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顔面核爆弾さん のコメント

>この記事への大半のコメントは顔面核爆弾さんにお譲りしますwwとても敵わねぇww

いやぁ〜、想田和弘師匠のチン騎士芸には大変爆笑しました(΄◞ิ౪◟ิ‵)
さすがは映画監督www
思わず想田和弘師匠のファンになりそうですwww
『日本における男性やアメリカにおける白人男性が、生まれながらにある種の特権的な立場(下駄を履かせてもらっている立場)に置かれている』という彼のツイートは次回作のプロットなのでしょうwww
これは間違いなく面白いファンタジー映画になりますよwww
そんじょそこらの荒唐無稽なファンタジー映画がノンフィクションに見えるほどのファンタジー超大作が出来上がるのを楽しみにしていますwww
と……まあ冗談はこれくらいにして、私の友人からも言われましたがチンポ騎士が存在する限り女災を根絶するのは不可能だと痛感させられますね。
このチン騎士監督もそうですが、リベラル君たちは大多数の日本人男性を殺したくて仕方がない様です。
兵頭さんも仰るようにミサンドリーは男女問わず持っている絶対普遍の感情です。明らかにミソジニーとは一線を画します。
男性権利運動に片足を突っ込んでいる私ですら日常的にミサンドリーを感じる時がありますからね。特に想田和弘師匠のようなチンポ騎士なんかは見ると奴らの股にぶら下がっている飾りを引きちぎってやりたくなりますよ(真顔)
まあミサンドリーを取り除くことは不可能でも弱者男性同士で強い連帯を作ることは可能です。フェミ率いるチンポ騎士によって支配されたこの世界に光をともすため、今日も弱者男性の輪を広げるために布教活動を続けていきましょう。
今のところ、私の周りで布教活動に成功したのは一人だけですね。私の父親も男友達も皆チンポ騎士に脳改造されており手遅れでした……。
中古で兵頭さんの著書を買い直し、今度は実の母親にも読ませました。
その時の詳細を下記に書いていきます。
私「マッマ〜、弱者男性が日頃どれだけ苦しめられているのか思い知るとええで〜」
マッマ「『ぼくたちの女災社会』……。ま〜た、こんな下らないラノベ買ったりして‼︎ この池沼息子がッ!」
私「ラノベちゃうわッ‼︎ いいかい、マッマ。この本には……」
マッマ「言い訳なんて聞きとうないわッ‼︎ どうせ主人公以外は皆んな美少女しかいない世界で『俺氏モテ過ぎヤレヤレ』とか言ってるテンプレラノベなんやろッ! もうそういうのには飽き飽きなんや。ということで、ルビー文庫を読みなさ〜い♡」
私「ルビー文庫とかBLかよ! まあBLにも大変素晴らしい名作があるのは認めるけど、今は兵頭さんの著書の話を……」
マッマ「前にジジイに破かれてたよね、その本www」
私「最初から分かってたんかい‼︎ なら話は早いね。この本には……」
マッマ「はいはい、弱者男性を差別してるのはボス猿の大将って話やろ」
私「えっと、それも間違いではないんだけど兵頭さんの本では……」
マッマ「でも、ジジイもお前の友達も全員兵頭とかいうのが書いてる本をバカにしたんやろwww つまり男性差別をしていたのはフツーに男だったというオチwww」
私「もう最後まで私にちゃんと喋らせてよね‼︎ 男と女には愛され格差という悲しい非対称性があって……」
マッマ「そして、その非対称性を作り出していたのは『男』であったwww」
私「も〜う、マッマは昔から人の話を最後まで聞いてくれへんなぁ……」
マッマ「そんなことないで♡ お前のクソつまらん話を茶化しながら聞いてやっとるやろうがwww」
私「もう、ホントにマッマはどうしていつもそんなにノリが軽いんやろか……」
マッマ「お前さんは女災が云々とジジイにも言っとったけどさ。本当は誰よりも『男らしさ』に憧れを抱いとるんとちゃうか?」
私「何を言ってんのや⁉︎ 私は男性が女性の奴隷にならなければ結婚もリプロダクションも出来ない現代の男性のジェンダー・ロールを批判しとるんやで!」
マッマ「男は女の子のために男らしくするんやないんやで。女の子を捨て身の覚悟で守ろうとする男らしい男に憧れを抱いとるから男らしくするんや。男は恋人や友達といった守るべきもの、要するに自分が『男らしさ』を発揮できる対象(≒自分より弱い者)のために生きとるんよ。男が『男らしさ』に惹きつけられる理由は自らの命の価値に自信が持てんからや。男であることは女であることよりも不安定なんやろなぁ。男は誰かのために捨て身の献身を捧げることでしか自らの命に価値を見出すことが出来ない不憫な生き物なんやで。だから、お前さんは男らしく出来ない自分と折り合いをつけるために『男らしさ』の酷さを掲げることで精神の安定を図ろうとしてるんや」
