閉じる
閉じる
×
※この記事は、およそ17分で読めます※
――ここしばらく突発的にペドファイル論(というよりは、表現の自由クラスタがペドをダシにしようとしてるよ論)を語り続けざるを得ない状況でしたが、本来、『腐女子の心理学』(及び『社会にとって趣味とは何か』)について語っている途中、という感じでした。
そんなわけで上の動画で話題にした『社会にとって趣味とは何か』について、当noteを始める以前、ニコブロで発表していた記事の続きの再掲をしばらく続けることにします。
前回(その1)をご覧になっていない方は、そちらをごらんになってからこちらをお読みになることを、強くお勧めします。
では、そういうことで……。
* * *
●腐女子の偽物をやっけろ!
前回のラスト、ぼくは北田暁大師匠の腐女子の持ち上げを見ていると、腐女子に同情してしまう、と書きました。
そう、本書はあらゆるフェミニストの著作がそうであるように、「男性をただひたすら凄惨に虐げ、貶めるのみではなく、女性までをも犠牲にする」ことにも注力した書だからなのです。
北田師匠は山岡重行氏の『腐女子の心理学』という著作にいたく激おこです。一体何をそこまで、と思うのですが、何しろぼくも山岡氏の著作は未読なので、本書の引用を孫引きしてみましょう。
幸い、オタクは腐女子よりも、異性と親しくなりたいという欲求が強い。共通の話題があって、腐女子が少し好意的な態度を示せば、簡単にオタクと仲良くなれるはずである
(293p)
念を押しておきますが、上は本書293pから孫引きした、山岡氏の著作中の文章です(ちなみに山岡氏が「オタク」という時、オタク男子のみを指しているようです)。
これに対する北田師匠の評が以下です。
「腐女子」は、戦後家族的な性別役割規範に対してきわめて否定的な立場をとっており、一方で「男性オタク」は、もっとも家族の戦後体制に適合的なジェンダー規範を持っている。この対照的な両者をたかだか趣味が共通しているという点で「仲良くなれる」とするのは、いささか楽観的にすぎる。
(239p)
山岡(2016)は、腐女子は心を開いて同趣味の男性と付き合えばよい、などとしているが、両者のジェンダー意識のギャップをみると、それは官製婚活なみの、学術的にいささか度をこえた「アドバイス」であるというしかない。
(286p)
「オタク」は「生き方」であり、「道」であるのは周知ですが、それを「たかだか趣味」と言い捨てる北田師匠の認識は、一体どうしたことでしょう。これではいかに「こんにちは、801ちゃん」と哀願の限りを尽くしても、腐女子を「彼女さん」にすることは叶いそうにありません。
それはともかく、どう思われましたか? みなさんw
何だかどす黒いものが胸に沸き立ちますねw
まあ、その、学術書(なのでしょう、多分)において上のような「アドバイス」がなされているのは、確かに余計なお世話という気もしないではありません。
一方で実際にオタク婚活パーティーが開かれたり、オタ婚している男女だって珍しくない以上、「アドバイス」としてはそれほど外してもいない、常識的なものだとの感想も持ちます。
が、奇妙なのは北田師匠がこの「アドバイス」を、憤死せんばかりの勢いで「あってはならぬもの」としている点です。
いえ、実のところ、ぼくも山岡氏に大賛成というわけでは全くありません。もし今、北田師匠とぼくと本田透氏を一つの場所に連れてきて並ばせたら、きっと皆一様に顔を鼻水でパックしながら血涙を迸らせ、地団駄を踏み鳴らしている光景が見られることでしょう。
しかしぼくたちの地団駄の理由は、師匠とはいささか異なります。
「同じ趣味の者同士、男女交際しよう」はもちろんそれなりに理のある一般論なのですが、そうそううまくいくかどうかは疑問です。
理由を、思いつくままに並べてみましょう。
1.まず、オタクコンテンツというのはかなりラディカルに男性向け、女性向けに分かれていること。
