⌘                  2015年01月08日発行 第0829号 特別
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 ■■■    日本国の研究           
 ■■■    不安との訣別/再生のカルテ
 ■■■                       編集長 猪瀬直樹
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 読者の皆さま、新年あけましておめでとうございます。
 新年第一弾のメルマガは、ニューズウィーク日本版(12月30日・1月6日合
併号)に掲載された猪瀬直樹の論考を配信いたします。

         *


「安倍と祖父・岸信介の『共通認識』」

 安倍内閣は第1次、第2次を通じた在任期間が1000日を超え、戦後歴代
で7番目の長さとなり、第6位の祖父岸信介(1241日)に迫っている。安
倍晋三と岸信介の“血の系譜”をことさら強調するつもりはない。戦前と戦後
の冷戦体制下の祖父の時代と、冷戦後のグローバル時代では政治的な背景が異
なるからだ。

 それでも共有されるものがあるとすれば、日本の近代化が19世紀半ばに黒船
来航という列強の脅威から始まった点である。しかし、現代の日本人は国家の
存立や国民の安全を保障するものが軍事力だけとは少なくとも表面上では考え
ていない。

 70年ほど前のことだ。正面の敵であるはずだった“鬼畜米英”が雲散霧消し
た。実際には消えたのではなく日本が敵にすっぽりと覆われたのである。大多
数の日本人はそれが居心地のよいものであると感じた。300万人もの同胞が
死地に追いやられた悲惨な体験に比べると、平和ほど尊いものはない。

 1960年の日米安全保障条約締結をめぐる安保騒動は、敗戦から15年後の
ことだった。幼かった安倍晋三は、安保条約が自然成立する前の日、国会と官
邸が33万人のデモ隊による騒音に囲まれると、首相だった祖父に「アンポって、
なあに」と尋ねた。「安保条約は日本をアメリカに守ってもらうための条約だ。
なんでみんな反対するのか分からないよ」が答えだった。

 日本はなぜアメリカと無謀な戦争をしたのだろうか。僕は『昭和16年夏の敗
戦』で、日米開戦に至るまでの政府・大本営連絡会議の意思決定の経緯を確認
してみたが、陸海軍を含めて縦割りの官僚機構がそれぞれの利害の衝突を繰り
返すうちにずるずると日米開戦となってしまうのである。運命のなすがまま、
決定のない決定というような不可解な過程だった。

 どうしてそうなったのか。振り返ってみると、安倍晋三の祖父岸信介の姿が
見えてくる。

 幕末、ペリーの黒船来航で日本人は腰を抜かした。その様子は「泰平の眠り
をさます上喜撰(蒸気船)たった四はいで夜も眠れず」と詠まれた。尊皇攘夷
が叫ばれたが日米の軍事力の差は圧倒的で、不平等条約を結ばされ、植民地化
の危機のなか明治維新へと至るのである。

 明治政府は富国強兵政策で、司馬遼太郎著『坂の上の雲』に記されたように
日清戦争、日露戦争を乗り切った。明治政府にとって国家と国民の生存権を確
保することが最大の課題だった。弱肉強食の帝国主義の時代であった。問題は
そこから先にあった。当面の地政学的脅威が去ってみると、太平洋の覇権を求
めるアメリカが仮想敵国とされたのである。

 大正時代、ヨーロッパでは第一次大戦が勃発し、4年間にわたる殺戮戦が繰
り広げられた。毒ガス、飛行機、戦車が登場しただけでなはない。戦闘は局地
戦ではなく国家の経済力を含めた総力戦の様相を呈した。死者は1000万人
に及んだ。

 日本は総力戦の怖さを経験していなかった。だが国家とは弱肉強食の生存競
争によって生き残る、と考えている。軍事力だけでなく経済力もなければ総力
戦には勝てない。

 満州事変の張本人と呼ばれた石原莞爾は「世界最終戦争」が起きると述べた。
それは数十年先を見越した予言であった。満州に眠る豊かな資源を開発し、重
化学工業を発展させ、日本全体の国力を高めていくまでには長期のビジョンが
必要だった。

