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男性問題から見る現代日本社会(再・その1)
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男性問題から見る現代日本社会(再・その1)

2021-06-11 19:18
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     ここしばらくサブカルとフェミニズムの関係を論じていましたが……はい、今回からは『Daily WiLL Online』様で三回に渡り書かせていただいた「反・反・弱者男性論」にちなみ、それに関連した採録シリーズを始めたいと思います。
     できれば新規記事もお届けしたいとは思うのですが、さすがに時間が取れず……ということなので、どうかご了承ください。
     今回お届けするのは五年前に刊行された「アカデミズム」の人たちによる「男性問題」の本。まあ、いわゆる「男性学」なんかと同工異曲と言っていいでしょう。本稿をお読みいただくと、今のフェミ(やリベラル)側が一歩、引かざるを得ない状況に陥っていることがご理解いただけるのではないでしょうか。

    *     *     *


    「女を宛がえ」論というものがあります。
     いえ……よく考えるとありませんでした。
     いや、あるのですが、実際にはありません。
     ない以上、あるというのは嘘ですが、あるとされています。
     すみません、自分でも何を言っているのかわからなくなってきました。
     敢えて言えば、ツイッター上には「女を宛がえ論がある」論というものがあるということです。即ち、フェミ(……とは限らないかもしれません、情緒的な女性論者)が盛んに上のようなことを口にする傾向があるわけです。「弱者男性どもは(国家などが政策として)自分たちに嫁となる女を宛がえなどと要求しているぞ」と。
     しかしこれはぼくがツイッター上を観察する限り、男性側の「女性をいかに社会進出させても、彼女らは主夫を養うことはないのだからリターンはない。ならば主婦に収まってくれる方が万事うまく回る」というロジックを情緒的短絡的希望的に曲解したものであるように思われます。
     つまり「そのように解釈し得る主張はあり、完全にデマとは言い難いものの、冷静な言い方を故意に捻じ曲げて扇情的に表現する、姑息な手段」という感じが否めないのです。否、姑息というよりは彼女らの耳には「本当に、そのように聞こえている」のでしょうがない、のでしょうが。
     そこに加え、ぱんなさんがいつもの露悪趣味で「いや、俺はまさにそう言っているぞ」などと言うものだから余計話がややこしくなった……というのが経緯で、冒頭の混乱はみな、ぱんなさんのせいであります

     さて、本書です。
     まず手に取ると、帯文が目を惹きます。

    学校や職場や学校のなかで、女性と比べ「俺たちの方が大変だし、むしろ被害者だ!」と思わず叫んでしまったことってありませんか?

     いや、北朝鮮の次に表現の自由が保障されているこの国で、こんなことを叫んだらセクハラでクビかと思いますが。
     とは言え、ある意味でこの帯文は、今のネット世論的なものをすくい取っているかと思います。
     しかし更に言うならば、「男こそ被害者」という言い方はネットで散見はされますが、それほど多いとも思えない(いわゆる、フェミ寄りの人物が「女叩き」と称するサイトなどにおいてすらも)。むしろこの表現は『男性学』で伊藤公男師匠が(ぼくの著作に対する評として)した表現と一致しており*1、何というか、彼ら彼女らの業界で相手側の主張を情緒的短絡的希望的に曲解した物言いが、「共有」されているのではないかなー、との疑念を強くします。
    「男こそ被害者」はむろん、客観的事実には違いないのですが、ある意味、表面的な事象の指摘であり、少なくともネット議論では既に、もっと深いレベルでフェミニズム批判がなされていることでしょう。上の「女を宛がえ」論の「本来の姿」とでも言うべき、「女は主夫を養わないから社会にリターンがない」との指摘も、その一つです。
     そうした批判に対して、一言も返す術を持たないからこそ、彼ら彼女らはこうした表層的な部分だけを採り挙げざるを得ないわけですね。
     それとこれは余談ですが、町山智弘師匠もアメリカには過激な男性解放論「メニニズム」というのがあり、「男に嫁を宛がえ」と主張しているのだと紹介していたことがあります。これも(絶対に嘘とは言えないものの)本人たちの言と言うよりは、敵対者たちの中で「共有」された表現を町山師匠が受け売りしたのでは、との疑念を拭えません。
     結局、表題としては「今風」な問題を掲げつつ、それに全く対応できずにいるのです。言わば彼ら彼女らは「地球の大気圏外から撮影した写真」が既にネットに出回っているのに「地球は平面だ、地球は平面だ」と泣きわめている教会の人、にすぎないのですね。

