小説『神神化身』第五話

「浪磯のなんでもない日常」(前編)




 浪磯(ろういそ)の海を見ていると、何かを忘れているような気持ちになる。砂浜を歩いていて、自分一人の足跡しか付いていないことを不思議に思い、波打ち際に書かれた大切な砂文字が、振り返る度に消えている気がする。けれど、こんなものは錯覚だ。この砂浜には三言(みこと)以外誰もいない。

 朝のランニングを始めてから一年になるが、この妙な感覚は消えない。それどころかどんどん強くなってきている。それはこの美し過ぎる海の所為なのか、三人で遊んだ記憶を後生大事に抱えている所為なのか。

 六原三言(むつはらみこと)はこの海と町が好きだ。

 しばらく波の音を聞きながら立ち止まる。三言が住み込みで働く『全力食堂リストランテ浪磯』は毎朝八時に開店する。腕時計を確認すると、まだ五時半を過ぎたところだった。もう少しだけこの海を眺めていよう、と三言は思う。

 汗を流してから戻ると、店内に備え付けられたテレビに遠流(とおる)が映っていた。スタジオに招かれた遠流は優しげな微笑(びしょう)を浮かべている。

『本日のおはモニには、初主演映画「運命の恋、なんていわない。」が公開されたばかりのあの人気アイドルの方が来てくれています!』

『おはモニテレビをご覧のみなさん、おはようございます。八谷戸遠流(やつやどとおる)です。こんな朝早くに見てくれてありがとう』

『本日は映画の見所は勿論、国民の王子様として私達を魅了してやまない彼の素顔に迫ります!』

 幼なじみの八谷戸遠流は、高校に上がると同時にアイドルとして活動し始めた。三言にも、もう一人の幼なじみである九条比鷺(くじょうひさぎ)にも何も言わないまま、浪磯を飛び出していってしまったのだ。それから一年が経った今、遠流は人気絶頂の若手トップアイドルとして脚光を浴びている。

 元から遠流は浪磯でも美男子として有名だった。立っているだけで華があるし、一度見たら忘れられないような瞳の引力がある。だから、当然のように有名になっていく遠流を見て、何だか誇らしい。何も相談されなかったことも、会えなくなってしまったことも寂しいが、こうしてテレビで遠流の姿を見られるようになったことで、少しだけ寂しさが和(やわ)らいだ。

 このまま遠流がどんどん有名になっていけば、もっと寂しくなくなるだろう。もしかしたら、全国でライブをすることになって、会場でアイドルとして歌う遠流を見られるかもしれない。
 その時、テレビの中の遠流と、ふと目が合ったような気がした。テレビの中の人間と目が合うというのも変だけれど、遠流が前のように三言の方を見てくれたような気がして、更に嬉しくなった。今日は良い日だ。
 けれど、三言の知っている遠流はこんなに頑張り屋さんではなかった気もする。何をするにもとにかく面倒臭がって、何かある度に動きたくないと言っていた。今の遠流は都内の高校に通い、その上でアイドル活動も両立させているという。以前を知っている身からすれば、とんでもない変わりようだ。

 しかし、店主の小平(こだいら)に言わせれば「全力で人生を生きるようになったってことだろ」ということらしい。確かに、全力で人生を生きるようになったからこそ、遠流は身を粉にして芸能活動に勤いそしんでいるのかもしれない。

「案外、お前の影響かもしれんぞ」

「俺ですか? そうかな……」

「お前だって全力人間だろうが。ウチの店で働いて、その後に舞奏(まいかなず)の稽古。休みの日にも自主練とトレーニングってきたんじゃ、全力だろ! お前はお前の全力を誇れ!」

 そう言って、小平が背中を軽く叩いてくれる。自分は遠流の全力にまだまだ及ばない。それでも、親代わりとして自分をずっと育ててくれた小平にそう言われると、少しだけにやけてしまった。


 全力食堂での三言のシフトは朝八時から、一時間の休憩を挟んでの十七時までだ。仕事を上がると、三言はまっすぐに舞奏社(まいかなずのやしろ)に向かう。元より舞奏の稽古は心躍るものだったが、最近は特に楽しかった。
 何しろ、今月になってようやく舞奏衆(まいかなずしゅう)を組む相手が見つかったのだ。相手はノノウ出身で、化身も発現していなかったが、舞奏に積極的で、三言の練習にも付いてきてくれた。一般的な舞奏衆の人数より一人少ない二人組だが、このまま努力を重ねれば、『大祝宴(だいしゅくえん)』にも行けるかもしれない。本気でそう思えた相手だった。

 しかし、今日の稽古にその相手は来なかった。


 覡(げき)を辞めることは舞奏社の社人(やしろびと)づてに聞いた。力量が追いついていないから、三言の舞奏に付いていけないから、化身が発現していないから、そんなことが理由らしい。
 三言は一人で舞奏の稽古をし、一通りの自主練習を終えてから舞奏社を出た。すると、件の覡に──今となっては元・覡に出会わした。社人と話に来たのか、あるいは何か荷物を引き取りにきたのだろうか。

「……何か言いたいことでもあるのかよ」
 
 暗い声でそう尋ねられ、三言はゆっくりと首を振る。

「俺は無理に引き留められない。今までありがとう。短い間だけど一緒に舞えてよかった」

 本心からそう言ったのにもかかわらず、相手は表情を歪ませながら去っていってしまった。何か間違えてしまったのかもしれない。


 三言の『化身』は右手の甲にある。波と菊の花が合わさったような奇妙で美しい痣は、自我が生まれた頃にはもうあった。これは優れた覡の証とされ、この証があることで三言は無条件に舞奏社への所属を許された。
 けれど、それに見合うだけの努力も重ねている自覚がある。化身が出ていようと出ていなかろうと、自分の舞奏には『カミ』を喜ばせるに足る価値があると思っている。
 ただ、その所為で三言はまた一緒に舞う相手を失ってしまった。彼が離脱したことが知られれば、ますます三言と共に舞奏競(まいかなずくらべ)に出ようとする人間はいなくなるだろう。




 その夜、三言は海の方をぐるりと回って帰ることにした。夜の海は底が知れなくて恐ろしいが、同時に深い優しさも感じさせる。月が海面に反射して美しかった。

 またもあの感覚に襲われる。何か大切なことを忘れている気がする。この海を一緒に見るべき相手が隣にいるような錯覚を覚える。

 けれど、三言は気づいている。多分これは錯覚というよりは願望に近く、並んでつく足跡があればいいなと思っているだけなのだ。




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著:斜線堂有紀

この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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