私「なるほど、バダンテールや渡辺恒夫さんやギルモアも『男のアイデンティティは不安定だ』的なことを言っていたね。そういえば、田中俊之も自分の著書でオタクについて『萌えとは美少女キャラクターに仮託された女性性によって男性性の欠落を充足させ、男性を単なる自己としてではなく、ジェンダー化された性的欲望の主体として構築するために創造された「異性愛」の一形態なのである(ドヤァ』と言っていたっけなぁ。要するに萌えで男らしさの埋め合わせをしないとアイデンティティが崩壊するキモオタは男権的な悪者だから差別してもOK的なことが書かれた本だったんだけど、オタクの味方を自称する皆藤君が何故か田中のようなフェミをメッチャ擁護する謎の発言をするといういつものパターンに溜め息が出たのを思い出したわ。男が女よりも不安定な生き物だと分かってるなら、今よりももう少しだけ労わってくれてもいいんじゃないかと思ったりもするんですがね……」
マッマ「労ってやっとるやないの、現在進行形で。フツーのお母さんはお前さんみたいなゴミ息子となんか会話すらせんやろwww」
私「う〜ん、そうなんやろか? まあ確かに家族制度なんて完全に崩壊したようなもんやし、親と子の関係なんかも今となっては他人のようなもんやろうなぁ」
マッマ「そんなのは昔からやで。ジジイなんかアタシやお前のことを死ぬほど嫌っとるやろwww 家族なんてものは一番身近な他人なんやで。どっちみち男尊女卑的な家父長制は母親だけでなく子どもも幸せにはせえへん。男なんかに権力を与えたところで碌なことにはならんのや」
私「……そうなんか」
マッマ「そうや。うちのジジイみたいに碌な努力もせへえん非モテ男が結婚できるような時代は明らかに間違ってたんや。古今東西あらゆる戦争は非モテ男によって引き起こされてきた。戦争とテロと犯罪、これらを引き起こす根本的な原因は男による異性獲得競争なんやで。はっきりと言わない男が多いけど、男は女にモテるために生きとる。だから、それがまっとうな方法でうまくいかなくなると、男は自分の人生をかけて一発形成逆転を狙うわけ。これが犯罪やテロの動機となってるんやwww 社会が高度化し、管理された組織のなかで秩序が求められるようになると、非モテ男は厄介者とされ、必然的に生きていくのが難しくなる。治安問題というのは社会からドロップアウトした『非モテ男』をいかに管理するかということなんやで。非モテ男は何をやっても許されるという自分勝手な思想の元に犯罪を引き起こす。自分は特別、何をしても許されるという自己顕示欲を神の名のもとに利用するのがテロ組織や。でも残念ながら、文明的な面を発展させればさせるほどに貧富の差は広がってく。合理性を追求する社会ではそうなっていくのは当然の話や。競争ではより優れた合理性が利益を独占していくから。それが合理性の本質やから。だから、これから社会からドロップアウトした『非モテ男』はより増えていくやろうね。そして、ヤツらは形勢逆転を狙ってとんでもない行動に出る。だからこそ、非モテ男は根絶せんとアカン。この世界にはリア充男と女だけがおれば、それでええんや。ということで、はよ死ねwww」
私「いや、そんなナチュラルに『はよ死ねwww』とか実の息子によう言えるなwww なんでどいつもこいつもネオリベ的な弱肉強食論を振りかざすんやッ‼︎ 私や兵頭さんのような弱者男性は何のために生まれてきたんや⁉︎」
マッマ「生まれてくるべきでなかったなwww そうだ、死のうwww」
私「いやいや、『そうだ、京都行こう』みたいな軽いノリでメッチャ恐ろしいこと言うのやめてくんないッ!」
マッマ「でも、ぶっちゃけ男って優秀なの一部で大多数ゴミじゃん。だから、男社会が大多数の女からウザがられてるわけで。イケメン以外のゴミはジェノサイドすれば、犯罪や戦争は今よりもずぅっと減るのは確実やで」
私「う〜ん、なるほど。でもさ、もし仮に男社会が解体されて意思決定者が女性になったとしてもビッグデータに結局従うんだから、あんまり世界は今と変わらんと思うんよ。ダサピンク問題の時もそうだったけど、フェミ二ストはビッグデータや人工知能については何故か触れずに男社会ガーといつもの陰謀論を展開するだけで建設的な議論をする気がまるでないのがホント残念……。もうさ、意思決定者に男しかいない云々は大した問題ではないんだよ。現実的に女がやっても現状は何も変わらんのやから(むしろ、悪化する可能性すらあるわwww)」
