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フェミナチガガガ(その2)
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フェミナチガガガ(その2)

2019-06-07 22:22
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     こんばんは、先日、特撮オタク仲間と飲んでいて『トクサツガガガ』の話になり、「女性の特撮ファンは我々以上に大変ですよねえ」などと言われ、軟弱にも適当に調子をあわせてしまった兵頭新児です。
    (『トクサツガガガ』的イントロ)
     いや、だらしないとお思いかもしれませんが、別段そこまで深いつきあいのあるわけでもない相手です。まるで仲村さんが職場では特撮オタクである自分を必死になって隠しているように、こちらとしては自説を隠すしかないのです。仲村さんが自分が隠れオタであることを正当化するため、ヒーローが周囲の安全のために自分の正体を隠していることを引きあいに出していましたが、その時の仲村さんの気持ちがわかったことでした、マル。
     終わってしまいました。
     もう少し続けましょう。
     前回記事では、ドラマ版の『トクサツガガガ』について述べました。そこでは「原作はさほどムカつかなかった記憶があるので、NHKがフェミのテキストとして改悪しちゃったんじゃないか」とでもいったまとめ方をしておきました。まあ、原作については記憶が曖昧なまま批判しても……という気持ちが手伝ったせいもありますが。
     しかし、仮にですが、ドラマ版が原作に忠実だったとしたら、それはそれでNHKへの冤罪になってしまいます。そんなわけで原作を通読しようと思い立ちました。
     もう一つ、前回記事に添える画像を探していて、原作漫画の表紙の画像を見た時、「随分と険しい顔のヒロインだなあ」という印象を持ちました。今回掲げた、この絵ですね。美人を描けないのか、美人を敢えて外しているのか、或いは「ヒーローっぽい、勇ましい顔」を描こうとしてこうなっているのか。裏腹に、ドラマ版ではどうしても美人の女優さんが主演することにならざるを得ません。前回のトップ画像と今回の画像を並べると、やはりそこは一目瞭然ですよね。そうした「計算外の、何とはなしにそうなった」部分で作品のムードに違いが出ている可能性もあるよなと。
     そんなことも念頭に置きながら再読を始めたのですが……すんません、やっぱりムカつきましたw
     まあ、そういう次第なので、ファンの方は以降、お読みになりませんよう。
     また、ネタバレもガンガンしていきますので、そちらの方もご了承ください。

     ●ウソマツ作戦第一号

     ――というわけで、今回は見出しタイトルあり。それも特撮作品サブタイトルのもじりというありがち企画。しかし考えると『ガガガ』はここまで特撮リスペクトしておきながら、サブタイトルだけは普通なんですよね(まあ、特撮サブタイトルったって70年代東映風、円谷風、戦隊風とそれぞれ全然違いますしね)。
     それはともかくとして、まずは本作の基本ラインをご紹介しましょう。
     上に、表紙の仲村さんの表情が険しい、と書きました。しかしその第1巻の表紙をめくってみるとこの仲村さん、冒頭から美人……というか柔らかな表情で登場して、同僚たちと会話を交わします。「仲村さん、今日こそ飲み会行きましょうよ」「ごめ~ん」「デートかしら」。
     あ~あ、って感じですねw
     もちろん、「デートどころではない、実は特オタで、番組を観たくて早く帰宅しているのであった」とひっくり返すための演出ではあります。
     しかしその後も弁当を作るのが上手くて同僚から「女子力高い」と羨望の目で見られるとか、そんなハナシの連続。しかし本人はどこ吹く風で「なんで君たちの話は着地点が常に女子力なの!?」
     また、小野田君という後輩の男の子に憧れられている描写も鉄板で入ります。仲村さんの言葉に一喜一憂する小野田君だが、仲村さんは特撮のことを考えているだけ、という。
     あ~あ、って感じですねw
     ドラマ版で目立っていたチャラ男も登場しますが、比率的に逆という感じで、こちらの方が目立っています。
     他にも「任侠さん」(前回、「おもちゃ屋」と書きましたが、「お菓子屋」だそうです)やネパール料理店のネパール人など、仲村さん、やたらと男性を怒鳴りつけたり、しばいたりします
     実のところ、後々オタク友だちとつるむことが増えてからは「喪女」的な描写も入るのですが、とにもかくにも初期には男女問わず、誰もに愛される仲村さん、という描写が多く、いかにも嘘松です。

