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※この記事は、およそ17分で読めます※

 ――さて、引き続き『社会にとって趣味とは何か』と『腐女子の心理学』の確執についてお届しましょう。
 今回は動画でもご紹介した、何者かによって()消された前者のレビューの紹介。
 正直、長く難解ではありますが、目を通していただけると幸いです。
 では。



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 北田暁大師匠の名著『社会にとって趣味とは何か』については、以前も扱いました。

 リベラルたちの楽園と妄想の共同体――『社会にとって趣味とは何か』
 リベラルたちの楽園と妄想の共同体――『社会にとって趣味とは何か』(その2)

 がそれです。
 しかし本書のAmazonレビューが、一時期話題になっていたことをご存じでしょうか。
 本書に否定的なレビューは、幾度投稿しても度々消えるという奇怪な現象が起きているのです。ぼくの記憶では本書のレビューは確か六つくらいはあったかと思うのですが、現時点では高評価の二つのみになっております。
 ことに「M1」さんのレビューはその舌鋒の鋭さで話題になっていましたが、度々消失に見舞われておりました。
 また、そのレビューには北田師匠御自らがコメント欄で反論を繰り返し、ついには師匠が「M1」さんに「セッションに参加しろ」と迫るという珍事も起きました。
 そしてついに、「M1」さんはレビューへの書き込みそのものができなくなってしまったのです。
 一体、どういうことなのでしょうか……?
 詳細はぼくのもう一つのブログの『社会にとって趣味とは何か』レビューのコメント欄「北田師匠に絡まれています!」以降を参照してください。
 ここで「M1」さんが述べられている北田師匠のコメント、今では消されているのですが、ぼくもAmazonレビューのコメント欄でこの通りのことが書かれていたことを確認していることを、申し添えておきます。

 ともあれ、このままではいかにも惜しいということで今回、「M1」さんとお話しして、ここにレビューを掲載することにしました。が、ぼくだけではどうにも心許ない。
 もし自分のブログでも「M1」さんのレビューを転載したいとお考えの方がいらっしゃったら、どうぞご連絡ください。
 それでは、以下はレビュー本文です。どうぞご覧ください。

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 指導教授から2冊の本を紹介されました。一冊は「社会にとって趣味とは何か」で、もう一冊は「腐女子の心理学」です。指導教授は「社会にとって趣味とは何か」が「腐女子の心理学」を批判しているので、2冊を読んでゼミで発表しろという課題を出されました。大変だったけど面白かったのでレビューを書きます。

 結論から言って、この本に腐女子を語る資格はありません。それは、「二次創作に興味がある」という質問に当てはまると答えたオタク度が高い女性を「腐女子」と認定しているからです。二次創作に興味がある人を「二次創作好き」と拡大解釈し、さらには「二次創作をしている人」扱いまでしている箇所もありました。
 これは私の指導教授のコメントですが、面白かったので紹介します。腐女子の肝であるBL好き関連の質問をしないで二次創作への興味だけで腐女子認定することは、「ヤクザに興味がある人」を全員ヤクザ認定するようなものだ。ヤクザ映画が好きな一般人も、警察関係や報道関係の人も「ヤクザに興味がある人」だろう。ヤクザも含まれているだろうが、全員ヤクザと認定することは明らかにおかしい。現象をできる限り正確に捉えることが科学の第一歩だが、第一歩からまちがっている、とのことでした。
 著者の北田さんも何カ所か言い訳していますが、二次創作好き女オタクは、ほぼほぼ腐女子であると言い張っています。北田さんにとって腐女子はBL好きな人ではなく、「男性中心主義的な世界観に異議を申し立てている人(p.304)」なのだそうです。二次創作に興味がある女オタクがジェンダー規範がらみの質問に否定的に答え、フェミニズム的な腐女子イメージと一致するから腐女子認定は正しいらしいです。
 北田さんは本文中で概念的定義を明記していませんし、「腐女子とは誰か」については様々な解釈群が火花を散らしている状況で、EMや概念分析、フィールドワーク等の分析(カテゴリー理解の分析)が必要となり、あまりに議論が紛糾しているので踏み込まない、とコメントしています。明確な概念的定義はしていないけれど北田さんは次のように書いています。「特筆に値する成果を生み出しているのが、データベース消費の概念を受け継ぎながら、「やおい」を生産・受容する女性たち-「腐女子」というカテゴリーが自己執行される-の共同体を、相関図消費という観点から分析した東園子の研究である。(p.269)」、「腐女子たちは「妄想」された男性同士の性愛関係を通して、現実的な異性愛関係を排除した、女性どうしの共同体を作り上げる、と東園子は分析する。(p.278)」このように北田先生は、東さんの研究の紹介という形ですが、明らかに 「腐女子=やおい(BL)を生産・受容する女性」という前提を受け入れ議論しています。それにも関わらず操作的定義ができないとコメントしています。これは、「腐女子はBL嗜好の女性」という定義をしてしまうと、「二次創作に関心がある女性=腐女子」とする自分の研究を否定することになるからではないでしょうか。

