前々回の記事の中で、ラディカルフェミニストとリベラルフェミニストにまつわるネット言論のウソについて指摘しました。それはごく簡単に言ってしまえば、「確かにラディフェミが悪者というのは本当だけど、そういうことを盛んに言ってるあんたら(オタク系文化人)がつるんでる女性にこそラディフェミが多いじゃん」という話でした。
「ラディカルフェミニズム」というのは、wikiから引用すると、
現代社会における女性抑圧の源流をあくまでセクシュアリティに求め、時に結婚や家庭も女性解放の障害と見なし、階級闘争の構図へと還元する姿勢
を持つフェミニズムと言うことです。
リベラルフェミニズムはそこまで切り込まずとも法整備などをすれば男女平等は実現できる、と考えるスタンスであると、ひとまずは言えます。
考えれば均等法などが施行されるに及んで男女平等は進んできたはずで、それでも満足できない人々はどうしたってラディフェミという過激な考えに縋る他、ないわけです。
男性論の世界での名著『男はどこにいるのか』の中で小浜逸郎さんは
ところが、社会における男女平等が、不充分とはいえある程度実現されてきたり、また実現が具体的日程に上ってくると、今度は家庭における男の支配とか、性別役割分業の事実とか、それにかかわる女性の過重な労働負担(家事も仕事も)、また日常性のなかでの男の差別意識とか、さらには性行為における男性の優位性とか、イメージにおける隠れた性差別などのとらえ方によって、女性の「劣位」を確認し、問題視しようとする動きがことさら前面に出てくることになった。
と指摘して、
さて、ここら辺りから、フェミニズムはなんとなく少し無理をしているような感じがつきまとうものとなり、
とおっしゃっています。
この論文の初出は1990年。「行動する女たちの会」などがポルノ的広告やミスコンを相手に派手に暴れ回っていた頃です。
この頃まだ「ジェンダーフリー」といった言葉は人口に膾炙していなかったと思うのですが、以降、そうした理念やセクシャルマイノリティの話題がメディアで流行し、インテリたちが盛んに語るようになりました。
そう、女性誌『CREA』で特集が組まれ、また「ゲイ文化人」と称される伏見憲明さんの『プライベート・ゲイ・ライフ』がベストセラーとなり、ゲイブームが起こったのがこの頃(1991)です。ゲイブームはセクシュアリティ論、ジェンダー論と連動して一部のインテリたちに影響を与え、またフェミニストたちもそれを大いに利用しました。事実、伏見さんの本を見ると当時のフェミニストへの盲目的な傾倒がこれでもかと語られています(実のところ、近年の伏見さんは『欲望問題』などに見られるように、フェミニズムやジェンダーフリーへの鋭い疑問を呈しています。ただ、初期の著作は極めてフェミニズムに親和的であったこともまた、事実かと思われます)。
つまり、まさにラディカルフェミニズム的な論調が日本で盛んになったのがこの頃であり、小浜さんの文章はある意味そうしたラディフェミ上陸前夜に行われたラディフェミ批判、とも言えるわけです。
ぼく自身は別にラディフェミだけが悪者、というスタンスを取っているわけではありません。フェミニストなんてみんないっしょだ、というのがぼくの考えですから。
が、年末から年始にかけて、ツイッター上でホモに関する話題がいくつも浮上し、それらを眺めている間に「考えるとホモの地位が上がったのってその頃だよな」ということに思い至ったのです。
つまり、ホモはこの頃にラディカルフェミニストたちによって、「人権兵器」として利用され出したわけです。
以下、順序立ててみていきましょう。
トピックス1:「#タイトルの一部をホモに変えると恐ろしさが増す」というタグについての諸相