     同僚たちにカラオケに誘われ、一般の歌を全く知らない仲村さんが進退極まり、特撮ソングを歌う、といったストーリーも描かれます。「子供の頃見てた」から知っているのだと言い訳しつつ、あまりテンション高く歌わないように注意、英語の部分が変に上手く歌えるのも不自然なので濁し気味に……あ~面倒くさい! それなら歌わなきゃいいじゃん!!
     ぼくがあまりにこうしたことに無頓着だから、ことさらに違和を感じるのかも知れませんが、こういうの、「オタクあるある」なんですかね。確かに、「一般人に対してはまずはジブリアニメの話題で攻めろ」的なネタは、ぼくが前回言及したような「オタクネタ」の漫画などでもよくあるのですが、仲村さんの話はやたら細かいだけで「あるある」という気にさせてくれないんですよね(それを言えばそもそも、この作品に出て来る「特撮あるある」はあんまり頷けないものが多いんですが)。
     とにかく自意識がひたすらに肥大化しているこの仲村さん、あんまり彼女になって欲しいとか友だちになりたいとか、思えない。逆に言えば萌え漫画に出て来るオタク女子キャラは、そうしたテンパり具合に愛嬌があるから可愛いのですが、それはやはりそうした自意識、虚栄心に対する冷静な視点が担保されているからでしょう。つまり「オタクあるある」にしても、自意識の中にずっぽりハマり込んでいる(これは女性の描く漫画の特徴であり、魅力にもなり得るのですが)がため、見ていて退いてしまうわけですね。
     ただし、前回書いたドラマ版の、残業をやらされ愚痴を垂れる話、原作ではさほどおかしな話ではありませんでした。台風のため電車が止まり、帰宅困難に。そこで同僚と歩きながら、「早く帰りたい理由は人それぞれ」と語る話で、一応納得のいくものになっています。

     ●あっ! ゴジラも戦隊も私ごとになった!!

     さて、しかし同僚のOLが、イケメンが新人時代に出ていたからと特撮番組に興味を持つ話もあります(この下りは、ドラマでもありました)。その同僚に、仲村さんは実に熱心に「布教」しようとします。ところがそんな「イケメン好きな異民族」は「変身して以降のシーンは飛ばした」と邪気なく言い、がっくり来る仲村さん、それでも布教をあきらめません。
     しかし、何でそうまで熱心なのか、ぼくにはさっぱりわかりません。この「布教」自体、オタク用語としては一般的ですが(つっても女性がもっぱら使っている気がしますが)、正直、ぼくにはピンと来ない概念です。
     巻を重ねると、吉田さんという女性が登場します。彼女は年上で、言わば仲村さんの先輩特オタとも呼ぶべき存在なのですが、この同僚を仲間に引き入れるのに、いちいち吉田さんの指示を仰ぎ(職場は全然違うのに!)二人で「○○さんは眼鏡男子萌えだから眼鏡男子の出て来る作品を……」など実に熱心に計画しあいます。しかし、何でそこまで情熱を注ぐんでしょう。まあ、「男女ジェンダーの違い」と「ぼく個人の性格」が重なり、ことさらに違和を感じるのでしょうが……。
     本作は性質上、「劇中劇」が大量に登場します。一番目立っているのが「戦隊シリーズ」を元ネタにした『獣将王』*1。上の友だち作りのエピソードが延々、『獣将王』と並行して描かれるのです。
