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え~と、すんません。
本作のメインテーマである「母との葛藤」について、今回まとめるつもりでおりました。
というのも前回記事を書いた時点では単行本の15巻までしか読んでおらず、この巻は母との最終対決直前で終わっており、最新刊である16巻を読んでから、次の記事に手をつけよう……というのがその時の計画でした。
が!
いざ読んでみると、16巻では(仲村さんの帰省にかこつけ、つきあった)吉田さん、北代さんたちとの旅の様子が延々延々描かれ、最後のページで母と対面したところで終了。これでは何も書きようがありません。いえ、15巻でも旅の前準備が延々延々続き、仲村さんたち、修学旅行に倣って「旅のしおり」なんかを作ったりするエピソードが描かれていたんですけどね。
さてどうしよう……と思ったのですが、まずは前回の訂正を。当ブログ、読書メモを元に書いているのですが、最新刊を読むついでにもう一度単行本をチェックして、いくつか間違いを見つけました。
「●怪異! フェミ女」の小ネタ部分で書いた、ホラーの話について。「作ったものから内面を推し量ることはできないんだから、子供への愛情の籠もった手料理は無意味」といった主張がなされていると説明しましたが、再読して主張をなるべく忠実に説明するならば、「手料理を作れない家庭には事情があるんだから、ごちゃごちゃ言うな」といった感じのものでした。「手料理は無意味」と言うよりは「手料理ができないだけで、親の内面まで推し量るな」といった感じでしょうか。いずれにせよ、ホラーの話とあまり噛みあっているとは思えませんが(北代さんの母も手料理が作れず、人にいろいろ言われてきたとあるが、これも幻聴松じゃないのかなあ)。
三分間クッキングの話は11巻としましたが、10巻の間違いでした。また、話の流れも三分間クッキングを特撮番組の省略に準えたわけではなく、「手間をかければいいものではない」という一般論の例として両者を並置させ、そこから「手料理をしなくてもいいんだ」という話に持っていくという感じでした。これは「手料理信者」である仲村さんのお母さんへのカウンターといった感じで描かれています。
後、北代さんのオタバレ話を2巻と書きましたが、この人、そもそも2巻ではまだ出てきません。4巻の間違いでした。
さて、以下からいよいよ本編です。ネタバレなどガンガンしますし、またここまででおわかりかと思いますが、本作について決して肯定的なレビューではありません。ファンの方はお読みになりませんよう。
●助けて! 2人のオタ友!! 母ちゃんが鬼になる
さて、そんなわけで本作のメインテーマともいうべき、母親との葛藤について、どうにも語りづらいのですが、まずは現時点で語れることを語っていくことにしましょう。ドラマ版を観ていてぼくが一番引っかかったのは、やはりそこでしたから。
第一に、あまりにも母親に対してキツい言葉を放っておいて、そのまま終わるという投げっぱなしな展開はいかがなものか。第二に、観ていくと本作はもっぱら、仲村さんのオタク趣味を理解してくれない母親との葛藤がドラマの中核に据えられている。「オタクの不遇感」が「女性の母親との葛藤」にすり替わっている、男性側のルサンチマンを、女性側に奪われたように感じる、といった感想を持ったわけです。
しかし、では、漫画版はどのようなものか。実のところ母親との葛藤話、全体から見れば比率としては低いです。ドラマ版は僅か全7話ですから、そうした中核のエピソードが目立ってしまうことになったわけです。特撮番組に例えれば「新必殺技の出る話」「新キャラの出る話」など(こういうのは「イベント回」と呼ばれたりもしますが)ばかりが映像化されてしまったという感じですね。しかし原作では母親の出番はそこまで多くない。折に触れちらちらとそうした話題が出てくるという感じです。