2.男女共に人気のあるコンテンツとなると化け物的なヒット作品であり、殊に近年、そういうのは少ないこと。
3.またそんなヒット作でも、それこそ北田師匠が重視する「二次創作」を見れば自明なように、市川大河アニキが自分の「彼女さん」が「801ちゃん」であったと自称していることを見ればわかるように、その楽しみ方が男女でまるきり分かれること。
まあ、こんな感じでしょうか。これはある種、オタクコンテンツが人間の欲望をストレートに描き出すものである以上当たり前であり、いかに大河アニキがデマを垂れ流そうが、事実は変わらないということでもあります*1。
また一方、山岡氏が指摘しており、本田氏も同様なことを言っていたように「オタク男子はオタク女子が好きだが、オタク女子はオタク男子が好きではない」という傾向は、ある程度言えるように思います。これは一つには、オタクに限らず、男子の方が女子を求める傾向が強いということでしょうが、同時に「オタク趣味は男らしさとは相反するが、女らしさとは必ずしもそうではない」という事情にも起因するように思います。やはり、オタク男子とオタク女子では、前者の方がよりモテないのです。
しかし北田師匠は、前者はもちろん、後者の論法も全く歯牙にはかけません。
何しろこの直後、師匠は得意の絶頂で絶叫しているのですから。
腐女子は「現実の対異性関係になれておらず、そこから逃避する非社交的」な人たちではない。事実はまったく逆で、腐女子こそがもっとも現行社会における男女の差異、差別、家父長的な性別役割分担、セクシャリティ意識に敏感(sensitive)なのであり、その対極にあるのがデーターベース消費に生きる男性オタクである。
(286p)
ここでも「データーベース消費」とやらを根拠に、いちいちオタク男子をdisっています。
師匠の主張で一番おかしいのは――もちろん勘違いなオタク男子観、腐女子観なのですが、それを置くとするならば――「ジェンダー意識のギャップ」がそのまま男女交際の不可能性にスライドするという謎の前提があることです。
前回採り上げた、図.1の表に並んだ質問は「人生設計」的な性格が強く、仮に師匠の解釈を正しいと前提すれば(正しくないことは前回指摘しましたが)確かに「オタク男子とオタク女子が結婚したら、子育ての方針などでもめるかも」との推測も成り立ちますが、恋愛というのは別にそうした予断の元に行うものではないでしょう。にもかかわらず師匠は、「オタク女子は最も先端的であり、最も後進的なオタク男子とは釣りあわないのだ(だからボクの『彼女さん』になりなさい)」とでも言いたげです。
何よりもぼくと本田氏が踏んでいる地団駄は、「草食系であるオタクよりも、肉食系であるDQNの方が女にモテる、そしてオタク女子もそうしたセクシュアリティにおいて、一般女子と変わることはない」という経験則に基づいています。そしてそれは何故か……言うまでもなく、本田氏が指摘しているように、DQNの方がジェンダー規範に忠実だから、「女を女として扱うから」ですよね。
そこを、師匠は全く真逆の論理展開をしている。
「オタクは、マッチョだから、女にモテないのだ」と。
これは本当なのでしょうか。
それこそ、師匠のグルの「彼女さん」である人たちのイデオロギーに則った論理展開をしているだけではないのでしょうか。
*1 また、そこまで男女差があることが許せないのであれば、大河アニキ的な人物はオタク男女に歴然とした違いがあるとする北田師匠にも噛みつくべきだと思うのですが、何故だかそれは、決してなされません。こうした人たちは「男女差は一切ない」というドグマと共に、例外なく「女性は男性より優れている」というドグマも妄信しています。矛盾している……というより、深層心理では女性を蔑視しているからこそ「女性は優れている」と主張せずにはおれないのだという彼らの「ホンネ」が、ここからは透けて見えますね。
●不良腐女子の正体は!