     この『トクサツガガガ』を「どんな作品か」について一言で説明せよと言われたら、「私ごとのこもごもを特撮作品に準える話」とでもいうことになるでしょうか。例えば(以下は、記憶で書くので実際の作品とは違うかもしれませんが、あくまで「例えば」ということでご理解ください)、同僚に「特撮なんて興味がない」と言われてがっかりした仲村さん、というシーンに続いて、獣将王が一匹狼の戦士に共闘を呼びかけるシーンが描かれ、「心を込めて訴えれば、相手も心を開いてくれるはずだ」と語らせるなど。
     そう、人間関係のこもごもがテーマのため、獣将王はひたすら仲間同士の人間関係にばかり思い悩んでいます。たまには「正義のために」とか「平和を守る」とか言ってください。いえ、近年の作と考えればこんなものでしょうが。
     そして初期巻以降、このパターンが確立、定着してしまいます。
     しかし、どうもこの方法論(日常と特撮作品のワンシーン、ないしは特撮の制作現場でのエピソードを対照させる)、しばしばうまく行っていません。
     例えば6巻にあったのは「会社の同僚みんなでバーベキューを計画するが、買い物の分担ができておらず、野菜や酒が足りないと揉める、しかし特撮作品も常にトラブルに見舞われつつ現実に対応して完成させるものだと思い直し、何か、バーベキューを楽しむ」という話。
     何だそりゃ。
     7巻でも「縁日の迷子をよかれと思い肩車して父との約束の場所を捜す。しかしそれは子供の視点を奪うことで、かえって子供は迷ってしまった」というエピソードに、「巨大ロボなどを見上げる演出で、複数人の場合、同じ対象物を設定するとかえって不自然なので適当にそれぞれが視線をずらす」という特撮演出の蘊蓄が絡めて語られます。つまり一人はロボの頭部を、一人は全身を、一人は腕を見ているといった想定をして撮影した方がリアルだという話ですね。しかしこれは「子供視点で見ろ」という今回のテーマと全く噛みあってません。
     敢えて擁護すればこれ、週刊連載であり、お話を作るのも大変なんでしょうが、だったら素直に続き物にした方がいい気がします。
     それと、これは本当に余談ですが、本作ではキャラクターが自己主張する時、妙なパフォーマンスをする、という決めパターンがあります。と書いてもよくわからないでしょうが、例えば(以下は、記憶で書くので実際の作品とは違うかもしれませんが、あくまで「例えば」ということでご理解ください)、同僚に特撮のDVDをいろいろと貸してあげたのに迷惑がられ、がっかりした仲村さん、ファミレスで吉田さんに愚痴っていると、吉田さんはいきなり大量のメニューを注文し出す。慌てて止めると、「そういうことよ。いきなり観賞しきれない量のコンテンツを押しつけられても困るでしょ?」と説く。何か、このパターンがやたら多くて、奇妙です。もう、このパターンだけ独立させて漫画にしちゃった方がいいんではと思うくらい。『価値観の実演押し売りをする吉田さん』とか。あ、お断りしますとこのタイトル、『からかい上手の高木さん』とかああいうののイメージです。
     あ、アレですかね、『覇悪怒組』の魔天郎のパロディですかね(適当)。

