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顔面核爆弾さん のコメント

>これ、どこで言っていたでしょう?
多賀師匠も『男子問題』で似たようなことを言っていたような……。
本当にこの人たちはまず、「客観的事実を否認すること」が第一歩ですからね。

田中俊之師匠がいかに男性の人権には興味がないかが分かる箇所を『大原社会問題研究所雑誌』に掲載された書評から引用します。

『男性権力の神話』は,理論的な枠 組みの提示はほとんどなく,男性が男性である だけでいかに被害を受けているかがデータと共 に紹介されるという構成上の特徴がある。なぜ それが男性差別であると言えるのか理論上の説 得的な根拠が提示されないまま,次々と,女性 差別を助長するような事例の紹介がされる。

女性が女性であるだけで被害を受けている場合は女性差別になるけど、男性が男性であるだけで被害を受けている場合は男性差別にはならないらしいですよwww
要するにこの世界には女性差別しかなく、男性差別など存在しないと田中俊之師匠は仰っておられます。
いつものフェミ様の得意技『パトリアキー理論』ですね。
これが田中俊之師匠の本音です。
弱者男性よ、これが日本の男性学だ‼︎

>この「東京/関西のフェミニズム」というのは「メンズリブ」ですよね?
メンズリブがつぶされたのは上野師匠の命令によるものだったのでしょうか?

正確に言うと上野師匠率いる日本女性学会が自分らにとって都合のいいチンポ騎士を使って、「男も被害者だ!」とフェミに刃向かった当時のメンズリブを運動から徹底的に切り離したといった感じです。なので、事実上潰されたと言っても過言ではありません。要するに「我々は男など最初から助ける気はない!」ということでしょうwww
日本の男性学者(チンポ騎士)で職業としてやれてる人は数えるぐらいしかいませんが、彼らは上野師匠に地位を与えられた方々ばかりです。なので、フェミに逆らったら最期www 終始ご機嫌取りしかできないwww

>ただ、國友さんが「元から素質があった」のであれば何も言うことはありませんが、「思想でセクシュアリティを選ぼうとする」のはあまり意味がないと思います。
伏見憲明さんが「レズを自称する女って、実際にはフェミで、イデオロギーに沿ってレズぶってるだけじゃん」とおっしゃっていましたが、ぼくもそれに同意します。
う~ん、それにしてもやっぱり血が出るのか……(汗

國友師匠は思想でセクシュアリティを選んだというより、女の醜さに心の底から絶望し、女性に対して性欲を向けることさえ嫌悪を感じるレベルのミソジニーを拗らせてたのだと思います。このことを思わせる記述を『男は痛い!』から引用します。

昔、ぼくが不登校になったのは、前にも書いたとおり、先生たちとの確執のせいもあるのだが、ぼくの自尊感情をつぶしていったのは、クラスメイトの女子たちだった。ぼくはひたすら女子たちから『気持ち悪い』と言われ続けたのだ……。
もっぱらぼくを女子は嫌っていた。『気持ち悪い』と言われても、自分ではどこがどう気持ち悪いのかわからない。ぼくが女性全般に憎しみを抱くようになったのは、女子から執拗に『気持ち悪い』と言われ続けたからである。女は本当に冷酷だ……。
これを訴えると、大抵の女性は『それは一部の女性でしょう』と反論するのだが、ぼくを苛めたのは一人や二人ではない。複数だ。ぼくが男よりも女の方が性質が悪いと思うのは、女の場合だと、誰か一人から嫌われると、他の女にまでその思いが伝染し、共同妄想になっていくからだ。女たちの団結は怖いのだ。
ぼくは運動神経ゼロで、キャッチボールなんて未だに出来ない。ぼくはつくづくスポーツが人並みに出来るように生まれついていたら、こんな人生を歩むことはなかったと毎日のように思っている。スポーツができる男は何かにつけて得だ。 子供時代に男のヒエラルキーをつくるのは主としてスポーツ能力なのだ。
学校のバカマッチョ教師はただ威圧的に怒鳴るだけで、スポーツが出来ない男の子の自尊心を傷つけていく。そして、社会に出ても弱者男性はバカマッチョにイジメられ、淘汰されていく。
ぼくは子供の頃、スポーツや喧嘩が出来ないうえに気が小さかったため、DQNではなかった。DQNは男らしい魅力があるから 女子にも大人気だ。DQNじゃない真面目一徹なんて女の子から見れば全然魅力がない。
今でも、 いじめられる子は男の子に多く、いじめるの も男の子、被害も加害も男子なのだそうだ。 しかし、これをいうとフェミニストからは怒 られるだろうが、ぼくは女の子のいじめ加害 も相当数あるのではないかと予想している。
ただ、女の子の加害は表に出づらい。肉体的 な暴力でもない。威圧でもない。ただ、「私は あなたを嫌いなのよ」という態度を持続的に とり続けることで、相手の心に侵入し、相手 の心の細胞を破壊していくウィルスのような いじめだ。
それに男子は女子よりも強くなくてはならないと教育されます。『男のくせに、女にいじめられるやつがあるか!』と言われる可能性もあるから、女子からひどいことをされても多くの男子はそれを誰かに言うことはできないのです。
仮に言ったとしても、男 が女に迫害されるケースは、女が男に迫害さ れる場合に比べると深刻には受け止めてはも らえない。男は強い、女は弱いんだから、女 に迫害される男のほうが情けないんだという 社会通念はまだまだ根強い。