マッマ「ビッグデータも人口知能も『男』が作ったんやから女は関係ないっしょwww 結局世の中は男社会なんや。そうだ、男みんな死ねwww」
私「う〜ん……男が皆んな死んだらマッマどないすんねん?」
マッマ「アタシが猿山の大将じゃ〜www」
私「お、おう……なんというかマッマには一生勝てる気がせえへんなぁ。マッマと議論するの疲れたから自分の部屋でエロアニメでも見ながらシコろっと♡」
マッマ「言うの忘れとったけど、お前さんの部屋にあった不健全なエロ漫画やエロアニメは全部処分したでwww」
私「えぇッ⁉︎ 『小女ラムネ 第1話ちーちゃんと秘密のアルバイト』や『なまけもの -なまLO Re:- THE ANIMATION』や『ちっちゃなおなか 恵未ちゃんてさ Anime Edition』も全部捨てちゃったの⁉︎」
マッマ「あんな気色悪いもんでオナニーするのは止めてお前さんもBLを読みなさい‼︎ いっぱい名作を紹介したるから! あッ、そういえばBE・BOY GOLD (ビーボーイゴールド) 2017年 2月号とヤングエース 2017年2月号 増刊 エメラルド 冬の号をまだamazonでポチッでなかった‼︎ 忘れんうちにポチらんと、また忘れてまう! ほんじゃ、さいなら〜」
――自室
私「萌え系漫画が全部なくなってるぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅッ‼︎ To LOVEるの新刊まだ読んでなかったのに……。ラノベもなくなっているだとッ‼︎ ブラックブレットだけでもゼッテェ買い直すかんな……。ダンガンロンパや買ったばかりのネットハイも全部捨てられてるんですけどぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ‼︎ まだ途中だったのに……。気晴らしにamazonでレオナきゅんのねんどろいど買おう。プリパラのオールカラー漫画も買うとしよう。今夜は仕方ないから兵頭さんの『ぼくたちの女災社会』を最初から読み直して元気出すかなッ‼︎」
――THE END
No.7
96ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 長い間ご愛顧いただいた「男性学祭り!!」も今回が最終回となります。  が! 実のところいまだ、『広がるミサンドリー』を読めておりません。先日、ようやっと三章までを読み終えたばかり。いつまで経っても終わりそうもないので、取り敢えず、この辺りで中間報告をしようと思った次第です。  と言っても、正直現時点でのぼくの評価は、あまり高くありません。  目次を見る限り以降の章も期待できないな……という印象なのですが、終章が「結論」となっており、ここで評価がひっくり返る可能性は大いにあります。  今回はあくまでその前哨戦ということで、ご理解いただきたく存じます。  ――本書を読んでいて思い出したのは、「男性差別告発本」(以降、「男性差別本」)です。  具体的な書名を出すことは差し控えますが、ぼくが『女災』を出版する以前、「男性差別本」とでも称するべき書籍が五、六冊ほど出版されました。言うまでもなく学者や評論家などが出したものではありません。文章のプロではないと思しき方が、自費出版と思われる形で出したそうした書籍が、いくつかあったのです。  ぼくとしては、その心意気を評価するにやぶさかではないのですが、内容は乱暴に言ってしまえば「○○は男性差別です、○○は男性差別です、○○も男性差別です、終わり」という感じで、あまり本として完成度が高い、批評性が獲得できているとは言い難いものがほとんどでした。指摘一つひとつは頷けるものが多いし、そもそも男性の窮状を表現しようとした時、既存のガクモンを援用すればフェミニズムの罠に絡め取られるし、何もない荒野に一から街を建設するが如き大事業が必要とされるのですから、そうそう辛辣に評しては悪いのですが。  或いはここでドクさべを思い出してもいいかも知れません。「女性専用車両は男性差別です」という指摘自体は頷けるのですが、彼はそこで考えることを止めてしまい、そこに「 一般女性への恫喝 」というステキなトッピングを加わえ、全てを台無しにしてしまいました。  