    *1 「ジュウショウワン」と呼びます。何で「王」だけ中国語読みなのか。『ジュウショウオー』でいいのでは。明らかに戦隊なのですが、正式タイトルは『獅風怒闘獣将王』。『獅風戦隊ジュウショウジャー』でいいじゃん。

     ●怪異! フェミ女

     本エントリのタイトル(「フェミナチガガガ」)、言うまでもなく本作に対する「特撮について語ってなどいない、フェミニズムについて語る作品だ」といった揶揄を意図したものなのですが、では仲村さんはフェミニストなのでしょうか? 或いは、作者は? ぼくがフライングで「フェミ」と呼びつけているだけの可能性はないか? そこを本項では検討してみたいと思います。

     前回に言及した、「女性の特撮愛好」を「ランドセルの色の選択」に準えて語るエピソード、原作の1巻にもありました。例のマクドで特撮フィギュアを欲しがる小さな女の子のお話ですね。
     ここで、仲村さんは黒いランドセルの欲しい子だったとのエピソードが語られます(ドラマでもこれがあったかどうかは失念)。これはどう見てもジェンダーフリーの影響があるように思えるのですが、どういうわけか冒頭でまずラベンダー色のランドセルを背負っている子供が出てきて、同僚が「今の子は選択肢があっていいよね」と言うのに対し、仲村さんは疑問を呈するというシーンがあり、今一意図が読めません。
     しかし、いずれにせよいつも言うように「女の子が黒を選ぶと叩かれる」との「一般論」とは裏腹に「女の子の黒を選ぶと大仰に称揚される」、そして「男の子が赤を選ぶのはよいことと口先では言われるが、実際には叩かれる」というのが世の実情。実のところ女性にだけ選択肢が用意されているという現実を、こうした作劇は全く見ないままになされているわけです。
     そして5巻では、さらに奇矯な主張がなされます。「任侠さん」の店の常連である勝気な少女(未就学児童)が出てくるのですが、その子にピンクの服を見せびらかされた仲村さんは、彼女を泣かせてしまいます!! 何だそりゃ!? 一応、仲直りする、謝るという展開ではあるんですが、何なんだ、この女。
     仲村さんは、自らをピンクアレルギーと称しています。何でも「ピンクは好きだが、ピンクを押しつける世間が許せぬ」のだそうです。何だそりゃ!?
     言うまでもないことですが、「ピンク」とは女性性の象徴そのものであり、ここには仲村さんの、女性性に対する実に面倒くさいアンビヴァレントな感情が如実に表れています。前回申し上げたように、本作では仲村さんのお母さんが「女性性」を押しつける世間の象徴として登場します。母親の押しつけてくる可愛らしい服が嫌で仕方がない仲村さん、といった描写が、繰り返し繰り返しなされます。しかし、「ピンクは好きだけど、押しつけられたくない」のであれば「単に、自分でピンクの服を買って着ればいい」はずではないでしょうか。ぶっちゃけ、「押しつけられる」のが嫌だというのは嘘で、「好きだということを見抜かれるのが嫌」というのが本当のところでしょう*2。そこに横たわっているのは専ら、仲村さん(というか作者)自身の「自分とピンク(=女性性)について逡巡し続ける自意識」ではないでしょうか。
     いささか余談ですが、こうして書いていくと、「モモレンジャー」をふと、想起しますよね。「ピンク」という女性性を武器にしたからこそ、特撮番組という男社会の中で輝くことのできた、女児にも大いに支持されたキャラクターのことを。『獣将王』にもヒロインはいますが、イメージカラーはイエロー。もっとも、これは単純に獣将王が三人組のチームだから、ということもあるかもしれません。また、1988年の『超獣戦隊ライブマン』で「紅一点」が「ブルードルフィン」という青の戦士となった辺りから、「戦隊のヒロインはピンク」というお約束も揺らぎ出しました。作者はその後の世代で、あまりモモレンジャーには思い入れもないということもありましょう。

    *2 今回は詳述する暇がありませんが、「黒いランドセルを選ぶと文句を言われる」「人にピンクを押しつけられる」という女性たちの物言い、実は「痴漢冤罪」と構造が全く同じで、かなりの比率で「彼女ら自身の内面の声の外在化」であるように思います。
    「痴漢」が往々にして不在であることが想像されるように、「彼女の黒いランドセルに文句をつけた人」も「ピンクを押しつけた人」も非実在である割合がかなり高い、と思われるのです。

     さらにさらに余談ですが、もう一つ。本作には『ラブキュート』という『プリキュア』をイメージした女児向けの少女物アニメも登場します。12巻ではドラマ版でもクライマックスとなっていた母親との対決シーンが描かれるのですが、ここで母親に気持ちを理解してもらえなかった仲村さんはふと、『ラブキュート』に思い至るのです。『プリキュア』同様にいくつもシリーズが作られている『ラブキュート』、初代作は濃い目のカラーリングだったのが、今はピンクが多用されている。これは『プリキュア』初代作では黒と白という少女物らしからぬイメージカラーが使われていたのが、すぐに原色を多用するようになったという事情が元ネタになっています。それを想起して仲村さんは「どうしてみんなの努力がうまく行かなかいのだ?」と自問するのです!!「みんな」って、誰だよ、「みんな」って!?
     つまり、自分の(フェミニンなものよりも特撮ヒーローが好きだという)気持ちが母親に通じなかったことを、「白黒のプリキュアが女児に受け容れられなかったこと」と等価の現象として、仲村さんは引きあいに出しているのです。
     確かに、初代の『プリキュア』は変身シーンもメタリックに輝くというおよそ女の子向けらしからぬもの(これも次回作以降はひらひらのフリルをまとう、流れるような髪がセットされる、唇にルージュが引かれるといったガーリッシュな変身シーンに取って代わられます)で、アクションも『セーラームーン』と打って変わって肉弾戦でした。即ち、初期『プリキュア』は明らかにフェミニズム的意識を持って制作され、しかしそれは女児に受け容れられず、路線変更した。それを、仲村さんは忸怩たる思いで想起していたのです*3
     長くなってしまいましたが、ともあれ仲村さんはまさに初代『プリキュア』同様、フェミニズム的価値観を内面化しているのです。

    *3 ただ、この辺のこと、ぼくは折に触れ言及していましたが、ぼく以外にこういうことを言っている人って初めて見た気がします。或いは結構言われてることなんですかね?