名著『男は痛い!』の中で最も印象的な記述です。今までの私のもやもやした思いが、辛い気持ちが、心の叫びが、形になっているのを目の当たりにした瞬間でした。
私も國友師匠と同様に普段から女性に「キモい‼︎」と言われます。高校時代には女子から『顔面核爆弾』というアダ名で呼ばれておりました。私の人生において唯一女性から与えられたモノがこのアダ名です。確かに私の顔はキモい……。童貞をこじらせたようなねじ曲がった醜い顔のキモオタフェイスは吐き気を催すほどの不快感を与える化け物の様でしょう。身長160センチ、ヨレヨレのチェックシャツにM字ハゲのニキビづらで肌の荒れた顔パンパンなガマガエルのような男に人権なんて存在しません。かなりの肥満体で周囲に腐った生ゴミのような悪臭を放ち、歯並びが悪く、汚らしい無精髭を生やかした顔でニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべながら今日も私は女児向けアニメでオナニーをするのです。それが私の人生なのです……。
そして、今日も私は女性から「キモい!」と罵られ、彼女らのボーイフレンドのバカマッチョDQN上司に恐喝まがいの説教をされながら奴隷のように決して人間扱いされることなく働かされるのです。
あまりにも過酷な状況の中、私も國友師匠と同様にミソジニーを拗らせ、自分の意志とは関係なく、セクシャリティが揺らいでしまいゲイ的な感情を抱いてしまう時があります。
私のセクシャリティが揺らいでしまう時の過程を下記に書いていきます。

いつの間にか見た目が完全に女性で男性器がついててもアリになっていた

いつの間にか見た目完全に女性で男性器がついてる方が好きになっていた

いつの間にか可愛い色白の女の子っぽいショタでもアリになっていた

いつの間にか若くて色白で筋肉がちょっとついてる男が好きになっていた

いつの間にか筋骨隆々のマッチョが好きになっていた

いつの間にか見た目完全にハルクで男性器が逞しい男が好きになっていた

いつの間にか男以外考えられなくなっていた

いつの間にか掘られてみたい気持ちで胸がドキドキして、amazonでディルドを購入

ディルドでは満足できなくなり、ハッテン場へGO‼︎

ケツから血が止まらなくなり、後悔しながら肛門科へ

我に返る……

プリキュアやプリパラなどの女児向けアニメを崇拝していた頃のオタクに戻る

再び、上からループ

上記のような行動パターンのオタクって、やはり少数派なんでしょうかねwww

>フェミニストは「弱者男性は強者男性に立ち向かえず、女性に矛先を向ける」と言いますが、(強者男性などいないのだから、根本的に間違っているのですが、それは置いても)その言葉は完全にフェミニストに対するブーメランになっています。

