小説『神神化身』第二部 
第十七話

「また月は昇る

 「三十六秒、一分二十四秒、三分十八秒、十四秒、四分二十五秒。これらの数字が一体何かご存じでしょうか? はい、ご明察の通り。私こと、昏見有貴(くらみありたか)が素手でヒグマを倒すのに掛かった時間の記録です。いやあ、私が生まれたシベリアの森ではヒグマが春先の野苺より多く生えていましてね、五歳になる頃にはそれらを千切っては投げ千切っては投げでいなすのが日課になっていたんですよ。ちなみに、ヒグマの手強さというのは倒す時間に必ずしも比例するわけではありませんので、一番手強かったのは倒すまでに三分十八秒掛かったクマでした。流石にあの時はもう駄目かと思いましたよ。祖母から貰ったペンダントがヒグマの爪を受け止めてくれなかったら、私は今ここにいないでしょうね。やっぱりペンダントはコランダムに限ります! あ、そうそう。これは余談なんですけどね、さっき言った時間の羅列、実はかの名探偵・皋所縁(さつきゆかり)が殺人事件を解決するまでにかかった時間の羅列と一致してるんですよ。偶然ですよね! これには私もびっくりです。奇跡すら嫉妬する運命って感じがしちゃいますよねー! いやはや、引退してしまったとはいえ、現役時代の所縁くんのスピード解決っぷりには目を見張るものがあります。何しろ私がヒグマを一体倒すまでの時間で事件を一つ解決しちゃうんですからねー! 実質所縁くんもヒグマハンターですよ。素敵ですね」
 昏見がそう言うと、加登井(かどい)は「皋先生はヒグマハンターって柄じゃないでしょ」と苦笑した。
「でも、皋先生の事件解決が秒だったっていうのは本当。俺も何度も立ち会ったことあるけど、目にも止まらぬスピード解決。まるで最初から答えを知ってたみたいで。神懸かった推理ってああいうのを言うんだろうな」
 加登井が懐かしげに目を細める。そして、間を保たせるように目の前のコーヒーを一口飲んだ。
「わざわざこんなところまで来てもらってごめんね。会社近くじゃないと出て来れなくてさ」
「とんでもない。私がお目にかかりたいと言ったんですから。貴重なお時間を割いて頂きすみません」
「全然。俺も皋先生の話を誰かとしたいと思ってたから」
「それはそれは。確かに、彼を語るなら、一昼夜では足りないでしょう」
 何しろ、彼はかつて皋探偵事務所で事務員として働いていたのだ。五歳年下である皋所縁を影ながら支えていた、名探偵時代の彼を知っている人間だ。積もる話もあるだろう。名探偵譚はいつだって極上のフィクションだ。
「でも、驚いたよ。皋先生ってば名探偵を辞めて何するんだろって思ってたから。そこから急に覡(げき)になるなんてさ。あの舌のやつ、タトゥーとかじゃないんだもんな。凄い話だよ。確かにあの人の舌は才能あったもんな」
 加登井は少しばかり化身(けしん)というものを勘違いした発言をする。だが、彼はすっかり納得しているようだったので、そのままにしておいた。流れるような弁舌は確かに皋所縁の才能だった。あまり人と話すのが得意ではない普段の皋を思い出して、思わず本心の笑みが漏れそうになる。あれはあれで才能ではあるんですけどね、と心の中で呟く。
「で、皋先生が歌って踊るの? って思ってたけど、動画観たら結構なもんじゃん。まるで別人みたいでさ。MC……MCでいいのか? あれの時は探偵っぽかったけど、なんかやっぱり俺の知ってる皋先生とは違うんだよな」
「確かにあの全方位から憎まれ役を買って出る、触れなば切れんと言わんばかりの皋所縁を考えると、観囃子(みはやし)の為に舞う私達のリーダーはまるで別人みたいですよね! 今の所縁くんってば、まるでオカピみたいですし!」
「オカピってどんなんだっけ? でも、俺的にはそのオカピみたいな皋先生の方がいいわ」
 加登井がまるで保護者のような顔つきで言う。
「そうは見えないだろうけど、あの人名探偵向いてなかったからさ。俺、割と近くにいたから分かるんだけど、神様は皋先生に与える才能を間違えちゃったんだろうな。その点今の舞奏(まいかなず)は、皋先生に合ってるっぽいじゃん」
 身近でずっと仕事を補佐していたからこそ、皋所縁の歪みにちゃんと気がついていたのだろう。皋のことだから、事務所の一員であった加登井にすら一線を引いて虚勢を張っていただろうが、隠しきれないものもある。
「いえいえ、私もずうっと前からそう思っていましたよ。名探偵はともかくとして、あのバラエティ用の皋所縁くんはちょっとミスマッチなのではないかと。出来損ないのシンデレラじゃあるまいし、足に合わない靴で舞踏会に行けるとでも思っていたんでしょうか? やっぱり選ぶべきはスニーカーですね! コーナーで差をつけろ」
「昏見さんってめちゃめちゃ喋るんだね。皋先生と、あとあの萬燈夜帳(まんどうよばり)と組んでて、あんななんか上手い舞奏するのに、素ってこんな感じなんだ」
「普段は悪い妖精さんに三文字しか喋れない呪いを掛けられているんですが、今日は加登井さんに会うので特別に解いて頂いたんです。また『ハロー』と『ナイス』しか言えない生活に戻る前に、沢山喋っておこうと思って」
「皋先生ともこんな感じの会話してんの? すげー、こりゃ皋先生も明るくなるわ」
