目下、『WiLL Online』様で新しい記事「令和時代の画期的なドラマ『虎に翼』を解析する」が掲載されています。
NHKのフェミプロパガンダ番組の脚本家が、法廷ドラマを書いておきながら司法の根源否定を始めてしまった――というお話です。
発表の翌日には一位に躍り出るという人気ぶりで、いかにフェミの偽善に誰もが辟易としているか……が窺い知れます。
どうぞ応援を、よろしくお願いいたします。
さて、前回の続きです。
10位から5位までは前回記事で発表しているので、まずはそちらから読んでいただくことをお勧めします。
第4位 唐沢俊一死去
フェミ――とはさすがに、直の関係はないのですが……。
実はnoteにおいては本年で一番読まれたのですな、上の「唐沢俊一論」が。
意外に賛同の声が多く、唐沢氏(や、岡田氏)が「本音ではそうではないんだけど、否定しないと世間の目が恐い」というトランプ的立ち位置の存在であることが、再確認できました。
ぼくが唐沢氏にいささか擁護的であり、また唐沢アンチには徹底して否定的なのは,後者が明らかに、メンツ的に「サブカル」であり、その「思想」も「サブカル」だからです。
「サブカル」というのは基本、コンテンツを自由に作ることを認めず(オタクを叩くのはそうした理由によります)、「正しい表現」をありがたく拝受することを使命とする存在であり、その「正しい表現」は彼らの歪んだ政治的理念に動機づけられており、人間の本来の感受性の瑞々しさの全てを完全に否定しきったものであることは、言うまでもありません。
そのことは、上に挙げた二つのnote記事、ことに下の方を読むことでご理解いただけましょう。
要するに彼ら彼女らはフェミニズムと全く、同じ存在だと言うことです。
さて、実は本件について、岡田斗司夫氏が年末のニコ生で言及していました。
(ついでに書くと、それ以前には「岡田は唐沢の死に何も触れていない、触れていない」と騒ぐアンチの姿も散見されました。あんたらが騒ぐから言及しにくいんだろうに、無理やり騒いで敵を悪者に仕立て上げる様子は、フェミそっくりです)
唐沢氏が死去した時にも年末に触れると予告、また実際触れたのも有料パートということで、あまり流布されたくないことなのかも知れませんが、少し詳しく観ていきましょう。
時間としては短いもので、一つは「唐沢は借金まみれで誰彼構わず無心をしていた」と言われているが、少なくとも自分のところには来なかった。つまり盛った話が流布されているのだ、ということ。それに対しての岡田氏の見解は、「唐沢氏は憎まれ、羨まれていた」というものでした。
これは上の記事にもあるように、まさにそうで、要するにオタク界の大物を潰し、自分たちがその椅子に座り、オタクを政治利用したい者たちが、この三十年ほどずっと唐沢氏(や、岡田氏)に粘着し続けて来たという歴史があるわけです。
もう一つ、岡田氏は死去した時になされた唐沢なをき氏のポストに対し、「正直、気持ち悪かった」と吐露し、それに続け、「関係ないかも知れないが」と前置きした上で、「仲のよすぎる夫婦は、その夫婦だけの過激で独特な価値観を持つことがある」とだけ言って、話を終えていました。
ホントにそこで話が終わっちゃったのですが、要するにこれは、件のポストには奥さんの影響があったのでは……ということですよね。
ぼくも内部事情を知っているわけではないので推測するしかありませんが、確かに奥さんはなをき氏の著作にも大きく関わっており、ご自身でも著作があるなど、いわゆる業界人なのです。
また、これも一般論になりますが、漫画家や作家などの奥さんが夫の力を自分のものであると錯覚し、傲岸不遜な振る舞いをするというのは確かに、本当に極めてよくあることです。
ただ、実はなをき氏自身がまさにそれをテーマにした作品を描いたことがあり(『まんが極道』4巻「漫画家の妻」)、そこで何とその問題の漫画家の妻の名刺に描かれている似顔絵が、奥さんの似顔絵そのままなのです。つまりそこまで自虐ギャグをやれる人が、そうおかしな心理状態に陥るものかどうか……正直、ぼくとしては俊一氏、なをき氏共にファンで両者とも悪く言いたくはなく、それでこんなことを書くのですが……。
もちろん、悪意にとれば「全て岡田のウソだ」と言ってしまえるし、ある程度岡田氏寄りに考えても、「旧友に味方したい」という心情が働いたのだ、と考えることもできるでしょう。
が、岡田氏の極めて曖昧で歯にものが挟まったような言い方から察するに、なをき氏のポストが奥さんの影響でねじ曲げられた、ウソではなくとも「盛った」ものであったことが推測できるのです。
もちろん想像に過ぎませんが、あまり社交的とも思えないなをき氏にとって、ある意味奥さんは窓口であり、その影響というか意向が、ポストにも反映されていた。しかし考えれば以前、なをき氏は俊一氏と組んでいたわけで、言うなら奥さんにとって「前妻」である俊一氏は快い存在ではなかった……。
