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ゆうさんさん のコメント

>>4

そもそも先生のサイトに行き着いた契機というのは、先日、報道された岡村隆史さんのラジオでの「不適切」発言に対して、私があるSNSで擁護的な発言をし、それに対するバッシングを女性はおろか、男性からも多く頂いた事に始まります。
私の発言は以下になります。「そもそも風俗嬢本人からの苦情は来てるんか?ここで文句を言っている人は風俗業を下に見て風俗に携ることを「堕ちる」事と思ってる。岡村が楽しみと言ってるのも俺がプロ野球開幕が楽しみと言ってるのも同じこと。 風俗で働くことが苦しいという決めつけ。人それぞれ…本人にしか分からない。女性をモノとしか扱っていない。岡村が風俗嬢をモノとしてのみ扱っているかどうかは分からない。夫婦間で、夫が妻をモノとしか扱っていない例を俺は知っている。--- ニッポン放送、岡村隆史の発言を謝罪「女性の尊厳と職業への配慮に欠ける発言」」

沢山のお叱りの意見の中から、10年来の(ネット上での)お付き合いをさせて頂いてる方からの反論文を(長い文章で恐縮ですが)コピペらせて頂きます。


「男根主義、といってもデリダのファルス中心主義というよりは、よりラフにマチズモの意味で使いますが、岡村隆史や松本人志の最近の男根主義的視点からの発言は同性の私から見ても少し気持ち悪い。

「短期間でお金を稼がないと苦しい」という弱みにかこつけて己の妄想を膨らます行為が生理的に受け付けないという方もいるかと思いますが、これ自体は岡村の単なる性癖かもしくはそこは妄想ポイントではないかもしれないので、今回は不問に付します。

私が問題あるかな、と思ったのは、「なかなかの可愛い人が」「美人さんがお嬢やります。」というところ。
端的に言うと「生得的な容姿の美醜に介入している」ということ。
これに違和感を抱かないのは旧タイプの人間で、今日的な流れとの乖離にある人だと言わざるを得ない。
だって「セクシャルハラスメント」ですから。
この発言をメディアを使って無自覚に垂れ流した岡村のおっさんぶりが気持ち悪いのだと思う。
意外なポイントでしょ?でも、こういう無意識に出てしまう言葉の与える印象は意外と重要なんです。
もちろん、自分が美人と思う人に個人的に「あなたは美人ですね」というのは基本的には差し支えないと思う。要はTPOの問題。

もう一点。岡村擁護派(かな?違うかも)のマイミクさんが「風俗で働くことが苦しいという決めつけ」を訝る観点から、岡村が言う楽しみというのは俺(マイミク氏)がプロ野球開幕が楽しみというのと同義と書かれていて、これにも以下に記述する点から違和感がある。
「職業に貴賤はない」ということを強調したいための発言、或いは額面通り「風俗で働くことに遣り甲斐はある」というお考えなのだと思うけど、風俗が他の仕事と同じであるのであれば、だからこそ、そこに携わる人々の思惑も思いも千差万別ではないのか。
昔から風俗と暴力団の関係はよく知られるところで、今でもそれは変わらないと言われている。風俗が特殊なのは、この「暴力団の介入」があるからだろう。「借金のカタで風俗に」という実際のケースが後を絶たないように、「堕ちる」というイメージが付随するのは仕方ないと思う。もちろん予めプロ意識をもって仕事に臨んでいる人も多いことだろう。しかし繰り返しになるが、暴力団との関わりがある以上、特殊性は免れない。プロだから万事割り切れるはずという考えも、その特殊性(暴力団云々を抜きにしても)から鑑みれば、当てはまらないだろう。

また「岡村の発言は、プロ野球開幕が楽しみと同じ」というのも包括的な視点から思慮されているとは考えにくく、個人的動機による、より狭い視点(岡村のケースで言えば、男に主体のある発言、つまり男根中心主義)での発言と捉えられる故、公共の電波で流すには配慮に欠けたものだったと思う次第。 」

…私は、なんだか自分がとても汚れたミソジニストだ、と自己嫌悪に陥る反面、心の奥底では言語では表せない違和感を感じていたのです。
それで、何となくフェミニズムをキーワードに、ネットを渉猟していたところ、先生のサイトに行き着いたというわけです。