 僕が岸信介という人物にあらためて興味を抱いたのは、三島由紀夫の評伝『ペ
ルソナ』を書いているときだった。

 三島由紀夫は官僚の家系で、祖父平岡定太郎は内務省に入り、首相となる原
敬からそのやり手ぶりが信頼され福島県知事から樺太庁長官に出世した。だが
疑獄事件に巻き込まれ失脚。その息子、つまり三島由紀夫の父親である平岡梓
は1920年に農商務省へ入った。一高、東京帝大、農商務省と同期だった人
物が岸信介だった。

 内務省や大蔵省はエリート中のエリートの役所である。農商務省は数年後に
機構改革で「農」は農林省へ、「商」は商工省(戦後、通商産業省へ、さらに
経済産業省に)へと分離する。平岡梓は、役人はやり過ぎると失脚するという
定太郎の経験を踏まえ、万事において信念を明確にしない消極的ニヒリストだ
った。だが同期の岸信介はまるで正反対で、若い頃から“商工省に岸あり”と
注目された。

●「政治の実体は経済」○

 農商務省の「商」はまだ小さかった。晩年のインタビューで岸は「従来なら
内務省とか大蔵省が政治家への近道であったかもしれないが、これからの政治
の実体は経済にありと考えた」(原彬久著『岸信介』)と答えている。

 この岸信介の予見は正しい。日本は軍事力において五大強国などと自負して
いたが、経済力では先進国には到底及ばず、総力戦に備える実体がなかった。
経済大国と呼ばれるようになったのは、皮肉にも日本の敗戦以降のことである。

「政治の実体は経済」との岸信介の認識は、憲法改正をもくろむ安倍晋三にも
共通している。経済大国とはいえ、少子高齢化などバブル崩壊以降の日本経済
の退潮は先行きに閉塞感を伴っている。

 岸の思想の決定打ともいうべき体験は「農」と「商」が分離した1925年
に1年間の外遊のチャンスを得たことだと思われる。翌26年まずアメリカの独
立150周年記念の世界博覧会を視察した。アメリカの産業規模の大きさに度
肝を抜かれた。とてもかなわない。無駄の大きさにも圧倒された。

「いたるところに古自動車が山のように捨てられてある。いまでこそ日本にも
見られる光景だが、そのころの日本は車の数が少なく、ポンコツを修理して使
うのがあたりまえだった。これはもう全然、スケールが違う世界だ……。日本
の工業の将来を考えると悲観的になった」。一方ドイツへ行ってみると、無駄
を省いて合理的にやっている。「ドイツでは日本と同じように資源がないのに、
発達した技術と経営の科学的管理によって経済の発展を図ろうとしていた。私
は『日本の行く道はこれだ』と確信した」のである。

 帰国後、詳細な報告書をまとめた。それから3年後に誕生した浜口雄幸内閣
は、ニューヨーク株式市場の大暴落に始まる米国の恐慌に端を発した不況への
対応を迫られ、緊縮財政や国内産業を再編して、経済や産業の効率化を目指す。
緊縮財政の一環として、高級官僚の俸給の1割削減を発表した。

 最近になって公表された「昭和天皇実録」では、昭和天皇が率先して緊縮政
策を実践するべく海水浴のため神奈川県の初声村(現・三浦市)に計画してい
た新しい御用邸の建設を延期した事実が記されている。君主として官吏に範を
示そうとしたのだが、一方の俸給削減案については浜口内閣は官僚たちの反対
であっさりと取り下げてしまう。昭和天皇の威厳は台無しで、「つとめつるか
ひあるへきを山吹の実の一つたになき世をそ思ふ」と嘆いた。

 減俸反対運動の急先鋒は岸信介で、同僚の辞表を集め商工大臣に直談判し撤
回させた。統率力と粘り強さが評判になった。気鋭の官僚として岸信介は浜口
内閣の目に留まり、翌30年に再びドイツ訪問のチャンスを得た。その過程でソ
連で始まっていた第1次5カ年計画が、新しい刺激をもたらした。

「私はあの計画を初めて知った時には、ある程度のショックを受けましたね。
今までわれわれのなじんでいる自由経済とは全く違うものだし、目標を定めて、
それを達成しようという意欲とか考え方に脅威を感じた」(『岸信介の回想』
聞き手・矢次一夫ほか)

