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 続きです。
 未読の方は、前回記事をまず読んでからこちらをお読みいただくことを、強く推奨します。

 読み返すと本稿、「表現の自由クラスタ」批判に寄りすぎ、とも感じたのですが、それは香山リカ師匠自身が「元祖・自称オタク」とでも称するべき存在であり、実は香山師匠と表現の自由クラスタは同じような存在だ……といったことを指摘したかったからです。
 では、そういうことで……。

*     *     *


 さて、またちょっと、「表現の自由クラスタ」たちの物言いに立ち返ってみましょう。本書について、ツイッターなどでちらちら見た意見には、「お前(北原師匠)こそバイブ屋のくせに」「若い頃はさばけていたと思っていたが、このセックスヘイターぶりはどうだ、老いたせいか」といった評も散見されました。
 これは前回書いたぼくの指摘と大意を同じくしているかのようですが……実はそうではなく、的外れなものなのです。
 上にもあるように、また当ブログの愛読者の方は周知のことでしょうが、北原師匠の本業はバイブ屋でいらっしゃいます。が、彼女の目的は最初から「女にとっての快」であり、バイブもまた「男不要の快楽」として称揚されているわけです。彼女はセックスが大好きだが、しかし世に溢れている性的な価値観は全否定しているだけなのです。ジェンダーフリーなどを顧みるまでもなく、これが師匠のみならずフェミニズムそのものの基本姿勢であることは、今更指摘するまでもありません。
 フェミニストたちに、ぼくたちは非常に往々にして「萌え文化には女性のファンも大勢いて……」などと語りかけますが、そんなことに何ら意味はないのです。レディースコミックなども専ら女性のニーズに沿って作られたメディアですが、そこに描かれるセクシュアリティは男性向けのポルノとさして変わりがない(レイプ描写に溢れているなど)。つまり、フェミニストが「男性に都合のいい」と形容する性文化は実のところ男女共にとって快い、両性が共犯関係によって作り上げてきたモノであったわけです。彼女らが「男の欲望」と強弁し続けているのは、それこそ女子大生とのAKB談義でも明らかなように、女性の欲望でもありました。だから、師匠らは「人類の欲望」を根源否定しているだけなのです。
 フェミニズムは全人類へのヘイトそのものだったのです。
 事実、本書でも男のセックスに対しさんざん罵った後には、「何で日本はこんなセックスレスなんだ、気持ちのいいセックスがしたいのに」と言い出す節が入ります。自分たちの好まぬ性表現はダメ、一方セックスから撤退するのもダメというのだから、男女逆にして言えばクラスの隅っこでおとなしく『おそ松さん』に萌えているブスに襲いかかって「お前がブスに生まれついたのが全部悪い!」とボコってるようなものなのですが。
「表現の自由クラスタ」は往々にして、彼女らを「セックスヘイターだからけしからぬ」と批判しますが、それは間違っていました。上を見てもわかるように、フェミニストはセックスヘイターではないのですから。そしてまた、「一般人」は多かれ少なかれ「セックスヘイター」なのですから。更にまた、「ロリコンであること自体は何ら罪ではない」という彼らの大・大・大・大・大好きなレトリックを援用するのであれば、「お前はセックスヘイターだからけしからぬ」という物言いは一切、意味を持たないはず(こんなことにすら思い至れないことが、彼らの問題なのですが……)。
 繰り返しますが、彼ら彼女らは互いに自分の好みを押しつけあっている、似たもの同士です。そこを理解できず、お互いに背を背けあいながら全く同じゴールへの道を併走しているのです。

 ……ちょっと、「表現の自由クラスタ」の悪口を書きすぎだとお思いかも知れませんが、もうちょっとだけ続きます。
 彼らは専らネット上に立ち現れる存在であり、その実態を、ぼくは知りません。何とはなしに若い連中である気がしているのですが、それは彼らの主張の生硬さが原因でもありますし、「オタク差別」を危惧する物言いの屈託なさ*3が理由でもあります(これはフェミニストにただ「ミサンドリー」という言葉をぶつければ勝てると思っている人に対しても感じることです)。
 が、彼らが実のところ、かなりの高齢者と考えるとどうでしょう?