6巻では「母からの電話は聞き流せばいい」というだけの内容で、それを特撮風(……ではないなあ、何か漫画的大袈裟な演出で)「これが母からの電話攻撃をかわす奥義なり!」みたいなことを言っているのですが、何かよくわかりません。『野原ひろし昼メシの流儀』で回転寿司の皿を三枚並べ、それぞれに醤油とガリとワサビを入れて「これぞ回転寿司究極陣形なり!」みたいなネタをやっていましたが、何かそれを思い出しました。
ただ、これに並行し、仲村さんへのサプライズバースデーパーティーという泣かせの展開と共に、母親とのよい思い出を回想するというシーンも入ります。
先にまとめめいた話になりますが、ドラマ版は母と決裂してぶった切ったように終わっており、まるで母との破局をいいこととして描いているようにすら見える。ひるがえって、漫画版では決裂前も以降もそれなりに仲村さんの逡巡が丁寧に描かれており、(特撮ネタ漫画としてどうかという根本的疑問を置くならば)そんなに悪くないと感じました。言い換えるならば家族の解体を正義とするフェミニズム色はそれほど感じない。つまり、ことこの点についてはドラマ版こそが悪である、との評価になりそうなのです。
このサプライズパーティー、以前に出た『ラブキュート』ファンのカラオケ店店員も出席。「ぼくも親が転勤ばかりしていて親に怨みを持ったりもしたけれども、親なりに埋めあわせをしてくれていたことも思い出す」などと吐露するのは、なかなかいい案配であると思いました。ドラマでは(そりゃ、限られた話数なんだからしょうがないとも言えますが)やはり仲村さんがギスギスしすぎてるんですよね。
さて、この6巻以降、折に触れ母との「最終決戦」が近いことが暗示されるのですが(当然、『獣将王』の最終決戦とパラレルに描かれます)、とうとう12巻のラスト、ドラマ版にもあった、母親が部屋に忍び込む、オタバレしてしまう展開が描かれます……って、単行本六冊分も引っ張ったのかよ! この漫画、とにかく単発物としては(前回説明したように)微妙なエピソードが多く、連続物としてはそれらエピソードのせいで異常に展開が遅いんですね。
しかしこの決裂話、想像以上にギャグめいた演出がなされ、それによってショックが和らげられています。ドラマ版はそこを一本調子に演出していたので、かなりキツかったのですが。もっともこの漫画、何かというとギャグ演出をするのですが、普段は悪いけど滑っていると思います。今回はそこが、極めてシリアスな話に挟まるがため、いいバランスになっている気がしました。
続く13巻で、お母さんは「好きならば、みんなの前で言える? このフィギュア、衆人環視で返してと言えるなら返してやる」などと言って仲村さんを試します。ここは「好きと(世間に対して)いえない隠れオタ」の本質を描くための演出なのですが、ただ単純にこの母親、えげつない。言い換えるなら、やはり敵としての機能を背負わされた記号のような存在すぎる。
もっとも、先にも書いたように、漫画版の仲村親子はそこまでぎすぎすしているわけではありません。仲村さん自身、「親子じゃない」と言い渡した直後も「お母ちゃん」と呼びかけていて、ちょっと微笑ましかったんですが、その後も(共に過ごす予定だったお正月なのに)「お母ちゃん」が今頃一人でいるのかとふと思い至るシーンがあります。
一方、ドラマにもあった「私もお兄ちゃんもお母ちゃんのことが嫌いだ」との言葉をぶつけるシーン、後々、「母も世間を引きあいに自分を脅したが、自分も兄という他人を引きあいに出したのはよくなかった、獣将王も力をあわせて戦うけれども、ここは一人で戦うべきだった」といった結論に持っていく。この辺りも、観ていて不快だったシーンが内省がなされていて、見事です。