 こうして商工省内に臨時産業合理局が設けられた。満州事変が勃発すると満
州産業開発5カ年計画がつくられた。

●「大きな政府」目指して○

 満州国は、農地と平原と森林の広がる農業国である。そこに関東軍、満鉄、
満州国政府は、重化学工業を根付かせようとしていた。36年、商工省工務局長
だった岸は渡満し満州国産業部次長となった。肩書は次長でも大臣にあたる部
長は満州人なので実権は岸が握っていた。官僚の立てた生産計画にのっとって
産業を発展させるやり方である。社会主義的な統制経済すなわち「大きな政府」
こそが彼の生涯を貫く思想である。一方、安倍晋三は小泉純一郎内閣が標榜し
た「小さな政府」から出発している。

 31年に成立した重要産業統制法は、自由主義経済から統制経済、つまり国家
社会主義経済への転換の第一歩だった。起案の中心には少壮官僚の岸がいた。
ひとつの産業で複数企業が競合するよりカルテル化させることで、生産量の拡
大あるいは削減、投資計画と事業活動を政府が指導する、そのほうが効率的と
考えた。

 やがて岸はフロンティアの満州でこの考えを徹底させようとした。一業一社
を産業開発の原則とし、市場競争を排除させ、官僚の立てた生産計画にのっと
り産業を発達させる。岸らは「革新官僚」と呼ばれた。

 時代が日米戦争へと傾くに従い社会主義体制は完成していく。戦時下の海上
運送の船員保険が厚生年金へ進み、終身雇用・年功序列の賃金体系にし、株式
市場からの資金調達ではなく銀行中心の間接金融へ、重要産業団体令をもとに
業界団体がつくられ、営団、金庫(公社、公団)なども生まれた。給与の源泉
徴収制度の導入、直接税中心の税制の固定化、税財源を中央集中化させ補助金
を地方に配る仕組みが確立する。

 日本が戦争に負けた後も、この体制は続いた。むしろ高度経済成長の準備過
程といえた。『通産省と日本の奇跡』(チャルマーズ・ジョンソン著)は、「日
本の産業政策史についてもっとも驚くべき事実のひとつは、戦後の経済的“奇
跡”を担当した責任者たちが、1920年代後半に産業政策を始め、30年代お
よび40年代を通じてそれを実行した人びとと同じであった」と愕然とする。

 41年12月8日、日本は真珠湾を奇襲した。山本五十六連合艦隊司令長官が「半
年や1年なら暴れて見せます」と言ったのは、総力戦ではとても対抗できない
と知っていたからである。45年8月、東京をはじめ主要都市は焦土と化してい
た。

 皇国思想家の橘孝三郎が『日本愛国革新本義』(32年刊行後発禁)で、嘆息
しながら庶民の会話を書き留めている。日本がマイナスのスパイラルに陥って
いく昭和前期の漠然とした心象が語られていると思う。

 「どうせなついでに早く日米戦争でもおっぱじまればいいのに」
 「ほんとにそうだ。そうすりゃー景気来るかも知らんからな、ところでどう
 だいこんな有様で勝てると思うかよ。何しろアメリカは大きいぞ」
 「いやそりゃどうかわからん。しかし日本の軍隊はなんちゅうても強いから
 のう」
 「そりゃ世界一にきまってる。しかし、兵隊は世界一強いにしても、第一軍
 資金がつづくまい」
 「うむ……」
 「千本桜でなくともとかく戦というものは腹がへってはかなわないぞ」
 「うむ、そりゃそうだ。だが、どうせまけたって構ったものじゃねえ、一戦
 争のるかそるかやっつけることだ。勝てば勿論こっちのものだ、思う存分金
 をひったくる、まけたってアメリカならそんなにひどいこともやるまい、か
 えってアメリカの属国になりゃ楽になるかも知れんぞ」