 ――おい兵頭、そんなことはどうでもいいだろう。仮に若くてもSEALD'Sよろしく上の世代の影響を受けていようし。

 それはそうなのですが、仮に「オタクの代表者」をもって任じている彼らの「イデオロギー」ではなく「カルチャー」の部分が、もし高齢者のそれであったら?
「古株のオタク」というのはもう、ほぼ「サブカル」というのと同義です。
 今までぼくは「サブカル」にさんざんっぱら毒を吐いてきました。一つには単純に彼らがぼくたちにケンカを売ってくるからであり、もう一つは彼らが古色蒼然たる左派的価値観を深く内面化しているからですが、更にもう一つには、彼らの文化が極めてDQN的だからです。暴力的な表現で何かを破壊することに意義があるとの素朴な信仰が、彼らの本質です。
 つまり先の仮定がもし正しいとすれば、彼らはオタクではないし、そもそも「オタク的心性」が丸きりわかっていない。となると、彼らが本書に対して物申すことは(いえ、そもそも彼らがオタクの代表者であると自称し続けることは)オタクにとって、大変にマイナスになると考えざるを得ないのです。
 今までもぼくはオタクを「草食系男子」に近しいモノとして語ってきました。皮膚感覚で感じることでもあるし、レイプの認知件数が年を追う毎に激減していることなどを考えてもこれはまず、間違いがない。
 何よりもオタク文化は基本、草食的なものです。「美少女コミック」自体がそうで、ある種、少女漫画に影響を受けた内省的な作風は、KEYの「泣きゲー」に象徴される美少女ゲームへとつながっていきました。もちろん、陰惨なレイプ物、猟奇的表現などもまた、一方では存在はしていましたが、しかし「萌え」という言葉がオタク文化を席巻したことを考えれば(過激で暴力的なエロを「萌え」とは言わないでしょう)何がオタク文化の本質かは自明です。
 そう、本書に対する批評には、「オタクと言う名の草食系男子を、あなたたちはどうしてそこまで気に入らないのか」という視点がどうしても入らざるを得ないわけです。
 引用した箇所で充分おわかりいただけるかと思いますが、本書では旧態依然とした「女を搾取するモンスター」としての男性像が透徹されています。もちろん「草食系男子」などといったナウい単語はご存じでないのであろう、一言も出てきません。
 確かにオタク文化は「幼女」を性の対象にする側面があり、ぼくはここを全面的に問題ナシと考えているわけではありません。しかしこれは、「オタクの草食男子性」と表裏一体なものです。それはフェミニスト様のお言いつけ通りに「男性性を降りた」男たちが、フェミニズムに物申すようになったことと実は全く、同じ構造を持っています。
 しかし左派の、悪いけど古くさい言説の力で、そこをちゃんと語ることができるかとなると、それは怪しいと言わざるを得ない。

*3 今までの「オタク論」は過去のものと化す? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ!(https://note.com/hyodoshinji/n/na9fe65fb8097)

 ツイッターでの、左派とおぼしい方の意見には「北原は非道いが、香山はそこまででもないよ」といったものもありました。もっとも、上の引用を見ているととてもそうとは思えませんが、全体的には北原師匠の方が過激ではあります。確かに、北原師匠は過激なフェミニスト、一方、香山師匠はそれほどフェミニスト色はない。北原師匠自身がまえがきで「香山さんがオタクを、私がフェミを代表する、というわけじゃない。(8p)」と書いていますが、これは逆説的表現で、「敢えて言えばそうだ」と言っているのです。同時に続けて香山師匠を「「オタク」文化の言論人」と評してもいますし、あとがきでは香山師匠が

 おそらくゲーム、漫画、プロレスなどのサブカルにどっぷりつかっていた私は、人間をあえて「オタク」と「非オタク」に分けると明らかに前者なのだと思う。
(245p)

 とも言っています。「お引き取りください」と懇願したいところですが。
 しかし上に「サブカル」という言葉が使われていることにこそ、ことの本質が現れているように、ぼくには思われます。
 そう、先の「香山はマシ」論者の気持ちは、本書を通読すると一応、理解ができるのです。要するにそうした論者は香山師匠同様、サブカルだと言うことです、事実、香山師匠、会田誠にはかなり好意的なのですから。

香山 社会全体が受け入れているというより、あくまで制度としてのアートの中で、と考えてはダメですか? 会田さんは安倍政権を批判しているといわれる作品もありましたが、デモではなくてアートとしてのレジスタンスということではないのでしょうか。
(108p)

香山 ある種の権力、制度、倫理への挑戦のシンボルではないですか。
(108p)