このお正月、仲村さんは北代さん、吉田さんと共に過ごすのですが、そろそろいい歳だ、結婚適齢期だといった話題が出てきます。親子連れを見て、子供といっしょに特撮を楽しむことにすれば、この趣味を続けていられるかも、とふと母との和解にも希望を見出す仲村さん。しかしそこに「それはあなたの母親があなたにやったことと同じだ」と吉田さんに冷や水を浴びせられるというシーンもよく考えられています。
ただ、話としては「タテマエよりも自分のやりたいことを」という結論に落ち着き、最終的には結婚を否定しそうな気配ではあります。
そりゃ、「自分のやりたいことを」はオタクにとっての理想ではあるものの、しかし本作をここまで見てきた以上、残念ながら全肯定はできません。
だって、強者だけは「やりたいことをやっていても結婚できる」のですから。
だから、作者は結婚できるでしょう。物語上、仲村さんが結婚するオチに行くかどうかは疑わしいですが、モテているわけだから結婚したければできるはずです。しかし、仲村さんに自分を重ねているオタク女子の読者の多くは、結婚できない可能性が高い。そして、そうした人たちの多くは、「結婚したくない」わけではないはず。
しかし、そんな女性たちに、本作は(そしてフェミがかったコンテンツの多くは)現状を肯定し、危機感から目を逸らさせ、結婚できなくさせる機能を果たしているのです。
「30になったら嫁の貰い手がない」というのが母の言い分で、ドラマ版では仲村さんが「今時古い」と返していたはずなのですが、漫画では(母と別れた後で近いことを言うシーンはあるのですが)明確な反論がない。仲村さんは「NHKの改悪」によって「フェミニズムの闘士」的に描かれてしまっているという印象が、多少なりともするのです。
前回説明した小野田君(仲村さんに憧れている後輩)を見てもわかるように、「仲村さんは天然に男を振る」。これは女性向け娯楽にとって定番の「パンチラシーン」です。しかし、では、仲村さんは彼氏が欲しいのかは描かれません。そこを、描きたくないのです。この辺(自ら動きたくはないが、男は勝手に寄ってきて欲しい)は女性ジェンダーに紐づけられた、女性の業のようなものであり、それ自体を批判する気は、毛頭ありません。しかしそうした業を冷静に描く内省が、女性向けメディアには決定的に欠落している。それが、前々回に書いたこの種のコンテンツでの、男性オタクの描かれ方(山田君という『ダンガンロンパ』のキャラ)との差異となっているのです。
さて、ちょっと話としてはずれるのですが、この辺りについて次項でちょっとだけ説明してみたいと思います。
●三人のオタク女 仲村吉田北代大集合!!
上に仲村さんへのサプライズバースデーパーティーについて書きました。これは実のところ、4巻で描かれたカラオケパーティーの続編的なニュアンスがありました。このカラオケ回はドラマ版でも確か一番人気のあったエピソードで、北代さんと親しくなった記念に(?)、一堂に会してみなでカラオケで盛り上がるというもので、それまでのギスギスした展開を吹き飛ばす爽快な名エピソードといえます。サプライズパーティーで親との葛藤について吐露するカラオケ店員はこの時に初登場し、任侠さんと仲よくなる人物。当初、カラオケに誘われた任侠さんが女の中に男一人、入っていきづらいと尻込みしていたのですが、いざカラオケに参加するや『ラブキュート』オタの店員と出会い、仲よくなるという展開が用意されていたのです。キャラへの愛情を感じますし、ドラマでさらなるアレンジがなされて、いい具合に膨らまされていた。この辺は基本、いいと思います(ただ、この時に言ってた「カラオケの映像では作品の最終回が使われることが多く、ネタバレになる」ってのは嘘だよなあ)。
しかし――これ以降、9巻の駄作上映会など、基本、仲村、吉田、北代のオタク三人組(ないし、そこに北代さんの子分格のミヤビを加えた四人)でつるむ話が異常に多くなります。これ、何というか『濃爆オタク先生』で教室という舞台がいつの間にやら姿を消し、三人組でつるんでばかりになったようで、いささかどうなんだという感じです(どういうツッコミだ)。