おそらくフェミ様が言う強者男性というのは自分らのボーイフレンドのことではないしょうか?
要するに「私が欲しければ、私のボーイフレンドを倒すことね」的な意味合いだと解釈します。
フェミ様には「フェミという名の御姫様を欲している男の顔面に蹴りを入れ続けている」という脳内設定があるために、どんなに男性人権論を説いても私らがプリキュアの怪獣にしか見えてないんですよ。その証拠にフェミ様は自分らに従わないオタクを倒すために選ばれた伝説の戦士フェミキュアに変身して我々を確実に仕留めに来ています。
プリキュアに男性キャラはたくさん出てきますが、普段はイケメンで年上のお兄さん然と振る舞っていても、いざとなったら妖精の姿に変身してしまい、戦う女の子たちの足手まといにすらなる『YES!プリキュア5』『YES!プリキュア5GOGO』のココとナッツなど味方であっても全く頼りになりません。まるでフェミ様に与えられた地位にすがりつくことしか出来ない日本の男性学者を象徴している様です。
『ハピネスチャージプリキュア』ではキュアラブリーが恋焦がれている地球の神ブルーは女の子に気をもたせておいてどっちつかずの態度で傷つけるだけで、戦闘面においても絶望的な程に頼りになりません。しかも敵役の女幹部クイーンミラージュを闇堕ちさせた張本人でもあります。クイーンミラージュも元はキュアミラージュとして人々を守るために戦っていたのですが、地球の神ブルーは神という立場上人々に対して平等な愛を捧げなければいけませんでした。それ故、ブルーに惚れていたキュアミラージュは失恋してしまうことになったのです。この状況はまさしくナンシー・フレイザー師匠が「フェミニズムはネオリベラリズムに利用されただけだった!」と今更になって泣き言を言っている様と大変酷似しています。このことをきっかけにキュアミラージュはプリキュアという名のフェミニストから悪の女幹部クイーンミラージュとしてアンチフェミに目覚めたのです。
それから『ハートキャッチプリキュア』のサバーク博士、『スイートプリキュア』のメフィスト、『ドキドキプリキュア』のキングジコチューは敵側に洗脳されて実の娘を含む女の子たちを苦しめる悪い父親として登場します。いわゆるパトリアキーを象徴した悪役なんでしょうけど、彼らには「男」であることや「父」としての自己に苦悩する描写も多数存在し、マスキュリズムの観点から言えば男性差別の当事者とも言える存在です。もちろん、最終的に彼らはプリキュアの、女の、母の愛によって救済されるのですが、我々の現実にいるフェミキュアは助けてくれないどころか完全に息の根を止めようとしてくるので困ったものです……。やはり二次元こそ神‼︎
強く優しく愛と友情と思いやりと母性の力、つまり「協調性」と「女性性」と「母性」と「自己犠牲」で戦う女の子たちが活躍する『プリキュアシリーズ』は大変素晴らしい名作なのですが、これらはあくまでもフィクションの中の世界です。現実のフェミキュアは決して弱者の味方をすることはなく、むしろ男尊女卑的なサバーク博士やメフィストやキングジコチューといった「男性性」や「父性」を発揮する権力者が大好きなのです。フェミキュアは主張的にもネオリベと親和性が高いので「協調性」「女性性」「母性」「自己犠牲」のプリキュアとは正反対の伝説の戦士です。
伝統的に、フェミニズムは「個人の尊厳と自由」を標榜するリベラリズムの理念に女性の解放を重ね合わせつつも、現実に存在するリベラリズムの論理が男性の属する「公的領域」における個人の尊厳と自由を主張しながら、「私的領域」に押し込められた女性や子どもに対する支配を正当化するレトリックとして通用してきたことを批判してきました(実際は男はただのATM奴隷だったんですが……)。
 リベラルな社会政策のもとで完全な「個人」として扱われることを妨げられ、男性と同じルールで競争することから阻害されてきた女性の中には、より「個人の自由」を前面に押し出したネオリベ的なものに対して魅力を感じる人が大変多いです。ネオリベ的な社会においては、誰でも性別に関係なく一定のルールに基づいた競争に参加でき、個人の努力と資質によっては勝ち上がることができるからです。
そして、今まで男が使い捨てられていた世界が男女平等政策によって、女性も使い捨てられる世界になりました!フェミニスト涙目www
 ネオリベの力によって女性が男のステージに上がって来れるようになって、彼女らはやっとカラクリに気づいたんですよ。「アタシら使い捨てられるのかよ!」的な感じでwww
でも、それを承知でネオリベと手を組んで弱者を抹殺してきたわけだし、ネオリベ風に言えばフェミ様の自己責任ですよねwww
「自分だけは使い捨てられない」と思ってネオリベと仲良くやってたのだとしたらフェミ様はメガトン級の池沼ですwww
共産主義でもダメでネオリベでもダメというのなら、じゃあフェミ様は何なら満足するんでしょうかwww
 よくフェミ様が長時間労働は男性的な価値観だからヨーロッパのように労働時間を短縮し、制限をかけて女性も働きやすい社会へと面白いことを言っていますが、そもそもヨーロッパがそういった政策が可能だったのは移民を受け入れたからなんですよ。
なら、日本も労働時間の短縮・制限のために移民を受け入れて多様性を認めればいい……なんて簡単にうまくいくわけがないのは言うまでもありません。
『労働時間の短縮・制限』と『移民受け入れによって起こる様々な問題』を天秤にかけたときに全然釣り合いがとれません。それに日本の場合だと移民を受け入れても、さらに日本人の労働時間は減らないという笑えない展開もあり得ます……。というか、労働時間が減るということは給料も減るってことじゃないですかwww ただでさえ低いのにwww
移民の話をすると、気が重くなるので一先ず置いておきましょう。
で、最近のフェミ様のヒステリーに男性側から「フェミ、ワガママすぎンゴ」という意見が多く上がってきています。この衝突は必然でしょう。
男性人権派は断じて男よりも女性の能力が低いとか言っているわけではなく、むしろ男性以上に女性の方が優れている仕事の領域がいっぱいあることを認めています。でも、だからって男も淘汰されっぱなしではありません。必ず攻略法を見つけて、女性から仕事を取り返そうとするはずです。何故なら、働かなければ生きていけないから。こういった終わりの無い、際限の無い競争が資本主義の本質であり、ネオリベの正体なのです。
左派・リベラルは規制や自由化によって起こる『意図せざる結果』に無頓着すぎる傾向にあります。
フェミ様は次々と起こる意図せざる結果に苦しめられてるように見えますね。その証拠に専業主婦志望の女性が増加するなんて、フェミニズムの敗北でしかありません(だがしかし、今の若い女性はもう専業主婦にはなれないのであった)。
フェミニズムはもう先が長くないと言っていい。そして、我が国も………。

>皆藤師匠や目下騒がれているきりりん師匠は、明らかに自らの男性性への嫌悪から来ていますね。
しかしその嫌悪はフェミに植えつけられたものなんだから、本当にあの人たちは「怪人を操って世界征服を企む秘密結社」です。
恐らく当初の作戦は「全男性を怪人に改造する」ことだったはずですが、今や「改造して人間爆弾にした怪人によるテロ活動」に目的がすり替わっていそうです。