とりあえず先生がお挙げになっていた「男はどこにいるのか」を先に読ませていただきました。
小浜逸郎氏の、ロジカルな展開には首肯すべきところが多くありましたが、「精力を注ぐべきなのは『男はいかにいきるべか』という問いにカラ元気だけの答えを投げ与えることではなく『男と女は、どうやったら幸福になれるか』という問いかけに根気よく答えていくこと」という落とし所に、やはりもやもや感が残ってしまったのです。
そして昨日、Amazonより届いた「ぼくたちの女災社会」。
一気に読ませて頂きました。
もう、全てが腑におちる…というか、私の生きづらさの原因(のひとつ…でも大半を占める)を、これ程までに鮮やかに描出して下さった書籍は後にも先にも本書しかありません。

…そして今、ナオンは#Mee Tooという恐るべき最終兵器の発射ボタンを押してしまいました。
個人的な話で恐縮ですが、私、映画監督のウディ・アレンの大ファンなんです。
彼も#Mee Too運動に巻き込まれて、今映画が撮れない状態です。
このおかしなムーブメントを早く阻止しなければ、ウディ・アレンだけでなく多くの文化財(人)が、失われてしまいます。

長々と失礼しました。
先生の次作も、心より待望しております。
本当にありがとうございました。


No.7
55ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
  ※この記事は、およそ9分で読めます※  ――今回も(再)とあるように、 OCNブログ時代の、もう 九年前の記事 の再掲となります。  ここしばらく、動画の『パーマン』に加え、『ドラえもん』を扱い続けて来たので、その流れでかつての記事もうpしておくかと思ったのです。  再掲に当たり、時事ネタなど削っておりますが、基本は元の記事と同じです。 *     *     *    今回は「女災」そのものをテーマとはしません。  むしろその前段階と言いますか、もう少し視野を広げた、「女災という概念が 今まさに誕生しつつ ある現代という 時代性そのもの 」についての話題です。  さて、震災のために今から観ようにも上映館が限られていると思うのですが、今年の映画。 『新・のび太と鉄人兵団  ~はばたけ 天使たち~』。  これは1986年に公開された『のび太と鉄人兵団』のリメイクです。  ご存じない方のためにものすごく大雑把にプロットをご説明すると、以下のような感じでしょうか。  都合上、ネタバレしまくりますので、オチを知りたくない方は、以下はお読みにならないでください。  巨大ロボットが欲しいと望むのび太の元に、空から巨大ロボが降ってくる。   百式をドラえもんカラーに塗り替えた ようなデザインのそのロボ「ジュド」は、実は人類の奴隷化を企む異星のロボット帝国「メカトピア」の先兵。そしてのび太につきまとう美少女「リルル」もまた、ジュドを回収しにきたメカトピアのアンドロイドであった。  開始されるドラえもんたちとメカトピア軍の大バトル。そんな中、のび太やしずかと交流を持つことで人間らしい心というものを知ったリルルは、メカトピアのロボットたちが優しさを持ったロボットとしてプログラムされるよう、歴史を改変。しかしそれは同時に、彼女自身の消滅をも意味していた――。  と、こんなところでしょうか。  ベタベタと言えばベタベタですが、ドラえもんらしからぬ巨大ロボット戦、そして美少女リルルの可憐さでファンには人気の高い作品となっています。  さてその人気作なのですが、今回、リメイクものの宿命として、新キャラのヒヨコ型ロボット「ピッポ」というのが登場します。  このピッポ、実はジュドの電子頭脳が自律式のロボットになった姿です。これは前作においては、ドラえもんがジュドを自分たちの戦力に加えるため、そのプログラムをあっさり再フォーマットしてしまったことが一部で「ちょっと非道くないか」と指摘されたことを受けての改変だと思われます。  即ち、旧作においては意志を持ったロボットでありながらその心を消されてしまったジュドが、今回はピッポという形でドラえもんたちと交流を持ち、リルル同様、人間の味方になるという救済措置が取られたわけですね。  正直、ジュドの巨大ロボとしてのカッコよさよりピッポの可愛さにお話の力点が移ってしまったこと、そして何よりピッポとのび太たちが仲良くなる過程のお粗末さなどはあまり評価できません。