駄作上映会についてはまた後に語るとして、この三人組がクローズアップされる点については、Amazonでも「特撮と関係ないのでは」といった評も見られました。そこでは「レギュラー4人にそもそも特撮見てる女が半分の2人しかいない。」とあり、まあ、ぼくはミヤビさんはセミレギュラー扱いでいいのではと思うのですが、考えようによっては任侠さんやダミアン(仲村さんの特撮友だちである小学生男子)の出番が後退し、北代さんたちと女子会ばかりやるようになったと言えなくもありません(奇しくも、Amazonのレビューでは小野田君の出番が後半になるほど少なくなり寂しい、といった感想が見られました)。
つまりこの辺りから、本作は「喪女の女子会漫画」の様相を呈してきた。ぼくがずっとしてきた、本作は少女漫画であり、女性社会のこもごもを描いている漫画で、特撮とは関係がない、との評がまたしても顔をもたげてくるのです。
一方、しかし上に「喪女」と書いたように、この辺りから仲村さんのキャラが「できるOL」から「喪女」的になっていくのです。そしてそんな「女子会」、見ていて楽しげではあります。うろ覚えでおせち料理を作るとか、上にも書いた仲村さんの帰省に便乗した「旅のしおりを作ろう」回なども盛り上がります。まあ、特撮に関係ないとも言えますが、いい歳をした大人がそんなバカな遊びをすること自体、何とはなしに男のオタクがやりそうなことだとの印象も持ちます。
そして――しかし、さらにもう一方で、だからこそ、やはりこの漫画は『フェミナチガガガ』だな、と思ったりもします。
上のエピソードを見ていて、ぼくは『1日外出録ハンチョウ』を思い出しました*1。一言で言えば、中年男が寄り集まって遊ぶ様子の描かれた漫画なのですが、見ていて大変楽しげな一方、どこかペーソスのようなものも感じさせる。しかしそれは当たり前です。『ハンチョウ』のキャラクターたち、みな家庭を持たない、人生の敗残者だったり日陰者だったりするのですから。
仲村さんたちの女子会も、ペーソスをどことなく感じさせるものなのですが、今まで仲村さんと『ダンガンロンパ』の山田君を対置させてきたように、このペーソスめいた感覚に、作者が、そして読者がどこまで自覚的なのか……というのがぼくの疑問なのです。
何しろ仲村さんは「無自覚に男を振る」プレイには熱心でも、じゃあ、どんな男が好きなのか、好きでないのかについては(イケメンが好きなわけじゃない、イケメンが好きなわけじゃないと言い訳を続けるばかりで)全く向きあっていないのですから。
「母との対決」というメインイベントの後、ちょっとだけ結婚について悩んだりもするのですが、少なくとも現時点でそれは深く省察されるわけではない。また、初期回でちらっとだけかつて彼氏がいたことに言及されているのですが、それ以降、そうした話は(男を振ります、というネタを除くと)なし。
男性の描くオタクネタは(仮にキャラクターがモテモテという非現実的な設定にせよ)自分の非モテ性に基本、自覚的ですが、女性の描くモノは基本、そうではない。
もちろん、次巻以降でそうした大テーマにがっぷり四つに組む可能性も、ないではないのですが……。
*1『カイジ』のスピンオフで地下帝国の大槻班長を主役にした、「中年男の休日」を描く漫画。もっとも『孤独のグルメ』的な話も多く、毎回友だちとつるんでいるわけではありません。
●クズを見た
わかりにくいかも知れませんが、これ、「鳥を見た」のもじりです。
さて、実のところしばらく前に、岡田斗司夫が本作を誉めていたことがありました。岡田氏が評価していたのは、オタク仲間でも先輩格の吉田さん。岡田氏は彼女のことを「特撮をクズであるが故に愛する」というキャラであると評し、オタク文化のそうした部分を描いたのは初であるとまで絶賛していました。