 会田というのは萌え絵をパクったような絵*4で「女の子をジューサーにかけたり」といった胸糞表現をしている御仁ですが、彼女はそれを上のように称揚しているのです。ならば草食的なオタク表現などもっと許されるべきだろと思うのですが、何故かそうではないのは、既に引用した箇所でおわかりの通り。即ち、香山師匠は反社会的で残酷であればあるほど、それは望ましいとのサブカル≒左派的価値観の持ち主なのです。
 サブカル≒左派的価値観がオタクの敵であると共に、大衆の支持も得られないモノであると、はっきりと示された瞬間です。
 事実、あっさり北原師匠に「オルグ」される箇所もあります。

北原 (前略)昭和時代にエロをカウンターカルチャーとして抵抗してきた延長で、今のAV文化を捉えるには無理がありすぎる。表現の自由というのは民主主義で揉んでいくものだと思うんですが、揉む力さえなくなっていると思います。
香山 表現の自由って言いながら、結局は市場主義的に売れる物が優先されているだけなんですよね。萌えキャラを商売にする人は「自由を守れ!」と思いながらやっているわけではなく、「これやっといたほうが売れるから」くらいの安易なものなんです。
(90-91p)

 売れた「オタク文化」への憎悪でいっぱいですね。商売で儲けようとするのが悪いと言われても困りますし、ましてや日陰者だったオタク的表現がここまで社会に広がるまでにはどれだけのエネルギーが費やされたか、考えるだけでも気が遠くなるのですが、香山師匠はそんなことは、絶対に認められないご様子です。
 以前ご紹介した『間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに』*5には「なぜサブカルは自分はオタクだと言いたがるのか」という節タイトルがありました(もっとも、その節にも本全体にも、この疑問に応えている箇所はありませんが)。これは至言であり、サブカル君はオタク文化を深く憎んでいるにもかかわらず、世間に対してはオタクを自称したがる。彼らは後輩の名前だけで食っている売れない先輩ですから。香山師匠が本書でとっている態度もまた、同じでしょう。
 師匠の中にあるのは、サブカル君たちのオタクに対する憎悪と同じものではないかと想像できます。一つには滅び行く存在の、商業的成功を得たオタクへのはらわたの煮えくりかえるような嫉妬の感情でしょうが、もう一つはオタクが「カウンターカルチャー」としての自分たちの文化の特質、要は左派的価値観を継承しなかった点にあります。
 だからこそ、香山師匠はオタクという場から出て行ってくれたし、萌えにも否定的になった。これはちょうど、一時期古株のフェミニストであるピルとのつきあい方公式師匠が「オタク界はリベラル女子のためのサークルですよ」と騙され、召喚されていた状況と、完全に線対称です。

*4「『朝日新聞』3月1日朝刊「アートか「児童ポルノ」か挑発的な美術展」」(https://ch.nicovideo.jp/hyodoshinji/blomaga/ar139581)。ここにも引用しましたが田亀源五郎先生の、「オタク文化をつまみ食いしやがって」との感想に、ぼくも賛成です。
*5『間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに』(https://note.com/hyodoshinji/n/n49ecad0f934f?magazine_key=mc65feced0010)

 まとめましょう。
 先に書いたように本書はサブカルである香山師匠とフェミニストである北原師匠の対話という体裁を取っており、その内容はフェミニストがオタクをオルグしようとする過程そのものである、とまとめることができます。
 それと同様に「表現の自由クラスタ」とピル師匠の振る舞いはリベラルがフェミニストをオルグする過程そのものである、とまとめることができます。
 いずれも、オタク男女も一般的な男女も放り出されたまま、密室で「何か、変わった人たち」による談合が進んでいるという点については変わりません。
 彼ら彼女らはどこまでも線対称の、しかし相似形な存在であったのです。
 彼ら彼女らは共に、「人間の性意識を改造することで地球侵略を企む、悪い宇宙人」でした。ただ、たまたま出身星が違ったがため、その改造プランのベクトルが異なり、利害が一致せず、地球を舞台にバトルを繰り広げているだけなのです。地球人におびただしい被害を出しつつ、互いに「ヤツこそ侵略宇宙人、我こそは地球を守りに来たウルトラ一族なり!」と主張を続け、おずおずと「よそでやってください」と懇願する地球人たちに対してだけは口を揃え、「このネトウヨ星人め!!」と絶叫を続けながら。
 最後に、ぼくが本書で一番笑ったところを紹介しましょう。

北原 今、ネットで怒る女性たちの勢いが希望です。だって、やっぱりエロ漬けされてオナネタを必死で手放さない男たちを「せんずり村の住人」と名付けたりとか、楽しい。
(91-92p)

 北原師匠が楽しそうで、何よりです。
 もちろん本書、「まなざし村」と言った言葉も全く、出てきません。
 危機感は一切、ないのでしょう。