小説『神神化身』第二部 
第十四話

身温コンフィデンシャル

「というわけで我、水鵠衆(みずまとしゅう)に入ることになったぞ」
「というわけで去記(いぬき)が水鵠衆に入ることになったよ。嬉しいよね」
 朝起きると、九尾の狐が水鵠衆に入ることになっていた。昨日は何やら神妙な顔で阿城木(あしろぎ)の提案を吟味していたというのに、七生(ななみ)と一緒に屋根裏部屋ですやすや寝ただけでこの態度の変わりようである。一体、何があったんだろうか。
 仮にも自分はチームメイトである。だったら、やっぱり話し合いには混ぜてもらった方が良かったんじゃないだろうか。まさかとは思うが、化身(けしん)持ちじゃないと通じない何やらの事情があるんだろうか。
 そう思うと、ちょっと複雑な気分になる。卑屈さが心の中に入り込まないよう、阿城木は自分の作ったフレンチトーストに意識を集中させることにした。今日もしっかり甘く、よく出来ている。
「んー、やっぱり阿城木のフレンチトーストはふわふわだね! 最近多いなって思ってたけど、何度食べてもいいものはいいかも」
「お前がメシの時はデザートが必要ってうるさいからな。もう一緒くたに出来るやつにしてんだよ」
「我、朝ご飯は和食派なんだけども、たまにならこういう甘いのもいいなー。すごくふわふわで、まるで我の尻尾みたい」
「それ油揚げにも適用されるだろ」
 阿城木が諦めずに言うが、拝島(はいじま)は素知らぬ顔でフレンチトーストを頬張っている。こいつにだけ油揚げを出してやればよかった、と思わなくもない。
「おふくろ今日の昼には帰ってくるっぽいから、それまでにどうにかしねえと……」
「どうにかとは何だ? おめかし的な? お色直し的な?」
 拝島が小首を傾げながら言う。そうじゃない。どうせ付け耳の種類が変わるだけだろ! と心の中で思う。だが、拝島は拝島で、魚媛(うおめ)の好みでありそうな気もする。あの母親は九尾の狐に普通にはしゃぐタイプだ。賭けてもいい。
 そんなことを考えていると、拝島がにこにこしながら言った。
「我、フレンチトーストにメイプルシロップもかけたい」
「ああ、あるぞ。そこの醤油と蜂蜜の間にある容れ物のやつがメイプルで──」
 すっかりこの家のテーブルにも、蜂蜜だのメイプルだのの各種が揃うようになってしまった。詰め替え容器に入ったメイプルシロップに、慣れた手つきで手を伸ばす。その時丁度、七生とタイミングが合った。うっかり、その手を掴んでしまう。
「あ、悪い──」
 そう言いかけた瞬間、七生がバッと手を振り払ってきた。信じられないくらいの過剰反応に、阿城木の方までびくりと身を震わせる。
「ちょっと! 気を付けてよ!」
「いや、悪かったけど……そんな怒ることか?」
「うるさい! はい去記、これ!」
「おお、ありがとう。千慧(ちさと)」
 怒りながら、七生がメイプルシロップを拝島に渡す。さっきまでフレンチトーストで笑っていたというのに、この態度の変わり様はなんだ。七生の考えていることが分からない。いや、それより。
 勘違いでなければ、七生の手からはおよそ体温というものが感じられなかった。生身の人間では、ありえないほどに。