6巻において、彼女は『南十字軍サザンクラウザー』という特撮作品について、実に楽し気に悪口というか、辛辣な批評をします。「西洋風世界観がだんだんと破綻してきた」「愛馬が出てこなくなった」といった点が突っ込みどころです。これは明らかに特撮時代劇として作られた『変身忍者嵐』がモチーフになっていて、同作に途中から西洋妖怪風の怪人が登場し、時代劇的な世界観が破綻したことが元ネタになっていますし、「愛馬がいなくなった」というのも嵐の愛馬・ハヤブサオーが初期に姿を消してしまうことが元になっています。また劇中では母親とのドラマが展開されるらしく、これまた『嵐』に原形を見ることができます。
ここまでマニアックな小ネタは実のところこれが初で、確かに心を掴まれますし、またこれ以降、マニアックなネタが増えていくことになります。
例えば、7巻からは『惑星O』という作品が登場します。これは『猿の軍団』が元ネタですが(『ここは惑星0番地』との関連が気になるところですが、どうもそちらは意識されていないっぽい)、再放送されていたのを、吉田さんに勧められてハマる仲村、しかし打ち切りで終わっていたことを知って愕然、というもの(ただし本作、これらいくつかの例外を除くと、固有の「元ネタ」を想定することを、頑なに拒んでいます。『獣将王』にしても「漠然と戦隊」です。正直、そこがあるある漫画としては大きくマイナスになっている気がします)。
また、同じく7巻には『ゴジラ』をモデルにした『ダゴン』という劇場怪獣作品も登場。この辺りから古典的特撮にも目配りが始まっており、作者の勉強家たるところが窺い知れます。これはだんだん子供向けになり、最終作『ダゴンくん』は『ブースカ』的コメディに(とはいえ、直接的には恐らく『ウルトラファイト』辺りがイメージされていると思しい)。ファンの悪評紛々だが、吉田さんはこれがファーストインプレッションで、好んでいる。ここも「クズを愛する」という価値観が出ています。もっともここで語られるのは、「ダメリメイクも(それをきっかけに旧作にも)新たなファンを獲得するのだから、またよし」という、間違ってもないが何だか微妙な主張なのですが。
先にも書いたように、9巻では三人組が「駄作上映会」を開催します。これが「女子会ネタ」の嚆矢とも言うべきモノで、また駄作ホラー映画あるあるがふんだんに書かれ、楽しめるモノになっていました(ただ、本作の「特撮あるある」は頷けないことが多いのですが、この「ホラーあるある」だけはホラーなど観ないぼくすら頷けるのはいかがなものかという感じなのですが)。
ともあれ、今までぼくは、『トクサツガガガ』を「NHKがフェミのテキストとして送り込んできた悪のコンテンツ」といった解釈をしてきました。
しかしこの「クズを愛する」というのは、言ってみれば「昭和オタクしぐさ」とでも称するべきもの。実のところ、サブカル、リベラル連中が岡田氏を攻撃するのは、この「昭和オタクしぐさ」を破壊する目的があったからというところが大です。つまり、『トクサツガガガ』が今の時代に「昭和オタクしぐさ」を復活させるという機能を有しているとするならば、正義のコンテンツとの評価が可能になるわけですね。
まあ、とは言っても正直、それは厳しいかな……というのがぼくの想像ですが。
ちょっとこの「昭和オタクしぐさ」の根底にあるのが何かを、軽く押さえておきましょう。
第一に、「昭和オタクしぐさ」は、言ってみれば「ツッコミスキル」とでも言い換え得る。「オタク文化とは、受け手の突っ込み、批評眼が育ててきた」というのが岡田氏の主張なのですが、「オタク文化」を自軍の「兵器」として取り込みたい人々はクリエイターやそのコンテンツを権威化、権力化することに熱心で、そうした「ツッコミ」を好みません。