皆藤師匠もきりりん師匠も「裏切り者の名を受けて〜、全てを捨てて戦う男〜♪」と今にも歌い出しそうなくらい自分のことをデビルマンだと勘違いしてそうです。
実際はフェミという名のデーモンに身体を乗っ取られ、人間の心を失い、フェミの忠実な下僕として我々オタクに襲いかかる恐ろしい悪魔へと成り果てているんですがね。
私や兵頭さんこそが孤独にフェミと戦う真のデビルマンでしょう。
兵頭さんが表現の自由クラスタから叩かれているところを見てると『漫画版デビルマン』の終盤を想起させます。人間(オタク)を守るために戦っていたデビルマンたち(私や兵頭さん)をデーモン(フェミ)への恐怖心からスケープゴートにしようと躍起になる愚かな人間たちと表現の自由クラスタは重なります。
フェミとのハルマゲドンに備えて、兵頭さん率いるデビルマン軍団を集めて組織化できれば良いのですが、デビルマンになれるだけの素質を持った人間は現状では少数派です。フェミ勢力の前では圧倒的な数で押し切られてしまうでしょう。
ですが、それでも私たちには守りたいものがある!
フェミという名の『悪魔』の時代に終止符を打ち、私たちの時代を切り開くのです。
『非モテ歴』紀元元年!
『非モテ』の未来を信ずる者よ、運命の日は近づきつつあります!
『兵頭神』は破壊する‼︎
『フェミ』の創りし愚かなる文明を‼︎
長文失礼しました。
No.12
97ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
  俺らがゲームに、なりました。  いえ、去年の今日、11月26日、丁度一年前に発売したゲームなので、正確には「なっていました」。  それが今回ご紹介する『 ネットハイ 』。  本作を一言で説明するならば、ネット文化、オタク文化を舞台にした『ダンガンロンパ』。いえ、どちらかと言えば『逆転裁判』の影響が大らしいのですが、ニコニコ生放送そのものが舞台に選ばれ、主人公と敵とのディベート中に聴衆コメントが流れる辺りはやはり、『ダンガンロンパ』的です(学級裁判でのガヤの声の演出も、ニコ動が着想の元になっていたと言います)。また、マスコットキャラの声はガチャピン、ムック(の声優さん)が担当しており、これもまたモノクマの影響が大きい。  本作は膨大なフォロワー数を誇る リア充どもを、ド底辺な主人公が爆発させる というゲーム。「ニコ生における論戦で、ツイッターのフォロワーを競うディベートバトルゲーム」なのです。  いえ、劇中では「ツイッター」に近しい「ツイイッター」というのが登場するのですが、面倒なので本稿では「元ネタと思しい」サービスの名前をそのまま書いていきます。ご了承ください。  それともう一つ。  本作はネタバレ禁止とされています。  しかし正直ネタバレなしに本作の面白さ、深さ、素晴らしさを批評することは困難です。  よって今回は体験版として公開されている第一話は置くとして、それ以降については、キーワードを白文字にすることで対処しました。  ネタバレしても面白さを損なうゲームではないと思いますが、以上のような次第ですので、どうぞご了承ください。  さて、本作におけるディベートは「ENJ(エンジョイ)バトル」と呼ばれるのですが、主人公は敢えて「爆発炎上バトル」と呼称します。というのもリア充どもを「炎上」させ、「爆発」せしめることが、このゲームにおける目的だから。そう、「オタク」という言葉を「非リア」と読み替えることで、そのバトルをある種の階級闘争に準えたのが、本ゲーム。  何しろ国家が「ネオ・コミュニケーション法」を施行、人々にツイッターアカウントの所持を義務づけ、フォロワーの数でヒエラルキーが決まってしまう、というのが本作の世界観なのですから。フォロワーがゼロになった者はアカウントを凍結され、「Zランク」にまで落ちてしまいます。これは実質的には社会的な死。「Zランク」は俗に「ゾンビアカウント」と呼称されるのです。  ぼくの想像なのですが、恐らくこの世界観の根底には岡田斗司夫氏の提唱する「評価経済社会」の概念があります。他者の評価が数値化され、そうした「人気」の高い者がヒエラルキーを形作る「いいね!至上主義社会」。それは既にネット上では確立しつつあり、しかしぼっちでありコミュ障なオタクにこそ厳しい社会なのではないか、という疑問。それが本作のスタート地点にある気がしてなりません *1 。  もう一つ、ネタ元を勘繰るとするならば、『ゲームウォーズ』でしょうか。以前にも採り挙げたことがあるアメリカの小説ですが、近未来、ヴァーチャルリアリティの中だけが居場所の超底辺少年が日本の巨大ロボを操り大活躍、というお話で、ここで描かれる「SNS運営によって大衆が支配される超格差、管理社会」といったディストピア的世界観は恐らく、本作の元になっている気がします。  アマゾンのレビューに秀逸な批評がありました。 表面的にはリア充爆発というケツの穴の小さいテーマに見えますが、中身は全然違いました。  そう、その通りなのです。  今まで「オタクvsリア充」のバトルは「オタクという唾棄すべき存在の、やっかみ」という解釈のみが許されてきました。