     さて、長くなりましたが5巻のエピソードに戻りましょう。「ピンクを押しつけてくる世間への怨嗟」はただちに「特撮好きと言うと、イケメン俳優が好きなんだろうと決めつけてくる世間への怨嗟」へと直結していき、「じゃあカピパラ好きはカピパラと結婚したいと思っているのか」、などとわけのわからない逆切れへとつながっていきます。カピパラと結婚式を挙げている男の絵が描かれ、脇に小さく「そういう人もいるかもしれないけど」などと書き添える、「ダイバーシティへの配慮」もなかなかに味わい深い名シーンです。しかし、カピパラ好き(のほとんど)はカピパラに性欲を覚えていないのに対し、イケメン好きは性欲由来なのだから、そんな細かい「言い訳」をされても、とこちらからは思えてしまいます。
     これはまた、仲村さんの「オタ友」である北代さんのエピソードでも描かれる「言い訳」です。
     前回も書いたように、「ブスで愛想の悪い、ドルオタ北代さん」というこのキャラそのものが、ぼくの目からは詐術に見えます。つまり、作者は「イケメン好き」という要素を自分から分離して脇役に担当させることで、自分のアイデンティティを守っているわけですね。また一方、この北代さんの不愛想さは当初「敵」として登場してくるという作劇上の理由もある一方、やはり「イケメン好き」という心理をガードする役割をも、果たしています。萌えアニメに出てくる腐女子キャラはイケメンを見るやキャーキャーはしゃぎ、そこが可愛いのですが、作者としてはそうしたキャラは、(北代さんの子分という形でまあ、そういうキャラも出て来るのですが)描きたくない。
    「可愛くなりたくない(=ピンクを着ることで、自らの女性性を直視したくない)」というのが、作者の中にある一貫した心理というわけですね。
     2巻では、以前いた会社でオタバレして、大変な目に遭ったという、北代さんの過去が描かれます。とはいっても、会社の連中は「気にしないよ」「(君の推しである)その子と俺と、どっちがイケメン?」などかなり鷹揚に接しているのですが(だって、言っては悪いけどブスにそんなことを言ってくる男の子ってすごくいい子ですよね)、北代さんは一人で苦しんでいます。いえ、もっとも、「この子アイドルに夢中で、三十過ぎて独身で」とか言われるといった、それなりに同情できるシーンもあるんですが。で、北代さんの言うことには、アイドルを彼氏や旦那にしたいわけではないのに、「訂正しても訂正してもわかってはもらえない」。
     何というか、笑ってしまいました。
     ぶっちゃけ、アイドルを彼氏や旦那にしたい(というような、大それた)願望を、彼女は持っていないでしょう。しかしアイドルのことを、イケメンだから好き、男性だから好きなのは自明で、正直そこにどれほどの差があるのかとしか、こちらからは思えない。単純に彼女は「そんな自分の欲求を直視したくない」だけなのです。もっとも、彼女のオタバレは期せずしてのもの(自らカムアウトしたわけではない)で、そこは気の毒ですが、何というか、その自意識って何、としか言いようがありません。
     腐女子は「私は受けではなく責めに感情移入しているのだ」と聞かれてもいないのにムキになって強調し、男性向けの美少女物のエロを描く女流作家さんは「私は美少女キャラのようになりたいのではなく責めとして美少女キャラに萌えているのだ」と聞かれてもいないのにムキになって強調する傾向にありますが、北代さんのモノローグを見た後ではどうでしょう、果たしてそれを素直に受け取る気になれるでしょうか。
     NHKでLGBTの特集をやった際、「友人にLGBTであると告白されたら、『LGBTについて勉強するよ』と返事せねばならない」といった主張がなされていたそうです。いえ、これはネットで騒がれたのを見聞しただけなので、或いはニュアンスとしては違ったのかもしれませんが、ただ、これはLGBT界隈の傲慢さを、よく表していると思います。確かに「お前ホモかよ。俺、そのケないからセクハラすんなよな」などと言うのはよくないでしょう(フェミニストがそうしたことを日常茶飯事で繰り返しているということは、ひとまず置くとして……)。しかし悪いけど他人様のセクシュアリティに対して、別にこちらは興味もないし、いちいちおベンキョして差し上げる義理はありません。
     それと同様に、北代さんのことを「理解」して差し上げる義理は、周囲にはないのです。
     何しろ14巻では、チャラ男が北代さんに嫌われているのではと涙ぐむシーンが出てきたりします。初期編における仲村さんの描写もそうでしたが、本作を読んでいると、「どんだけ周囲が自分をチヤホヤしてくれるのが当たり前と思ってんの、あんたら?」という疑問が幾度も口を吐いて出てきます。
     てか、北代さんがこんなことを言うのであれば、何故、仲村さんは「訂正しても訂正しても周りの連中は『リュウソウジャー』と『ゴレンジャー』の区別がつかない」と嘆かないのでしょうか?
     やはり、それは本作が『トクサツガガガ』などではなく『フェミナチガガガ』だったからだ、以外の理由を、ぼくは思いつくことができません。
     即ち、『リュウソウジャー』と『ゴレンジャー』の区別がつかないのは「当たり前」だけれども、ドルオタ女子の微妙な心理は忖度して差し上げてご理解申し上げなければならない、というのが作者の道徳律なのです。