以降も師匠は山岡氏への攻撃の手を緩めません。
章の後半でも、239pでなされた引用が再び繰り返され、
山岡の著作は、徹底的に既存の男性主義的な観点からみた腐女子の「逸脱化」に貫かれている。
(302p)
と論難し、山岡氏が「腐女子は恋人が欲しいはずなのに」と前提しているがそうではない、腐女子は彼氏ができないのではない、作らないのだ(大意)と主張します。
そしてついには、以下のような結論を導き出してしまうのです。
端的にかれら(引用者註・腐女子)は――現在のジェンダー秩序に適合的、という意味においてであれば――「恋人はいらない」のであり、「結婚したくない」可能性も大きい。既存のシステムのバグを同性の友人とともに発見する「理想的親密状態」を手放すぐらいなら、恋人も結婚も不要、というのは不協和どころか、ごく自然な認知的・感情的・行動的「態度attitude」である。
(中略)
腐女子=二次創作好きオタクは、きわめて洗練された形で、それぞれの方法で男性中心主義的な世界観に――意識の存否にかかわらず――異議を申し立てている。
(303-304p)
すごい!
すごすぎます!!
北田師匠の(淫夢の)中では、腐女子とは女同士、「レズビアン共同体」によって団結し、この根底から間違った現代社会の家父長制、ヘテロセクシズムを糾弾するためにBLを描き、間違ったシステムを断罪するために戦いを挑む、勇猛なフェミニズムの闘士だったのです!!
ちなみに「レズビアン共同体」というのは「何か、女性差別なので女同士で連帯する」程度の意味の言葉であり、事実、上の文章の直後、この言葉の解説が入ります。
お気づきかも知れませんが、この言葉は「ホモソーシャル」の対義語です。「男の団結は悪/女の団結は善」という恐ろしく雑な二元論がここでは貫かれ、フェミニズムが「男は何でも悪/女は何でも善」という結論から始まっているガクモンであることを、何よりも雄弁に物語っています。
師匠はまた、BLが従来の性規範には収まらないものであると書き立てます。
結婚という制度は異性愛者間の、現代の日本においては異性愛者間の次世代再生産を担う集団を担保するものとして位置づけられている。
(300p)
てか、結婚ってどこの国でもどこの時代でも、そういうものだと思うんですが、とにもかくにも北田師匠は「結婚」制度含め、現行の社会のジェンダー、セクシュアリティを根底から破壊したいご様子。そしてそんな革命戦士である自分の「彼女さん」に、腐女子こそがなってくれるのだと、信じて疑っていないかのようです。東師匠の「BLはホモソシアルを風刺している」が可愛く見えてくるほどの被愛妄想ぶりですね。BLにおいてマタニティものが人気であることなど、師匠はご存じないのでしょうか。
しかし、それにしても、そもそも、師匠は一体何故、ここまで腐女子=フェミニストとでもいった世界観を、あどけなく妄信しているのでしょう?
むろん、前回に挙げた図.1と図.2の調査がその根拠になっているのですが(それが疑わしいことは前回述べましたが)補足として、図.2をもう一度、見てみましょう。
この調査から、師匠はオタク女子には「マンガみたいな恋をしたい」といった願望が低いというデータを導き出します(アンダーラインは原文では傍点です)。
女性二次オタク≒腐女子について興味深いのは、「マンガの登場人物に恋をしたような気持ちになったことがある」に対する肯定的回答率の高さと、「マンガみたいな恋をしたい」に対する肯定的回答率の低さである。
(273p)
数字としては決して低くはないのですが、他のカテゴリ(リア充女子、男子)もまた高い数値を示しているがため、相対的に「何か低い」という結果になってしまうようです。
そして師匠は殊更の理由なく*2、女性はこの「マンガみたいな」という言葉を「規範的理念型に近」いもの、という意味として捉えているのだろう、また「マンガ・アニメのコンテンツに恋愛のモデルをことさらに見いだすわけではない」のだろうと言い出します。
つまり、「現実の恋愛は(男尊女卑で)ケチカラン。腐女子は『マンガみたいな』と問われた時、そうした現実の恋愛規範を連想し、それを否定したのだ」というわけです。
実に奇妙です。