先月26日、ツイッター上で「#タイトルの一部をホモに変えると恐ろしさが増す」というタグが大流行しました。案の定、これに「差別的でケシカラン」との物言いがついたのですが、その論旨が「ホモが恐いなどと思うのは間違っている」というもの。
ぼくはその主張に、頷けないものを感じ、togetterにまとめました。
このタグをはやらせた(&乗っかった)者の正体は、ぼくにはわかりません。
しかし仮に腐女子だとするならば、彼女らはホモが「恐くないから」こそBLに耽溺するのだし、同様にタグの「恐い」には「恐くない」との意が込められているはずです。それはイヤでないからこそ「いや~ん」というのと同様で、女性ってよくそうした反応をしますよね。ならば、そうした女性の業にまで問題意識を掘り下げなければ、正論を吐くだけでは無意味です。
そしてまた仮にはやらせた(&乗っかった)者がヘテロ男性だとするならば、残念なことに彼らにとってホモの「ホモ性」は「恐い」ものでしかない。むろん、その「ホモ性」をホモが誰彼構わず発露するとは限らない以上(つまりホモといってもヘテロ男性にセクハラなどするのは少数派であろうから)「だからと言って、ああした遊びが許されるのか?」との批判は成り立つでしょう。が、ただ「ホモは恐いとか思うな」と叱責したところで、問題が解決されるはずはありません。
結局、「やめろ」と高圧的に言うだけでは問題は解決しないし、言いたい者は言い続けるでしょう(それを力で押し留めることなど、絶対にあってはならないことです)。
だから結局、これを広めたのが腐女子であると仮定するなら、「恐い」といった言い方はやめて「萌える」みたいな表現にしよーぜ、くらいのことを言っていくしか、ないわけです。
トピックス2:「セクシャルマイノリティの告知ポスターがパロられた件
これは昨日の話でしょうか。
セクシャルマイノリティのNGOが告知ポスターを作ったのだけれども、ネットでそれをパロディ化した者がいた、というお話です。
トップに挙げたのがそのポスターで、男女のカップル、女性同士のカップル、男性同士のカップルの三組が幸福そうにしているイラストであり、「多様なあり方を認めよう」といったメッセージを込めたものでした(ただし電話番号は既に無効とのことで、消しておきました)。
が、何といいますか、敢えて言えば「萌え絵」で描かれていたそのイラストの、男性同士のカップルだけが「ガチムチ兄貴」同士のカップルに改変され、それがネットで「晒し上げ」られたのです。
それが以下ですね。
これに対して関係者の方が「悪意ある改変で許せない」と憤ったのです。
が、考えてみれば改変後のイラストも(いや、むしろそちらの方が)ホモに受けそうな絵です。これに対しては「多様性を認めようと言いつつ、悪意ある改変とは何事、お前の方がガチムチ系のホモを差別しているのだ」との意見が殺到したようです(実はぼくも送ってしまいました)。
そしてまた、関係者の方も反省すると共に、「しかし絵を改変した者(或いはそれを嗤った者)には悪意があったではないか」といった感じのことをおっしゃっていました。
まあ、それは確かだと思います。
件の改変ポスター、改変者に悪意がない可能性もゼロではないとは言え、普通に考えればあのパロディの意図は「要するにホモはきめーんだよ!」の一語に尽きます。だから「悪意あるからかい」と受け取ってしまうことも、ムリはないといえばムリはない。
しかし更に言うならガチムチ系に嫌悪を感じる感覚は、ぼくたちの社会の動かしがたい美的感覚でもある。更に言えば、元のポスターのさわやかな筆致は、それを鑑みたからこそのある種の美化とも言えます。
ぶっちゃけ改変後の絵は、ぼくの感覚からすれば「キモい」。ある種、元のポスターはそこを見越して、萌え絵を採用した、ある意味「あざとい美化」を施していた。
それは悪いことだとは全く思いません。「戦略」としては全く正しいでしょう。
