで片手落ちなんだなぁ…
「Parental Guidance」は、ダークな大人向け作品というだけで広範に適用したとしても
誰も損をしない筈なんだけど…

No.78 140ヶ月前
userPhoto 兵頭新児(著者)

>「PG12」

まあ、敢えて現行のルールを当てはめるとそんなところが妥当でしょうね。

>「Parental Guidance」は、ダークな大人向け作品というだけで広範に適用したとしても
誰も損をしない筈なんだけど…

なるほど、それも妥当かも知れません。
「子供に見せるな」ということでもないですし、反対派も反対しにくそうですしw

No.79 140ヶ月前

 拝読しましたが、評論としてはいろいろと難があるようです。

1)「過激なリベラリスト」を批判しただけでは批評にはならない。
 「リベラリスト」に限らず、「過激な○○主義者」など良くないに決まっている。当たり前のことを当たり前に書いただけでは、「チラ裏」と揶揄されることとなる。例えば「穏当なリベラリスト」こそが問題なのだ、とあえて論ずるなら評論になる。(むろん無理に逆説を述べる必要もないが。)
 つまり、この評論には理論的な価値があるのか、という問題。

2)評論としての実効性に疑問がある。
 理論的な問題はともかく、実際問題として「過激なリベラリスト」は一定数存在し、その点は考慮しなければならないのかもしれない。(私には多数とは思えないのですが。)「放っておけばいい」というわけにはいかないという立場は理解できなくはない。
 しかしこの評論は誰に向かって、どういう効果を狙って書いているのか。戦略があるのかないのか。逆にオタク層の読者の反感を買っているのではないか。「挑発」という言葉を使う者もいるが、挑発した結果何を生むのか、狙いがなければなるまい。
 この文体でこの内容を書くことで、「過激なリベラリスト」を抑える効果が期待できると本気で思って書いたのか。ただ自分の言いたいことをぶちまけただけなのか。疑問に感じてしまう。

3)評論として十分な準備がなされて書かれているのか。
 自由と自由がバッティングするのはリベラリズムの前提だろう。その場合のルールは、法令の定めがあればそれに従い、そうでなければ私的自治にゆだねられるのが常識だ。(文中の「彼らだけにわかるルール」云々というのは、意味がわからない。)
 自分の選択について自分で責任を負うべきだというリベラリズムの考えは、そう簡単に否定できるものではない。絶対のルールだというつもりもないが、そんなに安易に片付けられない大問題のはずである。自由主義というものとどう取り組むのか、筆者の立場がよく見えず、議論の準備不足を感じる。
 レーティングについての下調べの欠如も、評論としてはいかがなものか。

 最後に。どうやら「一部の過激なオタク層」を批判することが大きな動機であって、子供への悪影響というのを(悪く言えば)ダシにしているだけに見える点が、共感できませんでした。
 具体的に子供を守るという観点が中心なら、レーティングの適切な活用を訴える方向性を切り捨てていいはずがありません。また、有害だから制限すべきなのか、それとも制限する方が子供の成長の面で問題なのか、という問題にも、もっと具体的に切り込む必要もあるはずです。
 上記のようなことには大して関心がないにも関わらず(あるならきちんと論じるべき)、一方で「リベラリスト」に対しては「お前たちは子供のことを考えていない」と攻撃するのは、傍から見ると滑稽です。まるで、言論界での「強い立ち位置」を競い合うゲームをしているようです。

No.81 138ヶ月前
userPhoto 兵頭新児(著者)

初めまして!
論点は三つに分けていただいているので、順にお答えしたいと思います。

1)「過激なリベラリスト」を批判しただけでは批評にはならない。
これは無意味ではないでしょうか。
例えば「右翼/左翼でこれこれの犯罪を犯したヤツがいた」といった攻撃の仕方でその右/左の思想そのものを批判したことにはならない、という考え方は原則論としては正しいでしょう。
が、その振る舞いが、その思想の根本を揺るがすものであったらどうか。例えば「他者の権利を侵害せんとするリベラリスト」ではどうか……?
また、

>表現の自由を標榜する「リベラリスト」たちは、どうしたわけかそうした「住み分け」が絶対に許すことのできない蛮行だと、どういうわけか考えている比率が大変に高いようです。

と書いたように「リベラリストには~多い」といった論調であれば、どうでしょうか。
例えばなのですが、「殺人犯の統計を取ったらベジタリアンの数が有意に多い」なんてことがあったとしたら、どうお思いになりますか?
(言っておきますが上の例は「例えば」であってそうした事実はありませんし、また少なくとも本論における「多い」がぼくの主観ではあるのですが)

2)評論としての実効性に疑問がある。
これは無意味ではないでしょうか。
反発を感じた人は多いでしょうが、最終的にはこのコメント欄でも議論が起こっている。
ささやかでも効果はあったのです。

3)評論として十分な準備がなされて書かれているのか。
これは無意味ではないでしょうか。

>その場合のルールは、法令の定めがあればそれに従い、そうでなければ私的自治にゆだねられるのが常識だ。

これは「警察や裁判所が相手にしてくれないんであればお前らで勝手にせい」とおっしゃっているだけです。おおせの通り、ぼくたち(これはぼくも、ぼくの意見に反対した人も、です)は勝手にしているのです。

> 最後に。どうやら「一部の過激なオタク層」を批判することが大きな動機であって、子供への悪影響というのを(悪く言えば)ダシにしているだけに見える点が、共感できませんでした。

これはどういうことでしょう。
ぼくは最初から、「オタクと世間」という関係性を見て、モノを言っているわけですが。

No.82 138ヶ月前
コメントを書く
コメントをするにはログインして下さい。