     後は小ネタめいてきますが、細々としたものをちょっと。
     9巻ではホラー映画が扱われます。ホラー映画の作者は変人だとの偏見に憤り、何を言うかと思えば仲村さん、「親が手料理を作るべきという風潮はけしからん」と言い出します。
     え? 何の関係があるの?
     北代さんも「作ったものからその作者の人格を推し量るなど失礼」と説くのですが、それと手料理と何の関係が? わかりません。作ったものから内面を推し量るのはできないんだから、「子供への愛情の籠もった手料理は無意味」ということらしいです。
     また、11巻では三分間クッキングでまともに料理法を見せないことを、特撮番組の省略法に準え(例に出されるのが、ロケ地の都合上、瞬間的にキャラクターが長距離を移動していることがあるとか、投げたものが常識ばなれした遠くまで届いてしまうとかそういうことであり、省略でも何でもない気がするんですが)いきなり「子供のための手料理の手を抜いてもいい」という結論に行く。何だそりゃ!?
     他にも5巻では電車の中で仲村さんが席を譲っただけの年寄りに「(仲よさげだが実は)旦那をブッ殺してやろうと思うことなど日常だ」などと語られたり、どうにも妙な描写が思い出したように入るのが本作。ちな、これは「特撮番組は子供を暴力的にする」との説に対して、「ストレスを解消することでむしろ温和にしている」との結論を導く話です。
     以上は正直、意図が読めなかったり話の大筋とは関係なかったりもするのですが、油断していると家庭や男性への憎悪がちらちらと覗け、背筋が寒くなる思いです。
     8巻では吉田さんがカメラの勉強をしていて大変、それを家族に「好きでやってるんだから文句を言うな」と言われへこんだというエピソードに特撮スタッフ(と、高校球児)の「好きでやっているけど大変」な場面が並行して描写されます。
     な~んだ、そりゃ!?
    「カメラの勉強が大変」でヒーローの勇気に倣って頑張った、ならわかるけど、「家族に嫌味を言われた」って……。
     12巻では同僚のリア充女子が結婚、出産するというお話。寿退社なのですが、何故か彼女はおむずがり。どういうことなのか、どうにも理解できません。身重なので気遣われるが、それが重圧だってこと? いきなり会社を辞められることに会社の連中が迷惑がってるのが不快ってこと? なら事前に知らせればいいんじゃないの? とにかくこの女、周囲に迷惑がられるのが嫌だと言っているだけです。
     もっとも、北代さんはその周囲、お偉いさんに賛意を示すんですが。
     話としてはヒーローショーのアテンド(ヒーローのスーツアクターは視界などが極めて悪いため、サポート役のお姉さんがつくのが通例です)にかこつけ、「支えあって生きよう」みたいなことを言って終わり。この女が、まさに身重を押して無理をしているのに対し、「支えあおう」と言っているのならわかるのですが、頼むのでそうしたことにヒーローをダシにしないでくれとしか。

     仲村さんは――そして作者は、ことさらにフェミニズムを学んだことはないかもしれません。しかしそのメンタリティは極めてフェミニズムに親和的であるとしか、言いようがありません。本作の根っこにあるのは仲村さんというヒロインの、自らの女性性に対する屈折。仮に、作者がフェミ知識ゼロだとしても、そうした人々は容易にフェミニストたちの用意した「女性は社会進出すべき」「晩婚化は世の中の流れ」といった罠に乗っかってしまうわけです。見ていくと確かに、NHKによる「改悪」と思しき箇所もちらほらあるものの、やはり原作からして十二分に、そうした要素があるとしか思えないんですね。
     ――以上、気づけばいつも以上の文字数を消費してしまいました。メインともいえる「母との葛藤」についてまだ語っていないのですが、次回、それをじっくりと見てから最終結論を出すことにしましょう。
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