本書もまた、上の「男性差別本」と、基本は変わりないように思います。 「日本語版への序文」では  イデオロギーフェミニズムは確かにこの問題(引用者註・男性問題)を悪化させはしたが、しかしこの問題の原因ではない。 (6p)  とあります。ぼくはまずこれに賛同します。 「序論」とも言える第一章では、  ミソジニーのようにミサンドリーは文化的にプロパガンダされたヘイトだ。 (26p)  とあります。  以前にも「愛され格差」と表現したように、ぼくには男女のジェンダー差は超えがたいものであるように思えるのですが、とは言え、男性の株がここまで下がったのは近年のことであるのは事実で、一応、これにも首肯しておきましょう。  もっとも上の文章の脚注で、著者は「ヘイト」は感情ではない、という摩訶不思議なことを言っています。これは恐らくフェミニズムが「ミソジニー」などといったフレーズを「攻撃呪文」として使う時になされる、「公共性のある表現は感情の発露であるに留まらず政治性を帯びる(ので、 碧志摩メグは規制せよ )」というロジックの「パクリ」と思われ、だとするならば許容できません。が、この問題は七章で詳述するとの予告があるので、まずは置きましょう。  以降も「男は男であるだけで断罪されなくてはならぬとされ、女は女というだけで救済されなくてはならないとされる(大意)(29p)」、「女はヒーローとして扱われ、男が肯定されるのは、改造され、去勢され、名誉女性になることによってのみのだ。男のための部屋は、この世にはない(大意)(30p)」などといった、非常に頷ける指摘が続きます。  また、以下のような指摘もなされます。  ポピュラーカルチャーにおけるミサンドリックな芸術や作品は、政治的な主張を必ずしも意図しているわけではない。大部分のそれは、既に私たちの社会に根付いている偏見をただ単に反映しているだけにすぎない。 (30p)  まさにその通りで、ここを忘れるとフェミニズムと同じ、「悪者がメディアを操り大衆を洗脳をしているのだ」という陰謀論に陥ることになります。彼女らが「 カウンターとしてジェンダーフリー教育で子供たちを逆洗脳しよう 」と企み、惨めな失敗を繰り返していることは、最近 *1 も述べたかと思います。  以上、著者たちの視点は、是非は置くとして極めてラディカルで刺激的。  ところが二章以降の言わば「本論」に入ると、申し訳ないですがいささか退屈なものになっていきます。そう、テレビのバラエティーショー、ドラマ、映画などを採り上げての「○○は男性差別です、○○は男性差別です、○○も男性差別です」攻撃が始まるのです。 *1 「 秋だ一番! 男性学祭り!!(その2.『男子問題の時代?』) 」  第二章は「笑われる男性」。ここでは  第六六回アカデミー賞授与式でされた司会のウーピー・ゴールドバーグのお決まりのコメディには以下のジョークが含まれていた。「次に紹介するプレゼンテーターの一人はサルの心を持っていた男を映画で演じた女性です、私の経験ではそのような男は珍しくありません。」「ロレーナ・ボビット〔夫ジョンの男性器を切断した〕は、 是非ボブ・ドールにもやってほしい 。」 (54p)  といった下品なジョークでいかに男性が笑われているかを紹介します(ボブ・ドールは共和党の政治家ですが、殊更にフェミに嫌われるような人なのか、調べてもよくわかりません)。  第三章「男性への見下し」のリード文では 私は男性が嫌いというわけではない。単に女性の方が優れているというだけだ。[…]とても賢い私の友人が訪ねた(原文ママ)。「すごく優秀な男性だけしか女性に釣り合わないことに気付いていた?」その瞬間、頭の中で火花が走ったわ。 (85p)  というアンナ・クィンドレン(『ニューヨークタイムズ』の記者)のインタビューを引用します。  映画『シーセッド・ヒーセッド』には典型的な「男はダメだが女は進歩派」史観に基づいた男女が登場します。最終的にこの二人は結婚するが、男が結婚と共に性的自由を手放すのに比べ、女は何も手放しません。これはヒロインが一流の女性で、男の稼ぎに頼らなくていいため。著者はこの映画には男の求める性的自由は悪、女の求める経済的職業的自由は善である、との前提がある、と指摘します。  確かに一つひとつは見ていてムカつくのですが、こんなのがずっと続くので読んでいていささか食傷気味になります。  アペンディクス1「準ミサンドリック映画」では映画『ピアノ・レッスン』がやり玉に挙がります。  