だから映画の中盤まであまりいい感想を抱いてはいませんでした。 「取り敢えず、親子が揃って見に来るのにいい感動話にしとけ」といった作り手の意識が透けて見える可愛いロボットとのお涙頂戴劇。「はばたけ 天使たち」などという、取ってつけたような薄っぺらな副題。  あぁ、ダメだこりゃ、と。  しかしクライマックスでその感想は一挙に塗り替えられてしまいました。ピッポがあのように機能するとは……「はばたけ 天使たち」に隠された意味含め、脱帽です。本作はリメイク版はもちろん、全ドラえもん映画の中でもかなり上位にランキングされるべき傑作と言っていいでしょう。  ――さて、ここからが本題です。  そして今回の本題は、上にさんざん書き並べた「本作の、作品としての完成度」とは、 直接的に関係がありません 。  実は本作についての、とある漫画家さんの評を読んで、どうにも引っかかったことがあるのです。  その漫画家さんは終始旧作(F先生の原作)を評価し、新作を否定しているのですが、要約してしまえば、  ドラえもんがジュドの再フォーマットを行ったのは、F先生の仕掛けたトリックであり、F先生は「じんるいのこころにひそむざんこくさ」を確信犯で描いたのだ(キリッ  と言ったところでしょうか。  もしご本人が見たら「一面的だ」とおっしゃるかも知れないけれども、しかし少なくとも一側面の要約として、上の一文は決して間違っていないと思います(普通に引用してもいいのかも知れませんが、引用しておいていちゃもんをつけるのも何なので……)。  さて、ついつい、上のようなおちゃらけた要約の仕方をしてしまいました。  しかしそれも、ぼくにはこの漫画家さんの発言が、ある種の「テンプレ」のように見えて仕方がないからなのです。おちゃらけついでに喩えてしまえば、 『サルでも書けるポリティカルコレクトに乗っ取った評論教室』 とでもいった本の第一章に掲げられていそうな文、と言いますか。  既に書いたように、旧作においてドラえもんはある種の非情さをもって、ジュドの電子頭脳を再フォーマットしました。  そしてまた旧作では比較的単純な「わるものろぼっと」として描かれていたメカトピアも、新作では身分制を乗り越えて民主化しようとしている、ある種、人間くさい連中として描かれています(ロボットを奴隷にするのは政治的に正しくないから、人間を奴隷化しよう、というのがメカトピアの政策なのです!)。  同様にリルルの描写も旧作の「非情なロボット兵士が心を知る」というものから、「ロボットと人間のレイシズムを乗り越える」的なニュアンスに変わっています。  しかしこれも、例の漫画家さんにかかっては   旧作(F)は敢えて当初、メカトピアを「わるものろぼっと」として描くことでクライマックスでその視点を逆転させることを狙ったのだ(大意)。  とのリクツになってしまいます。  ですが、それは、本当に稚拙な詭弁でしかありません。  実はF先生が原作を描いた『劇場版ドラえもん』において、悪役にそうした内面が与えられたり、善と悪の逆転劇があったりすることは極めてまれです。例えば本作同様に評価の高い『魔界大冒険』では悪役として「悪魔」がストレートに登場し、ドラえもんたちは躊躇なく悪魔たちをやっつけていきます。  何故か……と言われればやはり、(いささかわかりやすすぎますが)「当時は冷戦時代だったし」という答えしか、ないと思います(そもそもこの『劇場版ドラえもん』というのは『少年ケニア』とか、あの辺の冒険活劇の影響が大です)。  つまり、F先生が『鉄人兵団』を描く時、その脳裏に(現代で言うところの)「レイシズム」という視点があったとは、どうしても思われないのです。  そして、既に書いたように新作においてこそ、この漫画家さんの読みとは裏腹に、「メカトピア人たちのレイシズム」が描写されているのです。  この漫画家さんの評は、(新作によって旧作の)欠点を指摘されて「わざとやったんだ」と居直っているだけだ、とも取れます。更に言うならば、不良に一方的に殴られてボロボロになった軟弱君が、 「今日はこの辺で勘弁しておいてやる」 と捨て台詞を吐いて逃げ去るような、そんな種類のものにしか思えません。  