でも「多様性」を謳っておいて改変後のポスターはまかり成らぬと言うのもまた、リクツが通らない。事実、イラストは両方、ホモの漫画家さんによって描かれたモノらしく、その一方だけを否定するというのはセクシャルマイノリティのNGOとしては本末転倒です。
しかし、だからこそこのパロディが「非常によくできた批評」であることも否定し得ないのです。
言ってみれば、このポスターはものすごいブスが一生懸命お化粧して、可愛く写した写真のようなものでした。心を込めたラブレターをしたため、それに同封した、「勝負写真」だったのです。
それに対して、あのパロディポスターはお断りレターに「お前は本当はこうだ!」とばかりに同封されていた、その女性のすっぴん写真だったわけです。
すっぴんの顔を盗撮したこと、そしてわざわざそんなものを送ってきたことの是非を問うことはできるけれども、結局彼女を傷つけたのはそんなことではなく、自分がブスであるという事実、そして「拒絶された」という、それ自体はどうしようもない事実なのです。
相手に愛されたくて一生懸命ラブレターの文面を考え、頑張ってお化粧して可愛い写真を撮ったその娘のその時の気持ちを考えた時、非常に痛ましく気の毒でもあるが、また一方、断られることそのものはどうしようもないことでもあります。
要は、相手がどう感じるかをコントロールできない以上、仮にあのパロディ的なポスターを法的に訴えたにせよ(ちょっと難しいでしょうが、仮に強引にそうしたとしても)、ヘテロ側のホモへの忌避感が変わるわけではないのです。
件の女の子はまたタフに婚活パーティに出かけるか、或いは「おひとりさま」でいいじゃん、と女の子の友だちと遊ぶか、どちらかしかないわけです。
ある意味、日本は新宿二丁目というホモのための場の用意された珍しい国でもありますし、またネット普及後は、そうしたネットワークはいくらでも容易に作ることができます。だからぼくとしては後者がお勧めな気がしますが、しかしそれでもヘテロセクシュアル側に働きかけたいというのであれば、やはり勇者として、戦いで傷つく運命を、我が身に受け止めざるを得ないでしょう。
トピックス3:「コミケの淫夢デマネタに翻弄されるノンケとそれに対するホモ淫夢民の反応まとめ」
これは冬コミ開催中の話です。
ツイッター上で「コミケ会場に薬物入りの紅茶を飲ませる変質者が出たぞ」との噂が拡散されたのですが、実はそれがホモの流したデマであっったらしい、というのが経緯です。これもまた、togetterにまとめられています。
どうもこの噂話の元ネタがホモの間ではやっているAV発祥のジョークらしく、そうしたネタを知るホモであれば、容易にウソとわかる性質のものだったらしいのです。「そうしたデマを流したのがホモだという証拠はないではないか」との指摘もありましたが、togetterを見る限り、少なくともこうしたデマにホモ側が快哉を叫んでいます。つまり「ホモがノンケに性的な悪戯をして、まんまとノンケが騙されたことにVサイン」という状況。
しかし奇妙なことなのですが、少なくともぼくが知る限り、流されたデマには「男が男を誘う」という箇所が全くない。つまりデマを聞いたら普通であれば「男が女を誘っている」と解釈するのが普通であろうと思われるのです。つまりホモは勝手に「相手を騙した」と思い込み、Vサインを掲げていたわけです。
例えるならば男子校の生徒が女子校に忍び込み下着ゲット、しかしそれは中年女教師のものであった。普通なら柄でわかるものを、女に対する免疫がなかったがため、というような状況でしょうか。
見ていて面白いのはホモ側に(知恵ばかりか)屈託がなく、ここからは「偏見に苦しむ聖者」といった一部の人間が着色した政治的色彩は感じられないことです。タチが悪いとは言うものの、中学生のバカなガキのようなもので、ぼくは彼らをどうにも憎むことができません。一方、感心するのはそのデマを知った側のリアクションです。「キモい、ホモ死ね!」でも「ホモを差別するな」でもなく、極めてニュートラルにデマを飛ばした側を批判しています。