本田透は『 電波男 』で(当初は「チクショー、オタクが何したっていうんだよ!?」というボヤき芸を想定していたところを急遽、路線を変えて)「オタクは勝った!」と勝ち鬨を上げましたが、そんな危険思想がこの社会で許されるはずもなく、彼は存在そのものが「黒歴史」として 葬られました 。「 女災 」という概念を提唱した者もまた、 しかり です。  そんな絶望的状況の中、現れた第三の戦士、それが本作の主人公「俺氏」なのです。   そう、本作は俺らのゲーム、なのです。  繰り返しましょう。 「オタク」ネタは、どうしてもそれを嘲笑しなければならない、という社会の「お約束」の前に、苦戦を強いられてきた。『 俺の妹がこんなに可愛いわけがない 』、『 私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い 』は主人公を少女化することでそこをクリアしましたが、今やオタクネタのコンテンツは『 うまるちゃん 』、『 私がモテてどうすんだ 』とみな一様に、女性向けのものに埋め尽くされてしまいました。 ガガガ 。  そしてこれはむろん、「男性」全般に言える話です。ハゲは、インポは、ブサメンは、童貞は 笑われなければ、なりません 。  先に挙げたアマゾンのレビューは、それを表しているわけです。ただ単にオタクがリア充をやっつけるだけというお話であれば、それはケツの穴が小さい。いえ、決して小さくはないはずなのですが、世間はそう見る。  ならば、ぼくたちはどうすればいいのか。  その答えを、本作は完全に提示しています。  この「俺氏」はヘタレで気の弱いオタクですが、ある日、捨て猫をきっかけに、とある心優しい少女と会話を交わします。しかし彼女のツイッターはいきなり「炎上」、フォロワーがゼロとなり、アカウントが凍結されてしまいます。そう、ネット社会では日常茶飯事ですが、「こいつは悪者だから叩いていいのだ」と決まった者を、よってたかってそいつを晒しageて、集団でフルボッコにする。そうした様子を目の当たりにして、俺氏は「こんな腐ったシステムはぶっ壊してやる」と決意するのです。 「必然的に観客もhimeのフォロワーの比率が多くなる  最初から公平な戦いなんかじゃねえんだよ」 「でも、それじゃあENJバトルってなんのために……」 「そうだな……公開処刑ってところか」 「こ、公開処刑……」 「人気者に噛みついてきた無謀で愚かな人間を  フォロワーという 数の力でいたぶるんだ  観客たちはそうやって火あぶりになってもがき苦しむ人間を  画面の向こうで眺めて楽しんでやがるんだよ  なにがエンジョイバトルだ  それこそ炎上バトルじゃねぇか……!」 「ちょっとばかり失敗したヤツを フォロワーの数にまかせて  これでもかと叩いて笑いものにする  ツイイッターじゃめずらしくもねぇ光景だ  だけど、俺はそういうやり方が一番気に入らねぇ  だから言わせてもらおう  一緒になって叩いてるヤツら! そして見て見ぬ振りを  しているヤツら! どいつもこいつも最低のクズどもだ!」  フォロワーが四人しかいない俺氏ですが、現れた美少女型ナビゲーションAI「シル」と共に「ENJバトル」に殴り込み、圧倒的フォロワー数を誇るリア充どもへ、敢然と戦いを挑みます。 ■中央が「俺氏」。右が宿敵「MC」。左がナビの「シル」。可愛いです。  70年代、漫画やアニメの世界では、叩き上げがエリートを努力と根性でやっつけました。代表例は星飛雄馬と花形満ですね。  80年代はそうしたドラマツルギーが徹底的に無化されました。これはフジテレビなど、リア充をも含めた全体的な流れだったのですが、そろそろリベラル君たちがこれをオタクの仕業であると歴史修正を始める気もします。  90年代は本当の意味でのニヒリズムが蔓延し、シンジ君は戦いを拒否。  ゼロ年代は夜神月が、そしてなろう的チート主人公が人気を得るに至りました。  しかし10年代からは――と言っても、もう後半まで来てしまいましたが――再び「持てる者」へのカウンターが描かれる、70年代への回帰が始まるのかも知れません。  ただ一つ違うのは、「努力と根性」という要素は相変わらずオミットされていること。それは仕方がありません。現代で「努力すれば報われる」と語っても、それはギャグにすらならないでしょうから。  では、「俺氏」は何を武器に戦うのでしょうか。  本作では、 「愛」が敵と戦う武器に選ばれています 。  なぁんだ、と思われるでしょうか。  この「愛」こそ80年代に空疎に振り回され、世の中をエゴイズムに染めてきた諸悪の根源である、と言いたい人がいるかも知れません。  てか、そうした物言いは、(最近してないですが)以前、ぼくがよくしておりました *2 。  しかしまあ、待ってください。  ここから先は更に、本作のストーリーを詳しくご紹介していく必要がありそうです。 *1 本作一話では「食べログ」が登場。飲食店を逆恨みした者が不当に貶めるレビューを書き込む様が描かれ、「これもまた飲食店版のリア充ランキングだ」と語られます。 *2 「 兵頭新児の女災対策的読書・Rewrite 」「 Rewrite(その2) 」など。  俺氏は「 リア充、爆発しろ! 」「 特定完了! 」の決めゼリフと共にリア充どもの「正体」を暴いていきます。  本作における「ENJバトル」、基本は相手のゴシップを集め、その正体を暴露するという、かなりゲスなものです。とは言え、まず最初に俺氏はこのシステムそのものを否定しており、「そうした手法を使わざるを得ない矛盾に苦悩しつつも、それによりシステムそのものを否定しよう」とするところにこそ、本作の醍醐味があるわけなのです。  例えば、第一の敵、「Mrエリート」。 「超一流」のブルジョワである彼は、90年代あかほりアニメのライバル役でよくいたような、何だかちょっとカマっぽいスネ夫キャラです。彼はまさにリア充のお約束の行動として、ディナーをツイッターにうpします。高級フレンチを食べたとドヤ顔なのですが……ん? よくよく見ると何だかコラ画像のような……ENJバトルで、彼が本当に食べていたのは牛丼であったと暴露されます。まさかこれ、内田樹師匠と古市憲寿師匠が元ネタになっていたり……しないよなあ?  案の定、Mrエリートの正体は単なる牛丼屋のバイトでした。イケメンのアバター(?)とは裏腹に、本人はデブなキモオタ。  しかし、本作の秀逸なのはここからです。Mrエリートは牛丼をバカにされ、本人の「牛丼愛」故にそれを看過できず、正体を現してしまう。俺氏はそんな彼の牛丼愛を讃えるのです。  何となれば、俺氏は愛を武器に、戦うのですから。  とあるブログで「俺氏は相手に同情も、ましてや嘲りもしない、 敬意を持って臨むのだ 」と評していた人がいました。まさに「それな」です。  以降も次々と現れるリア充どもの正体を暴くことで、俺氏はバトルを勝ち進むのですが――ここで更なるネタバレをしておくと、本作のもう一つのすごさは、その女性観のシビアさにあります。  Mrエリート自身は男性ですが、彼のパートナー「部下子」は「意識高い系OL」。  彼女は俺氏がMrエリートにとって不利な 客観的事実をツイートすると 、猛然と噛みついてきて「ツイートを消せ」「訴える」「弁護士と相談している」と恫喝を始めます。   本作は俺らの、ゲーム化です。  本作は「推理ゲーム」をフォーマットにしてはいるものの、あくまで「民意誘導」こそがその目的(何しろシステムの中に「民意先導スピーチ」というものがあります)。論理の整合性に重きが置かれているわけではありません。だからこそ女性対戦者は「女子力」をもって戦いを挑んできます。彼女らはみな一様に被害者ぶり、或いは色仕掛け、「私のことが好きなの?」と主人公に問うことでバトルを乗り切っていくのです。  第二話の対戦者himeが「誰かhimeを守って!」「himeを守ってくれる王子様はどこ?」と続け、俺氏に対して「ひょっとしてあなたが王子様?」と迫る展開は、敵ながらあっぱれです。  ちなみに第二話のタイトルは「ウソつきは姫の始まり」。もうこれだけで「はは~ん」となる人がいるのではないでしょうか。このhimeは日本のオタク文化を愛し、ユーチューバーとしての知名度を誇るブリュンヒルデ王国から来たお姫様。「クールジャパンを愛する異国の姫」というのが既にオタク心をくすぐる設定で(そんなの、宇宙からやってきたぼくのことを溺愛してくれる美少女、といっしょですもんね)、当初は「少女の憧れである魔法少女アニメが好き」と語っていたところを「魔法少女は少女のためだけのものではない」と反論され、「深夜の、ちょっとエッチな魔法少女アニメ」も好きであると語ることで支持を挽回する下りは見事です。そう、俺氏が指摘するようにぼくたちは「アニメには夢がある」など一遍通りなことを言う「にわか」を何よりも憎みますが、そこを「あなたたちの愛する、 欲にまみれた深夜アニメ をも、受け容れる」と言われたら、「あぁ、本当に俺たちのことをわかってくれるんだ」となって、一発でメロメロになっちゃいますよね。  そして彼女は最後に「 姫は姫でもオタサーの姫 」という正体を現します。  彼女の取り巻きである「騎士くん」は彼女を守ると称して(彼女に不快感を与えた者へと過剰な報復行動に出るなど)暴走を続けていました。俺氏は「仮にそれが姫の命じた行為ではないにせよ、男たちの歓心を買い、彼らを操縦していたことで責任は免れない」と憤ります。そんな彼女が「どうしてみんな仲よくできないの?」を連発することで俺氏の戦意を削ぐ戦術を使っていた(口先では平和を謳いつつ相手の攻撃を続けていた)ことがまた、見事。ここでは「女性性」、即ち「受動性というジェンダーが持つ攻撃性」が十全に描かれているのです。  最終的に、彼女はアバターを暴かれ、本来の姿を現します(アバターを剥ぎ取り、相手の正体を「特定完了」することが本作のクライマックスです)。王冠を被り錫杖を手にした異国の金髪の姫が、「 姫と呼ばれたかったーーー!! 