非道いことを書いていますが、別にこの漫画家さんに怨みがあるわけではありません(むしろ当初は「ムカつくサブカル漫画家」かと思っていたのですが、調べてみると結構萌え系の絵を描く方で、ちょっと感情が和らいでいるくらいです)。  しかし、それでも、ぼくの目には、この漫画家さんの態度はどうしても許せない、捨て置くことのできない蛮行に見えてしまうのです。  それは例えば(例が極端に飛びますが)『モンティ・パイソン』の解説で、オカマネタを「マチズモへの風刺だ」と強弁しているのを見た時に感じる不快感、とでも言えばいいのでしょうか。  言うまでもなく『モンティ・パイソン』にはどぎついオカマネタが多く出てきます。その標的になるのはまあ大体、軍隊の将校みたいな男らしいタイプの人物であったと思います。しかしそれって単純にギャップの妙を狙ったものであるし、仮に「高圧的な権威」に対する風刺意図がそこにあるとしても、「マチズモそのもの」を笑うような発想があったとは、どうにも思えません。それを「いい子ちゃん」に解釈してしまうことに、ぼくはどうしようもないいやらしさを感じずにはおれないのです。  てか、『モンティ・パイソン』には「頭のおかしい人がレースをする」といったえげつないコントもありますが、じゃあ、あれは 知的障害者差別への風刺 なのでしょうかw  漫画に立ち返って考えれば、「黒人描写」の問題が近いかも知れません。それこそ『ドラえもん』にだって、古い作品を見ていけば「のび太たちがジャングルに探検に行く。そこには人食い土人がいて、のび太は食べられそうに」みたいな話はあります。  上の漫画家さんのリクツだと、これまでもが「偏狭でステレオタイプな黒人観を敢えて描くことで我々のレイシズムを風刺する」意図があったことになってしまうのかも知れませんねw  どんな作品も、どんな天才的な人物も、ある程度、その時代の価値観に縛られてしまうのは、仕方のないことです。逆に言えば二十五年も前の作品が今なお、リメイクされるほどの作品としての力を持っていること自体が奇跡的なのであって、そこに古い時代故の限界が仄見えてしまうのは当たり前のことです。ぶっちゃけてしまえば、上の漫画家さんの言は昔の特撮映画の釣り糸を「わざと見せているのだ」と強弁しているのと、はっきり言って大差はないのです。  ただ、です。以前の 『チャージマン研!』のエントリ を読んで下さった方はおわかりかも知れませんが(わかってくださっていたら嬉しいのですが)、ぼくが言わんとしているのは別に「F漫画だって古いんだから釣り糸くらい見えるさ」ということでは実は、全くありません。 「わるものと、だんこたたかう」旧作も、 「まれびとと、なかよくなった」新作も、  どちらも間違ったことをしているわけではありません(例のジュドの電子頭脳の再フォーマットが非道い、というのは同意ですが、しかし念のために言っておきますがジュドは「じんるいどれいかけいかく」のために派遣された「わるものろぼっと」なのです)。  はっきり言えば、「まれびととなかよくしよう」というその時代の価値観で縛られて、視野狭窄に陥っているのは漫画家さんの方です。  え~とですね、つまりですね、現代社会の「女災」を打ち砕くには、こうした硬直した政治的正義を徹底的に洗い直さねばならない、みたいなことが言いたくてここまで書いてきたわけですが、ちょっとこの辺で力尽きてしまいました。  後半は近いうちにアップしますので、もうしばらくお待ち下さい。 *     *     *  ――以上です。  いや、以上も何も途中で終わっていますが、後半も来週辺りうpします。  ただ、 『ドラえもん論』 評の時にも述べた『モンティ・パイソン』について言及されているように、本稿も『ドラえもん論』も『ドラえもん』という長寿コンテンツを今のPCで解釈しようと七転八倒しているリベラルの滑稽さが端なくも表現されてしまっています。  そして、そのPC自体が、男性性の否定という意味では「アフターフェミ」の世界の歪みであるということも、こうなれば自明なのではないでしょうか。
兵頭新児の女災対策的随想
「女災」とは「女性災害」の略。

男性と女性のジェンダーバイアスを原因とする、男性が女性から被る諸々の被害をこう表現します。



このブログでは女性災害に対する防災対策的論評を行っていきたいと思います。