第二に、特撮含め、オタク文化はその黎明期、子供文化でした。必ずしもクオリティが低かったわけでもないのですが、まあ、ダメなものも多くあった。そんな稚拙さをわかりつつ、オタクはそれらコンテンツを愛した。駄菓子を駄菓子として、愛したわけです*2。しかしオタク文化の非・権威的な部分は削ぎ落とさねばならないと考える人たちは、やはりこうした「クズのよさ」を称揚するといった部分を好みません。
第三に、オタク文化黎明期の80年代、アニメ、特撮などの子供の観る「てれびまんが」を青年期になってもまだ観続けることは、ある種のカウンターでした。お洒落になりつつあった日本の青年文化、そしてぼくたちの目の上でたんこぶのごとく膨れ上がっているサブカルなどに与するまいというある種の「覚悟」が、ぼくたちをオタク文化に留まらせたということはある程度、言える。これは同じく岡田氏が、「上の世代が体制へのカウンターとして不良物のドラマなど(これは想像するに、アメリカン・ニューシネマなどをも指しているのしょう)を好んでいた様が、どうにもウザかった。そこでそれへの更なるカウンターとして、敢えて(高校生などいい年齢になってまで)子供番組を見ていたのだ」と表現していました。即ち、「昭和オタクしぐさ」とは目下オタク文化を自軍に取り込んでしまった人たちへの、抵抗そのものであったわけなのです。
さらに言うと、これを全く逆転させて語ることも可能なのですが。つまり、世間的にバカにされているものを愛好している自分たちのルサンチマンを、愛の対象にぶつけるという構図ですね。「いや、わかってんのよ、下らないって。わかって、敢えて観てんのよ」というのがまた、「昭和オタクしぐさ」でもありました。
これらの第二、第三の視点を、恐らく本作の作者は世代的に共有していないだろうし、仮に共有していたとして、今の時代にそれを語ることはあまりにもニッチすぎる。つまり、吉田さんの「可愛いが故にいじめてしまう」特撮愛には共感するけれども、背負ったものはちょっと違うのではないかなあ……というのがぼくの感想なのです。
*2 この辺りの感覚を知るには、『怪獣王』の唐沢なをき氏と岩佐陽一氏の対談が参考になります。ここでは70年代変身ブームの頃の質の低い特撮作品に対する罵詈雑言がこれでもかと並べ立てられ、しかし彼らの罵倒がヒートアップすればするほど、彼らの特撮愛が感じられるという、名対談になっています。
●特オタの母は太陽のように
さて、最後に「母との葛藤」について述べなければなりません。
先に書いた13巻での決裂以降、(ドラマ版で得た印象とは裏腹に)仲村さんは折に触れて母のことを気に病み、母にメールを送るも、先方は「好きにしろ」と冷たい。しかしともあれ、帰省を決意。15巻の巻末では『獣将王』の最終回間際のエピソードをお母さんもまた観ていることが暗示されます。
16巻の最後、仲村さんは母親と対決するのですが、そこで出て来る言葉が、「あんたはもう母じゃない、母でないなら、何と呼べばいい?」というもの。そこでばっさりと終わります。
しかし……恐らくですがこれは、いつもの思わせぶりな演出で、仲村さんの本心ではないと思われます。でなきゃ、帰省を決意するはずもないし、母と会う間際、「母に冷たく拒絶される悪夢」を見てうなされるといったエピソードもあるのですから。
それと、今さらですがお断りしておきます。
ぼく自身は「母との決裂」が作品として絶対にまかりならぬと考えているわけでは、全くありません。ただ、それでも「娯楽作」としては母との和解をオチに持ってくるべきだと思います。決裂で終わるのは、「それよりとんがった、アングラ作品」がやるべきことでしょう。
その意味であのドラマ版はNHKでやるべきではなかったし、NHKが「NHKでやるべきでないものをやる、悪の放送局」であることの証明に、なってしまっているわけですが。