」と絶叫しながら、 ネコ耳に魔法少女ステッキを手にした、ルックスも微妙でボディラインもたるんだ 「いまいち萌えない」正体を現す様は悲惨でもあると同時に、しかしその「残念さ」に萌えてもしまいます。結果、彼女は 少数のサークルの中でファンに囲まれながら、オタサーの姫 に戻るのです。  第三の敵はボカロ。とは言え、本丸の敵はこのボカロを操るプロデューサーであり、俺氏は彼と、オタク文化の尊厳を懸けた戦いを繰り広げます。ここで語られるのは、「愛もないくせに、金の匂いを嗅ぎつけ、外から俺らの業界に入ってきたものへの違和」。  まさか、こんなテーマを語ることが許されていようとは、ぼくは夢にも思いませんでした。何しろ現実のオタク世界を支配する「運営」は、オタクたちがそんなことに疑問を持つことを厳に禁じています。 思想犯は矯正されるか、アカウントを凍結されるしかありません 。しかし俺氏はオタク文化に愛のない者へと、果敢に噛みつくのです。   本作は俺らの理想を描いた、ゲームです。  もっとも、このボカロもまた、「いろいろあって、 リア充界から都落ちしてオタク文化 にすがるようになった」切ない正体を現すのですが……。  第四の敵は「ギャル」です。「スウィーツ()」とか「携帯小説」といった表現はさすがに古いからか表には出ませんでしたが、要するにそういう感じの人物。「オンナのコわ、もっとワガママでいいと思う」という彼女の「恋愛脳」から発せられるワードはその理解不能さで俺氏陣営を苦しめ、一方、彼女の著作に感化された女性たちは「モンスター女子」としてネットにもリアルにも夥しい被害をもたらしています。ツイッター上で萌えキャラが叩かれる描写も(ちょっと抑えたものですが)あり、これが実際のいかなる事件をモデルにしているかは明らかです。 「女子はか弱い。女子は守られなければいけない  そんな考えがどんどん過激にエスカレートしていって  ついには男子が女子のために尽くすのは当たり前  女子のために尽くすことが男子の幸せだ――  そんな思想を持って男子を虐げるようになってしまったんだ  今や 女子たちはモンスターそのものだよ 」   本作は俺らのゲームです。  このギャルのもう一つの決めゼリフである「愛があれば、言葉なんてなくたって気持ちは通じる」に対して、殊更に俺氏は批判的で、男女のディスコミにおける女性の「ムードでわかれ」圧力が、オタクにとっては極めてムチャ振りであることが、ここでは十全に描かれるわけです。  さて、ではこの「ギャル」がどうなるかというと――みなさん、そろそろおわかりになってきたかと思います。  対戦相手の正体は例外もあれど、ぶっちゃけてしまえば、みな「非リア」でした。だからこそ正体を現した相手と俺氏とは和解し、友情を育んでいく。作品として非常に後味のいいものになっているのです。  このギャルの彼氏は非実在であり、そして彼女の正体は――あぁ、やっぱり 腐女子 だったか! そんな「 脱オタ 」しようとしていた彼女が オタク としての生き方を取り戻すことが、本話のテーマだったのです。  また、彼女のケータイ小説は映画化などがされるにつれ、スポンサーの意向に振り回されるようになったと描写され、そのスポンサーである企業こそが悪ではないかとも暗示もなされ、「ラスボス」への伏線を張ります。  第五話は、中でも一番、女性へと辛辣な話でしょう。  対戦相手はイケメンアイドルなのですが、ここでは実際の事件をモデルにした「バンビーナ事件」というものが描かれます。「バンビーナ」とはこのアイドルのファンである女性を総称する言葉なのですが、かつてこのアイドルの(正確には彼がかつて所属していたグループの)ライブが急遽中止になり、地方から上京してきたバンビーナたちがコンビニや行政に食事や宿泊場所を無償で提供せよと主張、またバンビーナを狙う 性犯罪者がいるなどのデマまでをも流してしまう 、といった事件が起きていたのです(彼女らが「か弱いバンビーナを守れ!」と自ら発信していたというのがまた、見事)。それ以降、バンビーナたちはタチのよくないファンとして暴走することになってしまったのです。   本作は俺らの住む現実世界の、ゲーム化です。  また、このアイドルは同時に俺氏の幼なじみでもありました。  俺氏の非リア、コミュ障は、元を辿れば小学生時代の金魚殺しの冤罪を着せられた過去に起因します。  証拠もなく俺氏を犯人として糾弾するクラスの一同。その吊し上げ、 糾弾会 の様を、俺氏は「今思えばネットの炎上に似ていた」と述懐します。  が、そこをただ一人、幼なじみは俺氏をかばってくれました。二人の友情はそれをきっかけとしたものでしたが――ENJバトルの場で、衝撃的な真実が明らかになります。 実は金魚殺しの真犯人は、この幼なじみ でした。「俺がこいつの味方をしてやったら、女どもは俺のことを優しいと言うのだ。証拠もなく犯人と決めつけた相手に『死ね』と罵詈雑言の限りを尽くしたその口でな!」。 「傑作だろ! オマエに「しね!」と言った口で  今度はオレに「好き」だとかぬかしやがるんだからな!」 「今世紀最高のイケメン、オンナたちバンビーナと呼び  数え切れないオンナを抱いた肉食獣!  