 腐女子とは逆にジェンダーがらみの質問に肯定的に答えているオタク男は男性中心主義的な保守的なジェンダー意識を持つ人にされています。同じように「腐女子の心理学」の著者の山岡さんのことも、「腐女子に偏見を持つ保守的な男性主義者」と決めつけています。「おそらく山岡に限られない男性知識人の」なんて表現もありました。つまり、フェミニズム系の社会学をやっている北田さんたちは腐女子に偏見なんて持っていない政治的に正しい人たちだけど、腐女子をフェミニズム扱いしない男性知識人はみんな腐女子への偏見に凝り固まった悪しき男性中心主義者だと言いたいのですね。これこそステレオタイプであり、自己正当化でしょう。この北田さんが見ているのは腐女子そのものではなく、フェミニズムという思想なんじゃないでしょうか。

 「性愛のリアリズムと妄想の共同体」という見出しがあったので、どんなすごいことが書いてあるのかと楽しみにしていたら、「マンガの登場人物に恋をしたような気持ちになったことがある」と「マンガみたいな恋をしたい」という2つの質問の考察でした。この2つの質問でこんなに大げさに書けるなんて、それが「妄想の共同体」ですかって感じです。「二次創作に興味」で腐女子認定するように、質問と考察に距離がありすぎると感じました。こういった飛躍を埋めるのが「真の意味での社会学的想像力(p.17)」なんでしょうか。「本書は読者を選んでいる」と最初に書いてありましたが、フェミニズム信仰を共有し、飛躍とこじつけを社会学的想像力と表現できる人だけ選ばれるのでしょうね。それならば私は選ばれなくていいです。
 北田さんたちのオリジナルの研究報告書と質問紙を拝見しました。一般的な趣味に関する質問紙であり、オタクや腐女子の何らかの調査のために作成された質問ではないですね。北田先生の「オタク尺度」は一般的な趣味の質問の中からオタク趣味に関連しそうな項目をチョイスして作成したものですよね。直接的な質問がないことを不思議に思っていましたが、一般趣味用の質問の再利用ではオタクや腐女子をとらえようとしても表面をなぞるだけでディープなことはわからないのではないでしょうか。
 質問項目に関して北田さんは、「インテンシブではない(つまり、「腐女子(orオタク)についてのアンケート調査」等)ある程度幅の広い質問群への回答を分析することで見えてくることもあり、直球で聞けば聞けなくなってしまう事柄もある」とコメントしてくれましたが、オタクや腐女子も含めて趣味に関する質問で、「直球で聞けば聞けなくなってしまう事柄」と「インテンシブではないある程度幅の広い質問群への回答を分析することで見えてくること」のどちらが大きいかと考えると直球から見えてくることの方が大きいと思います。そこが「社会にとって趣味とは何か」を読んだときに感じたもやもやの原因なのではないでしょうか。北田先生は、これが計量社会学の走りであるラザースフェルド以来の伝統とおっしゃいますが、社会学の教科書的には正しい研究方法でも、それが他の社会科学からも正しいと認められる研究方法であるとは思えません。

 統計的にも疑問があります。指導教授は、因子分析をしているのに項目ごとに考察するのでは分析した意味がないと言っていました。これは私にもわかったところですが、「10%水準で有意差が認められる(p.278)」と書いてありますが、「有意」と言っていいのは5%未満でしょう。さっき書いたジェンダー規範関連で、「結婚したら子供を持ちたい」という質問に二次創作に興味がある女オタクの76.1%が肯定的に回答しているのに、他の女性グループより肯定率が低いから、腐女子は「家父長的な役割分業に懐疑的な立場をとっている(p.300)」ことにして議論を進めています。1/4以下の人たちの反応で全体を語っちゃっていいの、と私は思いました。データの読み方が強引というか恣意的というかこじつけというか。でも北田さんにとっては、フェミニズム信仰と一致する議論になるから社会学的想像力でOKにしちゃうのでしょうね。