 結局、そのことについては何も尋ねられなかったし、朝食が終わる頃には自分の勘違いだろうと思うようになった。さっさと意識の外に追いやって、朝食の後片付けを進める。
 食器を洗い終えたタイミングで、インターホンが鳴った。
 玄関に向かい、戸を開ける。そこには、近所に住んでいる松澤のばあちゃんが立っていた。
「あっれ、入彦(いりひこ)ちゃん? 魚媛さんは?」
「おふくろは昨日から温泉。月一のリフレッシュだと。どうした?」
「ほら、崇(たかし)さんが仕込んでるだし醤油。あれ、分けて欲しくてねえ」
「分かった。待ってろ。親父には言付けとくから」
 玄関で待たせて、台所に走る。業務用の大きな冷蔵庫を開けると、父親が仕込んだ数種類のだし醤油が現れた。松澤のばあちゃんが好きなのは椎茸を多めに入れたやつ、と口頭で確認しながら、小瓶に分けて戻る。
「ありがとうねえ、入彦ちゃん。実は久しぶりに息子が帰ってくるから、これ無いとおふくろの味が再現出来ないのよ」
「俺の親父の味が混じってるおふくろの味でいいのかよ」
「いーのいーの。これ無いと締まんないから。じゃあねえ入彦ちゃん! また舞奏披(まいかなずひらき)楽しみにしてるからね!」
 松澤のばあちゃんが笑顔で手を振って去って行く。やれやれと溜息を吐きながら戸を閉めると、七生の声がした。
「阿城木の家ってほんとに色んな人に頼られてるんだね」
「うわっ、お前なんだよ。見てたのか?」
「見てた。何かなーと思って」
 柱に寄りかかりながら、七生が言う。別に後ろ暗いことなんか無いのだが、少し戸惑った。七生の行動はいまいち予測しづらい。
「阿城木の家は誰でも助けるのがモットーだからな。先祖代々ここ一帯の顔役やってんだ。一文の徳にもならなくても、頼られたら最大限叶えてやる。それが阿城木家だ」
「……ふーん、何でも?」
「まあ、そんな極端なもんだと叶えられねぇけど、大抵の願いは聞くは聞く」
「それじゃ、この辺りでは何かに縋るといえば阿城木のところだったわけだ。どこへともなく当てどなき祈りを捧げるよりは、阿城木のところに頼んだ方がいいもんね」
「……お、おう、何の念押しか分かんねーけど、そうだな」
 七生がじっと阿城木を見つめる。そのまま、ぼそりと彼が呟いた。
「嫌われるわけだ。天敵だもんね」
「あー? 天敵って何だよ」
「さーね。阿城木が駆除して回ってるネズミかもね」
 だってそれは駆除しないとヤバいだろ、色んなもん食われるし。そう言いたかったのだが、七生の顔が何だか悲しそうだったので言えなかった。何だろうか、まさかネズミにシンパシーでも覚えているんだろうか。屋根裏とか蔵にいるチビ同士ってことで、ネズミに同情しているのかもしれない。
 そんなことを考えていると、七生が小さく舌打ちをした。
「何? 言いたいことあるならはっきり言えば」
「なんだよお前、エスパーか」
 心の中で悪口を言っていたことがバレたのかと思い、阿城木が首を竦(すく)める。ちょこまか動き回ってうるさいんだから仕方ないだろ、と思っていると、不意に七生がスッと手を差し出した。
「気味悪いとか思ってる? 死人みたいでしょ。僕だって正直思ってるよ」
「は? 何の話──」
 言いかけて、ふとさっきの食卓でのことを思い出した。メイプルシロップを取ろうとした阿城木の手が、偶然七生の手を掴んだ時のことだ。
「ほんとに意地が悪いんだから。人を拒絶させるのに、これ以上効果的なものもない。触れ合いを奪うんだから、なかなかのものだよ」
 あの時の全く体温の感じられない手を思い出した瞬間、阿城木は差し出された手を思い切り掴んでいた。
「えっ、ちょっ……」
「触れんじゃねえか。うわっ、冷え性とも違えな、マジでなんかこう、0℃って感じだわ」
 体温の全く無い手は、人形を触っているようでもある。だが、こうして間近で見る七生の手には確かに血が通っていて、人肌の質感もあって、……七生千慧が人間であることを伝えてきた。なら、一体これは何なのだろうか?
「ちょっと、そろそろ離してってば」
「お前、これどうした?」
「どうしたもこうしたもない。……説明出来ると思う? こんなの……」
 七生が悔しそうに言う。どうやら、また『阿城木には言えないこと』のようだ。
「……これね、お風呂とか入っても変わんないんだよ。顔が上気してても、このまんまとか、気持ち悪……」
 七生が来てもう半月ほど経つのに、まだ七生は自分がどこから来たのかすら話そうとしない。信頼されていないのだろうか。だが、信頼されずとも、自分達は水鵠衆だ。だから、阿城木は言った。
「こんなの……とか悲劇の主人公ぶってんじゃねーよ! こんなのがどうした、理由言えないんならうじうじすんな! 触れ合いを奪うとか大層なこと言いやがって!」
「ちょっと! 何回それつつく気!? だって、こんなの人間じゃないみたいじゃん!」
 七生が無理矢理阿城木の手を振りほどく。案外こいつ力強いな、と思いながら、阿城木は言った。
「……昔、俺ん家で錦鯉飼ってたんだよ。世話すんの大変だし、最後の一匹が寿命で死んだ時にすげー悲しくて新しいの飼う気になれなくなっちまったんだけど」
「は? ……へー……金持ちっぽい……」
「俺はその一匹一匹に名前を付けてた。鯉次郎、鯉介、アメリー、鯉造」
「アメリーだけ絶対魚媛さんが付けたでしょ」