しかし読む限り、他愛ない「悪い夫から逃げた女性が再婚して幸福になる物語」を、著者が大仰に糾弾しているようにしか見えません(むろん、大前提としてそれが「声なき女性の声を拾い上げた素晴らしい映画」と大仰に称揚されているからこそなのですが)。 「男が悪者になっている」映画は全部けしからぬ、ではフェミニストの「表現狩り」と同じですし、ましてや現実の世界でも、「男性が女性に暴力を振るう」ことがその逆よりも多いことは自明であり、そこに文句を言っても仕方がありません。かつて、漫画の少女キャラが少年キャラよりも背が低く描かれていることを差別であると言い立てたフェミニストがいるのですが、著者の口ぶりは何だかそれを思い出します。  何より奇妙なのは、この映画のラストで、「悪い夫」にいじめられていたヒロインは「よき男性」と再婚し、幸福になるのです。レズになるのでもなく、一人で生きるでもなく。  それにも関わらず、著者はここに噛みつき、「言い訳だ」とにじり寄ります! これは「フェミニズムの押しつけ」との追及をかわすために、 言い訳として用意されたラスト なのだそうです。  そんなバカな。単に商業映画だからハッピーエンドにしただけでしょう(もっとも、この点も指摘されてはいます)。  こうなると、「証拠がないことこそ悪者が証拠を隠した証拠」という陰謀論です。著者はもう、相手を追求するためにあるかどうかもわからない動機を勘繰る、フェミニストモードに入ってしまっているのです。  本作は、ヒロインが二人の男性から求愛されるという、ただの、よくあるレディースコミックに過ぎません。もっとも最終的に彼女を娶るのが元使用人であり、最終的にマオリ族に溶け込んでいくというびっくりなオチは反レディコミ的ではあるのですが。よくわからないのはこの二人目の男性はヒロインの指を切り落としてしまうというとんでもないやつで、どう考えても正義のヒーローにやっつけられる以外のオチのつけようがないところを、何故かヒロインとハッピーエンドを迎えるのです。どうも西洋文明をドロップアウトすることで「贖罪」がなされるというのが本作の思想のようで、フェミと言うよりは また何か別なPC のために作られた映画のように思われます。  いずれにせよこの映画評については「差別ケシカラン」というPCの暴走にしか読めないし、本編にもまた、(概ね頷きながら読んだものの)その萌芽はあるように思われます。  こうした「男性差別、男性差別」といった(ちょっと冷静さを欠く)連呼は「男性差別クラスタ」のリアクション、「男性差別本」のスタンスとも「完全に一致」しているのですが、もう一つ、ちょっと思い出したことがあります。  随分昔、『君はペット』という少女漫画がドラマ化された時の、2ちゃんねる男女板の反応です。要するに女性がイケメン君をペットとして飼うという(漫画原作の)ドラマが放映されたことがあるのですね。 「けしからぬ、仮に男女を入れ替えた作品があったとしたら、それが許されると思うか」。  確かにそれはごもっともです。  ただ三点、指摘しておかねばならないのは、エロ漫画、エロゲで幼い女の子をペットにするような話は、いくらでもあるということ。しかし一応、男たちはそれを反社会的表現とわきまえ、「ポルノ」という枠に押し留め、「裏物」としてきたのです(オタクを殲滅するため、オタクの味方を自称してこれら裏物を表に出そうとする悪の組織が存在することについては、本稿ではひとまず置きます)。  それに比べ、女たちは自らが加害者になることに全く内省がないので、こうしたものを地上波ゴールデン枠で流してしまう、そここそが問題なのではないか、というのが、まず一点。  もう一点は、上の観点に対する反論。確かに男女のジェンダーを考えた際、女性が上のような(男性をペットとして飼う)ことはリアリティは低いので、男性向けのそれとは同一に語れない。事実、上の作品は(すんません、未見なのですが)恐らくポルノ的な表現はなされていないはずです。ある種のインモラルさを持つ作品でも、そうした女性向け作品の特質故、ある程度、「ゴールデンでも観れるモノになってしまう」、即ちここにも男女の非対称性が動かしがたく横たわっているのであり、何でもかんでも逆転させて「 差別だ、さあどうだ 」と言うだけではあまり効果がない。  三点目として、しかし更に、女性には「被害者を装うことによる加害者性」というまた別な「加害者性」がある。そこをこそ自覚し、また批判されるべきであるということ。  