 岸が官僚主導の「大きな政府」を目指したのは、資源のない極東の日本がど
うやってアメリカに対抗できるか、と考えた末だった。日米戦争に敗れた岸は、
東條内閣の商工大臣を務めたためA級戦犯として長期間、巣鴨プリズンに収容
された。3年3カ月後に釈放されると、兵隊服に編み上げのドタ靴で戦闘帽を
かぶり痩せ衰えた岸が、米軍提供のジープで向かった先は、吉田内閣の官房長
官になっていた弟・佐藤栄作がいる官房長官公邸である。着くと言った。

「トロのサシミが食いたい」

 その8年後に首相に上り詰める。岸のアメリカとの戦いは続いた。51年のサ
ンフランシスコ講和のときの日米安保条約を改定させなければいけない。独立
といっても、アメリカの日本防衛義務は明記されていないだけでなく、勝手に
基地を造ることができた。片務的条約を対等に近いものにするための安保条約
の改定だったが、「アンポ、ハンタイ」のデモが押し寄せたのである。

 官僚から政治家へ再起した岸信介は、自由党と日本民主党が合併していわゆ
る1955年体制が確立した後、新安保条約(60年安保)の締結へ向かった。

 新安保条約が成立し岸が退陣すると、池田勇人首相は所得倍増論をぶちあげ
“黄金の60年代”がスタートした。実は「国民所得倍増を目標とする長期経済
計画」を経済審議会に諮問したのは岸内閣である。池田は「10年で月給2倍」
と表現したが、もとは官僚主導による「生産力倍増10カ年計画」だった。

「日本列島改造論」に沸いた70年代は、官僚エリートではない田中角栄政権が
誕生し官僚機構に君臨するが、行政は肥大化する一方だった。

 バブル崩壊後、90年代の失われた10年を経て、ようやく小泉政権が「小さな
政府」へと舵を切った。

 再起という意味では安倍晋三も同じである。1年で終わった短命内閣の反省
を踏まえて長期政権へ踏み込もうとしている。

 経済政策として打ち出したアベノミクスの中心は今のところ日銀の金融緩和
である。高度経済成長期には“労働力ボーナス”と呼ばれ生産年齢人口が急増
したのだが、団塊の世代がリタイアし、また少子化で頼るのは女性の労働力市
場への参入しかない。“女性が輝く社会”は人権面でも正しいスローガンでは
あるが、社会全体の高齢化とその負担は少なくない。アベノミクスは株価の上
昇という意味では成功しているが、小泉内閣が志向した「小さな政府」の取り
組みへの意欲は感じられない。高度成長期は「利益の分配」だったがこれから
先は医療費の削減など痛みを伴う「不利益の分配」をどう調整するかが問われ
るだろう。国債発行残高1000兆円は大きな課題である。

●「属国」か、「対等」か○

 安倍晋三ほどまめに外遊を続ける首相はかつていなかった。資源外交であり、
トップセールスであり、安全保障であり、寸暇を厭わない。必要とあれば、ど
この国へも行き、その国の政治リーダーや経済界のリーダーと疲れも見せず笑
顔で会談する。汗を流す首相のイメージをつくってきた。しかし、規制緩和な
ど国内の既得権益者との対決には強いリーダーシップが求められるはずだ。

 2014年7月には、憲法解釈を変更して集団的自衛権を条件付きで行使で
きる、とした。解散総選挙に勝利して憲法改正が視野に入ってきた。

 世界最終戦争を唱えた石原莞爾は極東軍事裁判のアメリカ人検事に「平和に
対する罪」を問われ、こう開き直った。

「ペリーが来航しなければ、日本は鎖国の中で十分に平和だった。裁くならペ
リーを裁け!」

 だが現代の国民は果たして“黒船”という脅威がどこかにあると信じている
だろうか。各国がグローバル経済のなか絡み合っているときに軍事だけが突出
する事態は起こりにくい。昭和初期の庶民が「かえってアメリカの属国になり
ゃ楽になるかも知れんぞ」とホンネを述べている。

 だが、いま「属国」の義務のハードルをアメリカから無理矢理に上げられて
いるのか、あるいは「属国」でなく自ら「対等」になるためだとしたらそのコ
ストはどのくらいなのか、見極めが付きにくいのである。

         (『ニューズウィーク日本版』12月30日・1月6日合併号)

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