ホモにまつわる政治的言説は、実は本当はごくごく限られた一部の人間だけ間で効力を持つ「呪文」でしかなかったのだなあと実感した瞬間です。
――以上、ホモネタを三つほど見ていただきました。
三つ目はいささか異色であり、またそれぞれぼく自身のスタンスも統一されておらず、混乱した方もいるかも知れません。
が、ぼくの言いたいことはそれほど難しいことではなく、「差別はダメ」という絶対正義にモノを申すつもりはないが、だからと言って個々人の感じ方にまで文句をつけるのはそれ以上の悪だよね、ということです。
ポスターの件は何とはなしに沈静化する方向に向かっているようですが、これはある意味、「ブスが、自ら抱えているブス性をどう捉えているか」を試された、非常にタチの悪い、しかし優れた「批評」でした。
しかし一部のインテリたちは「ホモフォビア(ホモ恐怖症)」などといった造語を作り、「感情そのもの」を圧殺せんとしています。
それは丁度ラディフェミが登場してきた頃と時期が「完全に一致」しており、彼女らもまた昨今では「ミソジニー(女性嫌悪)」にこそ女性差別の原因を求めようとしています。
これはつまり、「体制」とやらへモノ申しても少しも事態が好転しないので、こうなったら俺らが「体制」になって個々人の心をいじっちゃおうぜ、というシャア・アズナブル的な、圧倒的に傲慢な、おぞましいエゴでしかありません。
自身も被差別部落の出身者であり、差別問題を研究している灘本昌久教授は著作『ちびくろサンボよすこやかによみがえれ』の中で、「被差別者」たちのテンプレである「踏まれた足の痛みは踏まれたモノにしかわからない」という言い方に、
しかし、俺にはお前の左足を踏んでいるのは、お前自身の右足に見えてしかたがないんだよな。
と痛烈な一言を浴びせています。
おわかりでしょうか。
ぼくの例えに準えれば、ブスの左足を踏んでいるのは、彼女自身の「ブスさ」だったわけです。
それに対しトピックス3の何と健全でニュートラルなことか。
多分、インテリの皆さん以外は、実はホモもノンケも両者共が、トピックス3という健全な世界の住人だったのです。
■補遺■(2013/01/22)
本論に関して、現時点でも基本的に考えは変わってはいません。
今回奇妙なことに、専らコメント欄では「淫夢」関連のことばかりが取りざたされました。
「兵頭は“淫夢厨”全員がホモだと決めつけたのだ」といった残念な読解力を発揮する方もいらっしゃいましたが、読めばわかるように、ぼくはあくまで「一連の騒ぎ(冬コミ当日のデマ)ではしゃいでいたのはホモだと考えるのが自然だろう」と言ったに過ぎません。
むろん、「ホモに濡れ衣を着せるためにヘテロが仕組んだのだ」と考えることは不可能ではありませんが、ことさらそう考える根拠は薄く、また、にも関わらずヒステリックに、特に根拠を上げることなく後者の説を採る人が多いことが、ぼくには恐ろしく感じられました。
が(こっからが本題なのでちゃんと読むように)。
上に挙げた「まとめ」をまとめた人物について、プロフィールを辿ると、確かにホモではないように思われます。
むろん、だからと言って「はしゃいでいた他の連中もまた、ヘテロだ」と決めつけることはできませんが、とは言え、あのまとめ自体は「ヘテロ側の仕業」の可能性は高いように思われます。
ちなみにこの件についてぼくに示唆を与えたのは、普段は当ブログを荒らす怨敵、SKYLINE嬢です(笑)。
以上、補足すると共に感謝の念、ここに表明させていただきます。
コメント
コメントを書くえ、こいつ本気で「淫夢厨は同性愛者」だと思ってるのか?
「ノンケ」って言葉を額面通りに受け取ってるとか自分、草、いいすか?