     ……あ、いや。
     すみません、帯を見ただけで大変な決めつけをしてしまいました
     いずれにせよ、男性たちの不満をすくい取ろうという気概があるだけでも、本書には評価すべき点があるかも知れません。
     では、そうした男性たちの声に、著者たちはどのように答えているのか。
     まずはページを開いて、まえがきを読んでみることにしましょう。

     はじめに――今、なぜ男子・男性を問題にするのか

    (中略)
    しかし、女性の就業は男性よりももっと不安定な状態に置かれ、男性の非正規職員は二一.八%なのに、女性は五六.七%と半数を超えています。
    (中略)
    ジェンダーギャップを見ても、日本は世界のなかで一〇一位ときわめて不平等な社会になっています(二〇一五年現在)。
    (3p)

     最っっっっっ初のページからこれです。
     はい、解散!!
     ……と、ここで終了でもいいくらいなのですが、まあそうも行きません。
     もう少し続けましょう。

     今、大事なことは、男子・男性が、女子・女性の一定の社会的進出のなかで、男女共同参画社会は「女性中心的な社会」(山本弘之)だとか「女災社会」(兵頭新児)だとか嘆くことではないでしょう。ましてや、自虐的に「オレたちこそが被害者だ!」などと叫んで、女性の社会進出を揶揄したり、女性を敵視したりすることではないでしょう。
    (7p)

     ……………。
     自分、涙いいすか?
     何故、上のような考えがダメなのかは、本書の最後まで説明されません。
     もちろん、拙著についてもここだけの言及で、反論はなされません(読んでもいないのでしょう)。
     今度こそ解散したいところですが、まあ、もうちょっとだけ続けましょう。
     今まで、当ブログでは「男性学」と称する本のレビューを続けて来ました。
     彼らは「男性を解放する」と自称しつつ、「とにもかくにも男が悪い」「女の方が差別されており、それを疑うことはまかりならぬ」「フェミニズムに服従することでしか救いは訪れない」とフェミニズムの古びた理論を十年一日のごとくに並べ立てること(で、自己矛盾が生じていることにも気づかず、ただ聖書の朗読を続けること)しかしませんでした。
     本書も見事なそれらのリプレイであり、ページをめくってもめくっても「あぁ、またそれか」以上の感想を抱くことはできませんでした。
     が、まあ、ぶっちゃけブログネタもなく、一応、月に一度は更新しておきたいので、今回ムリヤリ、上のような切り口を見つけたわけです。
     それは即ち、彼ら彼女らが「現状(の、男性の窮状、男性のフェミニズムへの懐疑)に対応しようとして、無惨な失敗を繰り返している」というものです。
     以上のようなワケなので、まあ、もう、オチを言ったも同然なのですが、以下、軽く解説していきたいと思います。

    *1 夏休み男性学祭り(その4:『新編 日本のフェミニズム12 男性学』

    第1章 「「ゆれる」男たち――家族相談からみる男性問題」市川季夫

     本書は六人の書き手が六章をそれぞれ執筆するというスタイル。
     まず第一章ですが、なるべく穏当に感想を述べれば、一応、男の苦しさに寄り添おうという内容ではあります。例えば妻に逃げられた男性などについて、同情的な筆致で書かれているのです。
     が!
     内容はと言えば相変わらず「女を養うのが男だ」といった性別役割意識はよくないと言いつつ、ではどうすればいいのか(男にとって主夫になるなど非現実的な妄想に過ぎないことなど)についてはスルー。ただひたすら現実から目を背けてべき論をあーうー言っているのみなのです。