或いはまた、業界人である奥さんの側に、何やらしがらみがあった。奥さんの交友関係にあるコミュニティが、俊一氏を否定しないとすごくいじめられる場であった――ぶっちゃけ漫画界なんて左派ばっかりですから、そうした思想的自由のまるでない場です――といったことが、ここからは想像できるのです。
まー、どっちかと言えば、氏の死に際し、「岡田や唐沢を世に放った者の責任を追及せよ」などとほざく者の「オタクを徹底的に見下しながら『エヴァ』以降、その資産を簒奪した」責任や、「フェミをパクってオタクを叩いていながら、状況不利と見るやフェミ騎士はオタクだ! などとほざき出した」責任を追及する世の中に、早くなってほしいものではあります。ぼくの生きている間は無理でしょうが。
第3位 松本人志問題
これは去年一年の話題としては一番大きいかも知れません。
実際には23年年末の『文春』記事が発端だったわけですが、一年を通して何かしら話題を提供してくれました。
上の四つの記事は『WiLL Online』様で書かせていただいたものです。
最初の二つは松本氏を黒だと断ずる人々のおかしさ、それが通用してしまう異常な状況について書かれています。
また、同様の事件はジャングルポケットの斉藤慎二においても起こっており、三つ目の記事ではそれについて。これもまた、ドラレコの記録があり、斉藤氏自身もそれを調べろと主張、しかしマスコミは斉藤氏の奥さんの夫を擁護する発言にまでバッシングを加えるという異常事態。要するに「一度決めつけられたら終わり」という唐沢氏同様のキャンセルカルチャーがここでも展開されているわけです。
松本氏の件については最終的には『文春』への訴えを取り下げることで一応、幕を閉じたわけですが、最後の一つはそれについて(実質的には松本氏の勝利と言っていいはずが、恥知らずなデマ屋が必死のイメージ操作をしていること)が書かれています。
いずれにせよ2024年は本件によって、日本が法治国家から人治国家になった、記念すべき年と言えましょう。
第2位 パオロ・マッツァリーノ問題
さて、といってもぼくにとっての松本氏問題は、むしろパオロ問題という性質が濃厚でした。
この卑劣で愚劣で低劣なデマ屋については一年通して完全論破を続けて、もう語ることはあまりないのですが、二つだけ指摘しておくと、まず左派というものは「国家権力以外の権力」が好きで好きでたまらないということ。ましてやそれが自分の関わるマスコミ関連となると。自分が潰したい相手を自由自在に冤罪でこの世から葬り去ることのできる社会。そうしたマスコミ恐怖政治社会こそが、左派の求めて止まぬ理想なのです。
もう一つ、パオロは一番最初にぼくが彼の悪口めいたことを書いた時、ちょっとだけ反応しました。いえ、名前はいずれにせよ出していませんでしたが。ところがぼくがソースを提示して過ちを詳らかにしたリプライを送っても、だんまりを決め込み続けた。ブログをたまに更新しては、「彼ら(松本擁護派)は感情的な罵倒を書いてくるだけだ」などと反論者の名前を出すことなく、嘘を書き続けるのみでした。要するに反論敵わず敵を匿名化することで、嘘を重ねることで自己正当化を図る。それがパオロの戦術なのです。
上に挙げたもの、最初の二つは動画で後の二つは記事ですが、それぞれ動画の55回、「反社会学者の奇妙な変節」がパオロの記事そのもののウソを、また動画の57回、「痴漢冤罪とはなにか」はパオロが誇らしげに掲げていた、参考文献(フェミニストの著書)のウソを暴いています。
こんな低質な物書きが長年に渡って継続的に本を出しているとは驚くべき話ですが、フェミニストがそうであるように、彼もまた、権力者におもねることでこれからも、ウソ、デタラメ、まぎらわしいを垂れ流し、印税を稼ぎ続けるのでしょう。
第1位『女災社会』増補改訂版発売
十五年目の『女災』の増補改訂、それこそが本年一番のトピックスであると言えましょう。
ぶっちゃけ出た頃には歯牙にもかけられなかった同書が、今になっては実は精緻な予言書であったこと、それに異はないと思います。実のところぼくのしたことは「予言」などではなく「(出版当時の)現状の指摘」以上のものではないのですが、その「分析」の正当性がようやっと、誰の目にも明らかになったという状況です。
ただ、それだけなら「増補改訂」の意味はありません。
今回、少々の加筆を加えたのは、やはり出版当時と現在では状況が変わっているからに他なりません。
フェミを「オワコン、オワコン」と繰り返していた本書ですが、現在はフェミブームと言っていいほどに、驚くほどにフェミのゴリ押しがなされている。第4章の補論では「本書の予言の外れた点はそこだけだ」としています。