「補遺」も読んでみてください。
ただこの件についてはあまりにホモ側のリアクションがヒステリックすぎて、またちょっと揺り戻しというか「実際にはホモも多いんじゃないかなあ」という気もしているのですが。
>>87
理解力が抜け落ちてるから無理かも。
何度説明しても都合の悪いことはスルーで
ただただ同じ事を繰り返すだけだから。
>skyline
オツ。
無自覚の低脳が一番厄介だからあまり相手にしない方がいいんじゃ。
相手にしている側が疲弊してしまって割りに合わないよ。
KSEG氏もそうだが、JKはskyline嬢のコメントまで見る粘着力がありつつ「補遺」を見てないのね。
いや、実際には彼は「見た上で故意にスルーしている」のだ。
何しろ彼はtogetterでも暴れ回っていて、既にぼくは彼に「補遺」と同じ主旨のコメントをしているのだから。
ことほどさように彼らのような「セイギノミカタ」は、自分にとって都合の悪い事実を自由自在に取捨選択するというスキルを持っていらっしゃる。
大変に恐ろしい話だが、一番怖いのは彼らがその「恐ろしさ」に無自覚で自分を正しいと妄信し続ける点だ。
すごいですね。
うーんこの
今更コメントするのもアレですけど・・・他の人も散々指摘しているように
淫夢ネタは基本的にノンケガキが、ホモビを所謂「コント」のように捉えて
面白おかしくネタにするコンテンツですよね?
今回のこれにしてもホモがノンケ界隈に出張ってきたのではなく
大半がノンケの淫夢厨がホモの「コント」を面白がって囃し立てて
それをネタに何も知らない一般人を釣ったというのが実際のところだと思います。
「ホモの間ではやっているAV発祥のジョークをホモが広げた」のではなく
「ホモのコントネタを、(大半がノンケの)淫夢厨が面白がって広げた」が正しいかと。
「李田所という架空の朝鮮人を作り上げて在特会を釣った」という例もありましたが
あれと同類の騒ぎのようなものだと考えればいいと思います。
そもそも騒いでるのがノンケかホモか、という次元で考えることが不毛では。
1章2章4章は淫夢厨にとっては評判がいい「コント」のような扱いであり
ガチホモ兄貴達は淫夢厨の間では空気扱いしてる3章のが一番抜けるそうです。
ガチホモ兄貴達にとってはそもそも真夏の夜の淫夢自体が
淫夢厨が取り上げる前は「数あるホモビの1つ」くらいにしか思ってなかったかと。
それこそ星の数ほどある、本来なら忘れ去られたはずのもので、ガチホモ兄貴からの
関心が高かったわけじゃありません。
すんません、こっちはずっと見ておりませんでした。
もう一つのブログの方で「ニコブロにも書きましたが……」とおっしゃっていたのは「当時に」ではなく今書いてくださったコメントを指していたわけですね。
そちらにも書きましたが、この記事を書いていた頃の認識は、今となっては間違っていると思います。
ただ、(こちらのコメントでは多少、大理石さんはホモ寄りのスタンスで発言していらっしゃいますが)淫夢ネタをただ「ホモ差別だからけしからぬ」と言うだけでは、やはり話が始まらないのではないかなあ、とも思っています。
返信ありがとうございました。
とりあえず淫夢界隈については既に誤解が解けているようで安心しました。
こちらが言いたかったのは差別けしからぬという話というより、淫夢ネタは
ホモのやりとりをコント視点で見てるという事実があるということだけです。
淫夢はホモを面白がるというより、面白いホモで笑うという方が近そうですし。
お忙しい中今更の話につき合わせてしまいすいませんでした。
>淫夢はホモを面白がるというより、面白いホモで笑うという方が近そうですし。
そうですね。
「ホモ差別」とも「ホモへの共感」とも違う、「ただの悪趣味なネタ」としてこっそり楽しむのがよさそうです。