    第2章 「男子は学校で損していないか!?」池谷壽夫


     先にも挙げた、帯のフレーズ(「男の方が損」)を意識したタイトルなのですが……論調は「男は理系、女は文系というのは思い込みだ」というもの。その理由は「中高には男の教師が多いのが原因(即ち、大人たちが性別役割意識を知らず知らずに刷り込んでいるというおなじみの言説)」などと妄想を開示するのみ。専ら「(男女に性差があるなど)思い込みなのだ」という前提から話が始まっています。とにかくそこが出発地点なので、いつまでたっても同じところをぐるぐるぐるぐる歩き回るしかないのでしょう。
     文系と理系の区別についてはさしたる興味も知識もありませんが、男子が女子よりおベンキョーを頑張らねばならないのは自明であり、それは専ら男子への抑圧でしょう。
     いえ、そのことは池谷師匠も指摘してはいます。

    しかも男子は、そんなこと(引用者註・社会に出てからの再チャレンジなど)はできない経済的・社会的状況なのに、今でも「男性は家族を養わねばならない」と女子以上に思い込んでいるので、なおさらいい大学に入り大企業に就職するという一縷の望みにしがみつきます。
    (41p)

     まさにその通りです。男の子の不幸を、まさに的確に表現しています。他にも「男子はスクールカーストなどでもヒエラルキーにさらされて可哀想だ(大意)」といった頷ける指摘(女の子にヒエラルキーがないのかとの疑問も浮かびますが、まあそれは置きましょう)も。
     しかし油断していると「「損」の根っこにあるもの」との節タイトルが立ち現れます。
     そら来た、です。
     そもそも日本が男性優位であり、それが揺らいでいる云々とお説教が続き、

    「オレたち損だよな」とひがむだけではダメです。
    (53p)

     で話が締められます。
     男たちは損だ、働いたら負けかと思っていると、自らの性役割の不利さについて充分理解しているのですから、後は主夫を養わない女が悪い、或いは女性の社会進出を強行したフェミニズムが悪い、そのどちらかの結論しかないはずなのですが、池谷師匠は「男同士で話しあってお互いの意見や違いを認めあおう(大意)」とか何とかいきなり観念論で問題を放り投げて終わり。何が何だかわかりません。
     ――ぼくは以前、『現代のエスプリ』の別冊、『男性受難時代』*2についてご紹介しました。バブル期に編まれたものであり、「牧歌的な時代に書かれた、古文書」とでもいった評をしたかと思います。
     何しろ均等法の施行された直後であり、いつも言う「女の時代」と呼ばれていたフェミバブルの時期です。当時は「女が元気がいい、男がだらしない」と病人のうわごとのように繰り返されてはいましたが、それもある意味では、バブルの余裕のタマモノでした。
     ところが近年、女性も(フェミニズムの成果として)婚期を逃し、元気を喪い、苦しんでおり、本書にはそうした「女性さま幻想」がすっぽりと抜け落ちています。
     確か「フェミニズム」という言葉も本書では一度も出て来ず(もっとも、それは民主党議員が選挙の時、自分の所属を隠したのと同じ理由でしょうが)、ひたすら男性の苦しみばかりが活写され、しかしそれは男のせいだと繰り返すのみの、書き手たちは大満足だろうが、帯に惹かれて買った者の誰一人として納得のできないだろう奇書に、本書はなってしまっているのです。

    *2 夏休み男性学祭り(その2:『男性受難時代』)

    *     *     *

     ――さて、まだここまでで半分なのですが、まだまだ続きます。疲れてきたので後半は来週にご紹介することにしましょう。
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