「マンガみたいな」と問われ、現実を連想したという前提が極めて理解しにくい上に、そもそもBLそのものが女性を排除した男性同士の恋愛であり、その意味で腐女子が「マンガみたいな」恋愛をすることは、原理的に不可能です。BLが自身の欲望(男性にモテたい)を男性(受けキャラ)に仮託して安全裡にそれを成就させる、という構造を持った表現であることを考えれば、腐女子が「マンガみたいな恋をしたいか」と問われ、「No」と答える理由は明白ではないでしょうか。
それは単に、「そうした欲求を(腐女子はジェンダー規範に忠実なので)表に出したくない」というものです。
(先に書いた、「男は女よりもモテたいという欲望が強い」という表現もその意味では正確ではなく、それを表に出しやすいのだ、とするのが正しいでしょう)
そこを、一体全体どうして、師匠は上のようなねじくれた解釈を施してしまうのか。師匠はBLの非現実性自体を、恋愛規範を解体するもので素晴らしいとしているのだから、「BLと現実の恋愛は別だ」とでも解釈するだけで充分のはずです。
いえ、師匠にしてみれば、とにもかくにも「腐女子が現実の恋愛を呪っている」との結論を導き出さなければ、充分とは言えなかったのでしょう。最初から結論ありきなのです。
しかし、そもそも、仮に師匠の腐女子観が正しいのであれば、ここまで腐女子が増えているのだから、フェミニズムは大いに盛り上がっていそうなのに、全然そんな感じがしないのは、何故だかわかりません。
また、「練馬調査」には「主婦になりたいか」といった項目があり、女子(腐女子だけではない、女性全体)の42.6%が「専業主婦になりたい」と答えています。そんなにも腐女子が従来のジェンダー規範に否定的ならば、ここから彼女らが主婦になりたがっていない事実を導き出せそうなものですが、そうしたデータは何故か提示されません。
こうした主張は、三十年ほど前に上野千鶴子師匠が『風と木の詩』辺りを持ち出して「ジェンダーレスワールドの実験」などと言っていた頃の古拙な見方を、一歩も出ていません。
実のところBLが男女ジェンダーのリプレイであることは自明であり、既にこの当時、中島梓師匠がそれを指摘、上野師匠のロジックに見事な反論を加えておりました*3。上野師匠が間違っていたことは、それ以降のBLの隆盛を見るに明らかなのですが――例えば、腐女子の使う「受け/責め」といった用語は、「ジェンダーレス云々」といった分析が虚妄であることを、何よりも雄弁に世に知らしめてしまいました――にもかかわらず、北田師匠は三十年以上、ずっと同じ場所で足踏みをなさっているようです。
*2 厳密には一応、解釈らしきことが書かれています。それをぼくの理解できた範囲で思い切りざっくり説明すると、オタク女子は「マンガみたい」を「古典的な」とでもいった意味あいで捉えているのだろう。それは言わば、「マンガに出てくるような、唐草模様の風呂敷を背負った泥棒」とでもいった、つまりは「理念型」、「世間であるべきとされている形」というニュアンスである、といった内容です。
何故かと言えば、男性が恋愛から阻害されている傾向があるのに対し、女性は「体験」としての恋愛を内面化する傾向にあることが原因ではないか、との仮説が語られます。
まあ、更にざっくりと、女性は恋愛をリアルなモノとして捉えるので、「マンガみたい」と言われても、男の感覚ほどには空想的なモノとしては捉えない、とでも言い直せばわからないではないですが、ジェンダーフリー論者の唱える説としては問題ある気もします。
もっとも、このリクツを持ち出すため、(また、男子が「マンガみたいな恋」をしたがる傾向が高いことを説明するため)、師匠は「男子は男性役割を必要とされないマンガの中の恋愛に憧れているのだ」という解釈をしています。ぼくとしては、これ自体は賛成できますが、師匠自身の本来の主張とは丸きり相反する解釈となってしまっています。
いずれにせよ、この解釈だけで論点が五つも六つもできてしまう以上、短絡的な結論を出そうとすること自体に、問題があるんじゃないでしょうか。
*3 以上は雑誌『都市Ⅱ』の内容を、本が手元にないため記憶で再現したものですが、大きな間違いはないはずです。
●爆発!腐女子コントロールタワー