さて、ともあれこれ以降の展開がわからない以上、書くこともないのですが、それでは収まりが悪い。ちょっとここで捏造展開をやってみましょう。
「もう母ではない、何と呼べばいい?」。お母さんに対して激昂する仲村だが、母が手にしている人形を見てアゼンとする。
それは『プリンシスター』。『ラブキュート』以前に放映されていた女児向け変身ヒロインアニメだ。
母は語る。「私も歩み寄ろうと思って、『獣将王』を見てみた。正直、好きにはなれなかったけど、おかげであんたの子供の頃を思い出した。それで、あんたがしまっていたこのお人形を持ってきたのよ」。
今まで完全に封印していた記憶を、仲村さんは思い出す。
幼い頃、私はお母さんとよく『プリシス』ごっこをしていた。しかし意地悪な同級生にいじめられ、「仲村に、ピンクの可愛いプリシスは似合わない」と言われた。その時から自分はピンクを好きな心を封印してしまった。「押しつけられたからピンクアレルギー」だったのではない。「ピンクを否定されて、特撮に逃げた」のだ。
女の子の友だちから仲間外れにされて、そこから、兄とヒーローごっこをやるようになり、今度は自分が母を仲間外れにした。
『プリンシスター』は「戦うお姫さま」。「お姫さま」という『ラブキュート』では採用されなかったモチーフがこの作品のキモだった。そう、自分は「お前など男の子にモテない」と同級生にいじめられて、「お姫さま」を好きな心を封印して特撮に「逃げた」のだ。
そこでさらに思い至る。何故自分がことさらに「イケメン目当てで特撮を観ているわけじゃない」と繰り返していたのか。「モテない」と言われたその呪いの言葉が私を縛っていた。
「逃げる」ことは悪くない。「逃げた」先にあったのが特撮だからといって、特撮が間違っているわけではない。
でも、今のままでは変身ヒロインにも変身ヒーローにも申し訳ない。
特撮の「ロボ」や「怪獣」が好きであるのと同時に、私は「イケメン」だって好きだ。そして、ピンクの変身ヒロインだって好きだ。そんな自分を、受け容れよう。
最後は北代さんたちアイドルオタとも、「任侠さん」とも心からの交友を持つ。
あなたたちは、私の半身だった、私は「変身ヒロインオタ」でもあり「ドルオタ」でもあった。それを心のどこかで拒否していたが、あなたたちがそれを気づかせてくれた。
最後は「私たちの特撮道はこれからだ!」とジャンプしてエンド。
――とまー、そんなオチに着地する可能性は、大変に低いでしょうが。
母親が『獣将王』を見ていると思しきシーンから、一応の和解は描かれるのでしょうが、なおざりじゃなく、それなりに納得のできる着地をさせてくれることを望みます。そしてそれはまた、仲村さん自身の「ピンクとの和解」にもなるのでは、ないでしょうか。
※補遺※
NHKと言えば『なつぞら』。
作品としての出来はいいのでしょうが、「ああ、また女性が輝くためにオタクがダシですか」とため息が出る作品です。これ、キャラ商品でチップスが出てますよね。
もう一つ。本当に偶然なのですが、『腐女子、うっかりゲイに告(コク)る』みたいの、最終回だけ観ちゃいました。何でもこれ、原作漫画は『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』というタイトルで、作為的な改題に眩暈が止まりません。で、高校生くらいの男の子がオッサン相手に性関係を持っているという、伊藤文学もニッコリの仕様。
最終シーンで主人公が大学の登校初日でゲイだとカムアウトすると暗示してのクロージング(そして、回想シーンとしてちらっと入るのですが、ヒロインの腐女子が全校集会みたいので私は腐女子ですとカムアウトするシーン)も嘔吐必至のキモさ。
で、この番組の直後に番宣が入ったのですが、それがまた、「女が陸上で大活躍、これからはこのジャンルにも女性が進出する!」というもの。
もう、NHKには一切のコンテンツ制作から手を引いて欲しいですね。