「あいつらのこと、めちゃくちゃ可愛がってたし大好きだったんだわ。あいつら、全然あったかくねーのに」
 阿城木はかつて庭にいた鯉のことを思い出しながら言う。彼らは今も阿城木家の庭に埋まっている。
「だからお前も──」
「は? ………………はあ? ちょっと待って。この話の結論が見えて、僕は別の衝撃を受けたんだけど、も、もしかして、僕のこと……錦鯉と同列に……」
「ちょっ、穿った目で見んなよ! 俺が言いたいのはそういうことじゃなくて」
「そういうことでしょ! 体温が無くても愛着が持てますってそういう結論でしょ!」
「…………まあ、そうっちゃそう」
「そうっちゃそうじゃないよ! それじゃん! 論拠から結論まで全部嫌だよ!」
 七生がぎゃーぎゃーと喚き始める。折角センチメンタルな思い出まで引き合いに出して慰めてやったというのに、それすらお気に召さないとは。だが、さっきのようにしゅんとしているよりは、こっちの方がいいだろう。心なしか血色もよくなったようだ。
「千慧ー? どこに行ったのだ?」
 騒ぎを聞きつけたのか、居間にいたはずの拝島までひょっこりと廊下に顔を出した。
「あっ去記! 聞いてよ! 阿城木が僕のこといじめる!」
「いじめてねえよ!」
「駄目だぞ入彦。我そういうのよくないと思う。千慧はこんなに愛いというのに」
 言いながら拝島が後ろから千慧に覆い被さる。その時に、彼の手が七生の手に触れた。
「あっ」
「あっ?」
「うん?」
 事情を知らない拝島が不思議そうに七生の手を握りさする。今さっきのやりとりの再現が始まるとでも思ったのか、七生が表情を固くした。そのまま、七生が恐る恐る言う。
「い、去記……ぼ、僕の手……」
「手? 千慧は手が小さいな。我より一回り違いそう」
「そうじゃなくて……その、僕の手、なんか変じゃない……? 体温が無いっていうか……死人みたいで……」
「むー、我は人の子のことはよく分からぬからな。体温が五十度であろうが六十度であろうが気づかぬよ」
「流石にそれは嘘だろ!」
 思わず阿城木の方がそう突っ込んでしまう。
「去記……気味悪くないの?」
「ふふ、我は化生ぞ。主のような人の子の何が気味悪いものか。それでも主がその身を呪わしく思うなら、我とお揃いであることを喜ぶがいい」
 拝島が優しいまなざしで言うのを聞いて、七生が微かに瞳を揺らした。澄んだ水色の眼の中にある、ひとしずくの夕焼け色が合わせて揺れる。
「なんていうか、お前らは変なの同士でお似合いだし、七生はそんな気にしなくていいんじゃねえの」
 七生が唇を尖らせながら「……ミネラルウォーターでお風呂沸かす人間に言われたくない」と呟いた。それは必要に迫られてやった重要な行動だ。一緒にされたくない。いや、一緒にされた方がいいのだろうか。同じ舞奏衆なんだから、同じはぐれ者になる覚悟を決めるべきなのかもしれない。
「……でも、まあ、言うタイミングがあってよかったよ。舞奏をやるなら、いずれバレることだっただろうし」
「おー、そうだな。ついでに隠してることあんなら言っとけよ。お前がどっから来たのかとか、ノノウと狐が集まった舞奏衆を、ここの舞奏社(まいかなずのやしろ)にどうやって認めさせるつもりなのかとか」
 後者は、半ば本気で尋ねた。阿城木は七生に認められたものの、依然として化身の顕れていないノノウだ。対する拝島は、その血筋によって舞奏社から忌まれている。何かしらの手段が無ければ、水鵠衆は成立しないだろう。
「何か考えがあるんだろうけど、その点については教えてもらってもいいだろ。俺の身の振り方にも影響してくるしな」
「……教えてあげても……いいけど……」
 途端に七生の声が小さくなる。ややあって、彼が言った。
「とにかく、舞奏衆のことは任せておいて。僕がなんとかするから。とりあえず稽古をしよう。月末にお祭りがあって、ノノウ達の舞奏披があるでしょ? その時に、僕らも水鵠衆として出るから」
 七生がビシッと言う。なるほど、そこに出る算段は付けているらしい。そのことを聞いて、少し安心した。
「あれに水鵠衆として出んのかよ。俺、ノノウとして独演舞奏(どくえんまいかなず)する予定だったんだけど」
「あ、うん。それは……断ったりしなくていいから。あ、でも水鵠衆のことはまだ誰にも言っちゃ駄目だよ。そういうのはまだ伏せておくべきだから」
 自信なさげな様子から一転して、後半はやたら勢いが強く念押しされた。
「我も舞奏が出来るのか?」
「……うん。去記のことも、必ず舞台に立たせる。去記にはそこが一番相応しい場所だから」
「……そうか」
 噛みしめるように拝島が言い、強すぎるくらいの力で七生を抱きしめる。七生は苦しそうにしているのに、どこか嬉しそうでもあった。
 いずれにせよ、七生にはちゃんとした考えがあるようだ。まだ話してもらえないのは仕方がない。なら、阿城木に出来ることは、一層舞奏の稽古に精を出すことだけだろう。
 まだ見ぬ水鵠衆の舞奏が楽しみだった。この二人と舞う自分のことが、阿城木はきっと好きになれそうだ。





著:斜線堂有紀

この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。





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©神神化身/ⅡⅤ