他にも、本書はBLを自分たちのイデオロギーに適うものであると強弁するために、クラシカルな記述の目白押し。
性犯罪が起こるたびに「男の性欲は……」という紋切り型の説明図式に日々晒される女性にとって、性そのものを否定することなく性愛を描くため、性そのものを関係性のなかに収めるという方法は、現行の男性中心主義に覆われた社会を相対化するうえで重要な戦略であるといえる。
(296p)
一体、本書の出た今年は、西暦何年なのでしょう。少なくともまだ21世紀を迎えていないことだけは確実です。
こうした記述を見ていると、彼ら彼女らの戦略は既に、こうした時代錯誤なことを敢えて書いてアリバイを作っておくという、「歴史捏造」の方に既に舵が切られているのでは……と思いたくもなって来ますが、しかしそれはやはり違い、あくまで「天然」なのでしょう。北田師匠の周囲にはグルの「彼女さん」であるフェミ腐女子しかいらっしゃらないでしょうから、彼の主観では上のような腐女子観も、あながち非現実的とも思えないのかも知れません。
しかしもちろん、それが腐女子のマジョリティの実態を反映しているとは考えにくい。
萌えアニメなどにも、近年では一人くらい腐女子キャラが登場するのは珍しいことでなくなりました。それは、ぼくたちが彼女らを「知って」いるからです。
何を「知って」いるのか。
彼女らが「ぼくたち同様にアニメに夢中で、エッチなことにも興味があって、ぼくたちのそんな話にも乗っかってくれ、そして、しかし、言うまでもなく、伝統的な女性ジェンダーを保持した存在であること」を、です。いえ、先に「男子オタクと女子オタクではアニメの好みが違う」と書いたように、むろんアニメはアニメなりの脚色でよりぼくたちに親しみやすくしてくれているわけではありますが。
彼女らが自身を「女の腐った」ような存在であると自己規定し、「腐女子」という言葉が生まれたことや『801ちゃん』が流行ったことにも満更ではないこと(女子としてスポットライトを浴びて嬉しげなこと)を「知って」います。
彼女らが「心にペニスがある」と自称する時、ぼくたちは「サービス」で驚いてみせますが、彼女らが精神的にも肉体的にもペニスを持たない存在であることを、「知って」います。
彼女らが男子のことを男子と呼ばず、「殿方」と呼ぶこと、それが彼女らの「伝統的女性ジェンダー」への少々の屈折を含んだ憧憬故の行動であることを、ぼくたちは(そんなムツカしい言葉として言語化はせずとも、直感的に)「知って」います。
だからこそ、彼女らは伝統的女性ジェンダーに忠実に、自らの欲望を(男同士に演じさせることで)男性へと仮託し、彼氏が欲しくないようなポーズを取ることを「知って」います。
彼女らが「この家父長制社会へと戦いを挑むため、敢えて男と距離を取っている」存在などでは決してないことを、ぼくたちは経験則的に「知って」います。
だからこそ、腐女子を自らの政治の道具にしようとしているとしか思えない北田師匠の言動に、ぼくは激しい嫌悪感を覚えます。
自分たちが既存のジェンダーを憎んでいるから腐女子もまたそうでなければならぬのだ、彼女らは結婚などしたがってもいないのだ、と絶叫する北田師匠の振る舞いは、かつてのフェミニストたちが女性の非婚化を推し進めたことと全く同じ、ここしばらくのリベラル君たちの「オタクは二次元で充足している存在なり」といったロジックと全く同じ、言語に絶する残忍で無慈悲な、見るに耐えない非人道的なものです。
フェミニストは萌えを「男性側の身勝手な女性観を押しつけている、ミソジニーだ」と批判します。碧志摩メグを否定した北田師匠も当然、それに首肯することでしょう。
しかしこうして見ると、デタラメな論理展開で腐女子を自分の「彼女さん」であると強弁する北田師匠(及び女性のフェミニスト)こそが真のミソジニストであると言うことも、もはや明らかではないでしょうか。
ぼくは今まで「男性学」の研究家たちをご紹介して、彼らこそが女性の理解者であると自称しつつ女性に身勝手な幻想を見て取り、彼女らにつきまとうストーカーなのではないか、との指摘をしてきました*4。北田師匠についても、同じことが言えるのではないでしょうか。
*4 男がつらいよ