 BL芸人の金田淳子さんのツイッターをはじめとしたネットの反応を見ていて、なんで社会学系の人はそこまで感情的に「腐女子の心理学」を否定しようとするのか不思議に思っていましたが、この本を読んでよくわかりました。この本でも、「腐女子への偏見に基づく一般化 -ヘテロ男性の『認知的不協和』の解消?- が少なくない(p.287)」「(山岡の)提案は限りなく現実性を欠いたものといわなくてはならない(p.293)」「山岡の著作は、徹底的に既存の男性主義的な観点から見た腐女子の『逸脱化』に貫かれている(p.302)」なんて、かなり感情的に否定しています。「腐女子の心理学」はフェミニズム地雷を踏んでしまったようです。

 「腐女子の心理学」は、1人で満足しているのならそれでもいいけど、もっと楽しく生きたければ現実を変えろ、そのためには1人よりも仲間がいる方がいい、とアドバイスします。オタクや腐女子は趣味の仲間作りに関しては積極的だけど、恋人がほしいのに恋愛に関して不安に思っている人が多いからそちらのアドバイスをしています。ここが社会学系の人には許せないところなのですね。「腐女子は男性中心主義的な世界観に異議を申し立てているフェミニストである」という教義を信奉している社会学系の人にとっては、「楽しく生きたければオタク男と恋愛するのもいいよ」などというのは自分たちのセントラル・ドグマを破壊する悪魔の声なのでしょうね。
 北田さんは山岡さんのオタク度尺度そのもののなかに「趣味指向性を聞く項目や自己認識に関する項目が入っているのだから、それらで構成された尺度の得点が高い者が『自分の趣味の仲間以外の人と付き合うと違和感を感じる』などの傾向があったとしても何の不思議もない。(p.287)」、「従属変数を作るために使用された質問項目は、独立変数として使用されてもおかしくなく、意味的に独立変数と従属変数はトートロジー的な要素を多分に含んでいる」と批判し「腐女子の心理学」を否定しています。
 その北田さんのオタク尺度は、「好きなマンガについて友だちと話をする」「友だちと一緒にマンガ・アニメ専門店に行く」「マンガがきっかけでできた友だちがいる」「アニメがきっかけでできた友だちがいる」「ライトノベルが好きだ」「マンガ趣味選択」「アニメ趣味選択」「ゲーム趣味選択」の8項目です。北田さんが「オタク」と操作的に定義する人物類型はマンガ・アニメ・ゲームが趣味でライトノベルが好きで、それらの趣味を媒介にして友人関係を持っている人物です。北田さんのオタク像は、アニメ・マンガ・ゲーム・ラノベの趣味自認と趣味を媒介にした友人関係を持つことがオタクをオタクたらしめる独立変数ということです。独立変数を設定する8項目中4項目が趣味媒介の友人関係に関する質問項目ですが、それを独立変数とし、「違う趣味の友だちよりも、同じ趣味の友だちの方が大切である」を従属変数にしています(p.278~284)。
 はっきり言って、北田さんは山岡さんを批判するのと同じことを自分でやっています。私には山岡さんの研究が独立変数と従属変数の設定がおかしくて、北田さんの設定がおかしくないとは思えません。
 やはり社会学系の人が「腐女子の心理学」を感情的に否定するのは方法論的に納得できないからではなく、フェミニズム的に納得できないからなのでしょう。BLはフェミニズムであり、その観点から研究することが社会学における腐女子研究のポリティカル・コレクトネスの証明だから、この観点以外の研究は政治的に正しくない。そのような研究を全否定することが社会学者の使命なのですね。これはもう科学ではなくカルトですね。

 この本を読んで私が感じた全体的な印象を一言で言うと、竜頭蛇尾とか羊頭狗肉です。北田さんたちがたくさんの文献を読んでお勉強したことはよく分かります。さすが東大の先生はお勉強得意だというのはよく分かります。でも、実際自分たちがとったデータは「性愛のリアリズムと妄想の共同体」のようにしょぼい質問を拡大解釈して自分たちのフェミニズム思想の正義を歌い上げ、自分たちとは異なる立場の人を政治的に正しくない態度を持つ人と決めつけ否定する。これが「腐女子の心理学」で山岡さんが書いていた「自分たちだけが正しい人」、文化的権威主義者や文化的全体主義者なんですね。

 フェミニズム信者ならこの本の読者に選ばれるのでしょう。でも腐女子の実態を知りたい人には役に立たない本です。もう一度言います。BL関連の質問なしで、二次創作に対する興味だけで腐女子認定する人に、腐女子を語る資格なし!!



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 以上です。
 本件については飛び飛びになるかもしれませんが、一通りサルベージしていくつもりですので、よろしく。