だが、本当の肉食獣はそのバンビーナたちだった!」   本作は俺らの、ゲーム化です。  ここではイケメンアイドルの女性への失望がイヤというほど描かれます。  彼は 虚飾の世界に疲れ果てたアイドル という「正体」を晒し、退場していきます。いえ、現実の世界では 「女性を罵るイケメン」はミソジニストと呼ばれることも決してなく 、充分に需要があることでしょうが……。  アイドルの明かした過去の事実には、女性性のリアルがこれでもかというくらいに描破されています。 「『死ね』と言ったその口でイケメンのことは『優しい』と言う」。  残念なことに近い事例は世間のあちこちで見ることができますが、これを分析するならば、「判断を強者に委ねた者」「観客であることを許された者」故の無責任さである、とまとめてしまうことができます。  そうした匿名性、受動性は女性ジェンダーのネガティビティでもありますが、同時にネットの特性でもあります。  本作は何よりもそうした匿名性をこそ、受動性をこそ「悪」であると厳しく告発しているのことが、おわかりになるでしょう(考えれば『 絶対絶望少女 』のテーマもまさにこれでした)。  この五話を最後に、本作は以降、最終編へと突入していき、「女災」的テーマからはいったん、距離を置きます。しかしラスボス戦においてすら、俺氏はこの「リア充至上主義社会」、否、実のところフォロワーたちのリアクションが、「いいね!」を押す者が主導権を握っている……えぇと、ポピュリズム社会、みたいな形容でいいのかなあ、ともかくそうしたものの裏を掻く「邪道」で勝利を収めるのです。  そして、もう一つ。  先にぼくは「俺氏」は愛を武器に戦うと述べました。  しかしその愛は、「リア充」の言う愛ではない。  オタクが愛と言う時、オタク文化への愛を指すことが多く、そのニュアンスに独特のものがあることにお気づきでしょうか。それは「自己愛(ナルシシズム)」と言い換えてもいいでしょうし、「ライナスの安心毛布的なものへの愛」と言い変えてもいいでしょう。ぼくは時々、オタク文化を「裸の男性性」と形容しますが、要するにオタクのキャラやコンテンツへの愛情は、自らの内面への愛情だとも言い得るわけです。  自分を愛することをタブーとし、女性に全ての愛を捧げよと命じられた男性が、 フェミニズムによる社会動乱に乗じて 、とうとう自分自身を愛するガジェットとして、萌えというものを発明した――それが、オタクの言う「愛」の実体です。  先に「俺氏は敵に敬意を持って臨む」との意見を引用しましたが、Mrエリートが牛丼を愛しているからこそ俺氏は彼と友になり、またhimeが「 オタどもを搾取するオタサー姫 」である点については厳しく糾弾しますが、 オタク女子として愛する作品 がある一面に対しては、リスペクトもします。  俺氏は「いいね!至上主義社会」を基本的に否定していますが、オタクの愛を信じることで、民意を自分側に向けさせもするのです。オタク文化をバカにしたMrエリートを批判することで流れを変える展開など、その好例ですね。  今まで貼ってきた画像をご覧いただければわかるように、本作のキャラクターデザインは「島本和彦」系です。実際、ファンの中にはデザイナーさんを『グレンラガン』の人だと信じ切っている人が結構いるようです。  島本和彦先生と言えば、もう彼自身を語るのに別な記事を五つも六つも書く必要が生じてしまう作家なのですが……要は「男性性というものが否定されてしまう状況下で、一度、男性性を笑いのめし、しかしその中から立ち上がっていこうという実験をした作家」と定義することができましょうか。  本作もまたその魂を受け継いでいます。  ぼくは以前、オタクの内部指向を「格好は悪いけど、ぼくは自分のニーズに没頭する」、「対外的には自虐しつつ、自らの欲求を吐露する、スタイル」と表現しました *3 。  本作では島本先生の「熱血→ギャグ」という流れを「オタクの自虐」に読み替えました。 「男の魂」を笑いのめし、しかし感動に持っていくという島本先生の荒技に倣い、本作はオタクの愛の全肯定という荒技を敢行した作品である、と言えるのです。  ――ぼくは一ヶ月ほど前、本当に何気なく本作を手に取り、そして毎話、感動と驚愕に震え上がりながら、終えてしまうのが惜しいと感じつつ、プレイを終えました。  が、大変残念なことに本作、一般的な知名度はそこまで高いとは言えません。  興味を持っていただけた方は、まず体験版を――と思ったのですが、プレステストアを見てもどこから体験版をDLできるのかわかりません。ニコ動ででも見て気に入った方は購入していただけたら……と思います。 *3 サブカルがまたオタクを攻撃してきた件  ――その2 オタク差別、男性差別許すまじ! でも…?
兵頭新児の女災対策的随想
「女災」とは「女性災害」の略。

男性と女性のジェンダーバイアスを原因とする、男性が女性から被る諸々の被害をこう表現します。



このブログでは女性災害に対する防災対策的論評を行っていきたいと思います。