即ち、「男が悪者扱いされている、許せぬ」と言いたいのであれば、映画におけるその断罪があからさまに過度であるとか、女の加害者性(被害者に居直り、無責任なまま、罪が糾弾されない、或いはヒーロー役の男性が彼女の意を汲む形であからさまに過度な攻撃を悪役男性に向けるなど)をこそが糾弾されないとならないのではないか。  ぼくが『ダンガンロンパ』 *2 や『ネットハイ』 *3 などを紹介してきたのは、これら作品がそうした批評性を持っていたからでした。想像ですが推理物という「犯人の心理を分析する」内容が「女災を考察する」ことに親和性があること、もう一つはゲーム業界は出版業界と違って フェミによる「検閲」 がなされていないことが、これら作品群が優れた批評性を獲得できた理由ではないでしょうか。  しかし、残念なことですが、少なくとも本書の筆致を見るに、著者たちがその辺りについて考えを巡らしているとは、ぼくには思えませんでした。 *2 「 これからは喪女がモテる? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ! 」 「 被害者性と加害者性の微妙な関係? 『スーパーダンガンロンパ2』の先進性に学べ! 」 「 今までの「オタク論」は過去のものと化す? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ! 」 「 これからの女子キャラクター造形はこうなる? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ! 」 「 弱者性と強者性は転倒する? 『絶対絶望少女』の先進性に学べ! 」 *3 「 ネットハイ 」  繰り返すように、ぼくは「男性差別」という言葉を好まない。それは、言ってみれば「男性差別」というワードそのものに「批評性の欠如」という欠陥が内包されているから、とでもいうことになるのです。  見てきたように「男性差別本」やドクさべの敗因は「男性差別!」と叫んだ時点で、「 何か、勝った 」気になったところにあるとしか、言いようがないのですから。  ならば、「ミサンドリー」という言葉はどうでしょう。 「ミソジニー」とは「女性差別」をただ単にカタカナにしてみただけの、粗雑な言葉です。そして「差別」よりもタチが悪い、「女性に対する嫌悪」という感情そのものを糾弾せよというおぞましさを含んだ言葉でもありました。 「ミサンドリー」もまた、それと同様であり、同じ轍を踏む可能性が大いにありましょう。本書のタイトルに「ミサンドリー」との言葉が使われ、副題に「男性差別」との言葉が使われているのは示唆的です。  が、とはいえ、もう一つ、この言葉にはラディカルさが内包されているとも言えるのです。  というのも、以前も指摘したように、「ミソジニー」が非実在、穏当に言っても局所的なのに対し、「ミサンドリー」は普遍だからです。  もちろん、それならば同様に「女性差別」が非実在なのに対し、「男性差別」が普遍だからラディカルだぞ、とも言えるのですが、まあ、ぼくが「男性差別」という言葉を嫌うのは論者たちのその「普遍」に対する洞察の低さが原因とも言えましょう。  それに比べ、「ミサンドリー」は話を感情の問題であるとしたという点では、明らかに一歩進んでいるのです。「男性差別」という言葉が男女の超えがたい「愛され格差」を勘定に入れていない言葉とするならば、「ミサンドリー」はそこに 真っ向から切り込んだ言葉 、と言えるわけですから。 (いえ、この非対称性を、「ミサンドリー」論者がどこまで理解しているかとなると、甚だしく疑問ですが……)  本書について退屈だ退屈だと書きましたが、学術的な本である以上、ある意味「地味で退屈な調査結果の報告」という側面は避けられない。そういうことも大事ですから。  それにまた、先にも述べた通り、「結論」では新たな視点による論理展開がなされている可能性は充分にある。  ここしばらくあちこちで書いてきた文章と本稿で、ぼくの「ミサンドリー」という言葉に対するスタンスは大体、述べられたかと思います。  後は、本書がそれを超える視点を提示してくれることを祈りつつ、四章以降に取り組んでいくことにしましょう。
兵頭新児の女災対策的随想
「女災」とは「女性災害」の略。

男性と女性のジェンダーバイアスを原因とする、男性が女性から被る諸々の被害をこう表現します。



このブログでは女性災害に対する防災対策的論評を行っていきたいと思います。