何故フェミがここまで復活したかについては、本稿第6位で既に書いているので繰り返しませんが(……と書いて、読み直したら、大して書いていませんでした。ただ、上げられた記事や動画では詳述されているのでそちらをご参照ください)、同章補論で提唱したこの「女災-1.0」という状況はまさにフェミが女性を犠牲にして運動を完遂しようとしている、言うならタコが自分の足を食うことで周囲に被害を与えているかのような状況、フェミが自分の足を「-1.0」している状況を指し示しています(動画では「痴漢冤罪」ならばそれに相対する「痴漢」という「男災」も存在するが、今では萌えキャラバッシングや「男児からの性加害」といった「そもそも存在し得ない被害」を捏造するターンに入っている、女性の女子力が枯渇している辺りが「-1.0」である、と表現)。
いずれにせよフェミニズムが女性をも不幸にしてきた、その「効果」が如実に表れてきているということです。
そしてまとめである終章補論では、出版当時はここまで顕在化していなかったLGBT問題についても扱っています。ここで提出した「トランス女災」という言葉はいささか無理やりな印象もないではありませんが、いつも言う通りLGBTのロジックはフェミと全く同じであること、そしてそれがやはり女性自身にも牙を剥いていることは、ポイントとして押さえておかねばなりません。
ここではフェミが女性以外の者の「女災兵器」として転用されつつあるという事態を、「シン・女災」と称しているわけです。フェミは最初から男性はおろか女性の敵でもあったのだから、今の「シン化形態」こそが「シンのフェミ」なのです。
「現実(セカイ)対虚構(フェミニズム)」というフレーズはまさにフェミニズムという虚構が、セカイ全体に被害を及ぼしている現実を表現しているわけですね。
一方、本書が出版された時点では想像もつかないほどに、いわゆるアンチフェミも隆盛しているとは言えます(もっともフェミとは勢力的にも政治権力的にも、比べるべくもありませんが)。
ごく大雑把に流れを追うなら、まず十年ほど前、表現の自由クラスタがアカデミズム、マスコミ業界のフェミ(即ち、彼らの女王様たち)を延命するために「ツイフェミ」という概念をでっち上げ、ぼくは徹底してそれに反発し続けた。
ところが上野千鶴子など大物のフェミもダメだとバレ、表現の自由クラスタというよりは純粋なアンチフェミが台頭した。ところが、逆にその本質は女性ジェンダーのネガティビティであり、真の悪はそれを発揮する市井の女性そのものだとなり、むしろ「アンチ女性」の気運が高まった。
もちろん、ぼくはこの「アンチ女性」に対しては必ずしも賛同的ではありません。それは本書第2章補論で述べたように「(一般的な)女性の劣化」も「男性一般のアンチフェミ的意識、自己の権利への目覚め」もある意味では「非婚化」というフェミが社会を破壊したが故に生まれたモノで、後者は基本、好ましいものではあれど、ただ単に「女性一般」を腐すだけではジリ貧だと思うからでもあります(とは言っても、ぼくは「アンチ女性派」の指摘そのものが間違っているといっているわけでは全くありません。現状ではまだ、世間では認識されていない「有害な女性性」の認識、共有をする段階だと考えるべきなのかも知れません)。
いや、しかし「アンフェ」を見ていると今時の若いヤツには騎士道精神などゼロなのだと実感させられます。その前提として、「女性は差別されてきた」といった「洗脳」から、(おそらく学校教育などではいまだそう言われているはずが、実社会の女性たちの姿を見て直感的に)解放されていると強く感じます。彼らは「男女平等」と言った時、即座に「フラットな男女平等」を想定し、そこに「現状は男尊女卑なので女性を引き上げることが男女平等なのだ」という今まで言われてきた虚構の影響は微塵もありません。
現状は、第一に、上野千鶴子師匠の結婚やTERFが象徴するように、フェミニスト自身がフェミニズムの破綻をわかりやすく提示している。
第二に、男性(そう、全女性が「うっすらフェミ」なら全男性は本来、「濃厚フェミ騎士」であったはずです)もフェミニズムの洗脳から解き放たれた。
第三に本来、フェミの手先であったLGBTもフェミとの対立を深め、そしてそれはフェミニズムがそもそも矛盾の塊であったからに他ならない。
完全な空洞と化したフェミニズムに、しかし一般女性はこぞって殺到しつつある。
「お願いなので、私の不幸は私がモテたからだとのフィクションを奪わないで」と哀願を続けながら。
彼女らの主観では自分の身に起こった「悪いこと」は全て「キモい男にモテたから」であり、「いいこと」は「イケメンにモテたから」であると解釈されます(もっとも、彼女らはいずれの場合も同じくらいの快を感じているのですが……)。
だから、これからのフェミニズムは徹頭徹尾、国へのパパ活と共に、弱者男性へと刃を受ける活動になる。
アメリカではトランプ再選によって階層の対立が明らかになったとしましたが、同質性の強い日本においては、フェミニズムによってこれからいよいよ分断が深まり、男女対立が激しくなっていくのでしょう。