 喜んで頂けて何よりだ、と昏見は思う。どうやら加登井は本当に皋の身を案じてくれているらしい。あの名探偵時代に、彼のような理解者がいたことは幸いだった。
「まだ彼のことを皋先生って呼ぶんですね」
「んー、まあ、俺にとっては今でも雇い主って感じなんだよな。呼び方も慣れてるし」
「所縁くんは難儀な性格をしているのでアレですが、加登井さんのことはご友人だと思っていると思いますし、もう少し親しげでもいいと思うんですけどね。ゆかぴろとか、さつゆかとか」
「で、本題なんだけど」
 不意に、加登井が単刀直入に切り出してきた。
「昏見さんが連絡してきてくれた通り、全然表に出なかった依頼もある。殺人事件以外の依頼ね。多くは皋先生が伝手で引き受けたやつとか、通りがかりに請け負ったやつなんだけど」
「ああ、やはりそうですよね」
「迷子を見つけるとか、猫がいなくなったとか、これはマジで謎だったんだけど、家の前に毎日水の入った赤い洗面器が置かれてる事件とかもあった」
「ちょっと待ってください。それは大変気になるんですが」
「昏見さんの言う通りだよ。皋先生、そういう時は全然駄目だった。いつもは数分で解決出来るのに、あの冴えが無くて地道に解決するしかなかった。ほんと、あんなに手こずるのびっくりしたわ」
 加登井が懐かしげに言う。
 それを受けて、昏見は静かに思った。──やはりそうか。
 殺人事件における皋所縁の推理力は他の追随を許さない。
 彼が犯人と手口を看破する時は、まるで雷鳴が如く一瞬だ。だが、それ以外では彼の神懸かった推理力は発揮されない。培ってきた観察眼と、探偵たらんという慎重さはあるが、やはり質が違う。解決にかかるまでの時間がまるで違う。
 殺人事件を解決する時の彼と、それ以外の彼が別人であるかのように。
 ──もしかすると、皋所縁が卓抜した推理力を見せられるのは、殺人事件に限るのではないか? と、昏見は疑念を抱いた。
 そのことをはっきりさせるべく、昏見は萬燈に協力してもらい、とある検証を行った。
 手がかりを拾っていけば『昏見が緑の服を着た老婦人から腕時計を奪おうとしている』のだと推理出来るような舞台を作り上げ、彼がどういった推理を組み上げるのかを観察した。ただし、狙うべき獲物は本物を用意した。とある高名な時計職人が手作りしたものであり、さる方の形見であり、祖母の友人が奪われたものだった。
 祖母からその話を聞いた時、昏見はまだ幼かった。ようやくそれを奪い返し、あるべき場所に戻す力を得た頃には、祖母も持ち主も共にこの世を去っていた。取り返した腕時計を遺族は手放す決断をし、昏見はそれを相応の値段で買い取った。彼の為に作る舞台なら、相応の心を乗せてやらなければ。
 どうなるかは分からなかった。これが招かれた舞台であることを看破するか──看破するとすれば、それはあの不自然なまでの推理力によるものなのか、それとも観察による地力の推理によるものなのか。これは殺人事件でもなく、予告状から始まる怪盗との対決でもない。昏見の予想では、皋所縁の異常なまでのスピード解決は披露されないだろう。だが、手がかりを拾っていったことでの妥当な結論には辿り着くはずだ。
 果たして、昏見の予想はある程度まで当たった。そこにあったのは神懸かった解決ではなかった。とはいえ、皋所縁は昏見の意図していた部分とは全く違うところで緑の老婦人に注目していたのだが。自分がどこか迂闊になっていたのか、皋の方がチームメイトの動向に目敏くなっていたのかは分からない。
 しかして、昏見は一応の結論を得た。
 彼の不自然なまでの推理力が発揮されるのは殺人事件だけだ。皋所縁を名探偵たらしめていた能力は、突然与えられた翼のように彼の背骨を圧迫している。歪であろうと正確無比に空を飛ばせる形の恩寵は、カミの与える類いのものに似ていた。
 名探偵・皋所縁には、恐らくカミの手が入れられている。
 確信は無い。何しろ、昏見は何故カミが人間の願いを叶えるのかを知らない。それに対する知識が無い。だが、そうでなければ、努力による能力と一足飛びの才が比翼を形成する今の状況に説明がつかない。皋はカミに名探偵にしてもらったのだろう。
 昏見の伝え聞くカミは代償を求めるものだ。皋は一体何を奪われたのだろうか。あるいは、奪われるというのすらただの錯誤なのだろうか。そもそも、皋はいつ願いを叶えてもらったのか? 彼が殺人を無くすという願いを持ったことすら、何かの因果であるような気がする。何より──カミに願いを叶えてもらったのなら、皋がそれを覚えていないのは何故だ?
 一つの結論が出た後は、新たな疑問が現れる。迷宮入りの謎に囲まれるのは、なかなかどうして居心地が悪い。
 だが、船での一件を経て、一つ分かったことがある。
 皋所縁のカミ懸かりな推理力が殺人事件だけに発揮されるものならば、怪盗ウェスペルを追い詰めていた皋所縁の実力は、皋所縁本来のものであったことになる。自分と対決していた時の皋は、彼の努力によって名探偵だった。何の力も借りず、あそこまで自分を追い詰めていたのだ。
 よく考えてみれば、最初から明らかなことであった。事件を即座に解決出来るはずの名探偵は、どうして怪盗ウェスペルがどうやって消えたかを何個も検討していたのだろう。怪盗ウェスペルの対策をすべく、彼が事務所のホワイトボードを活用していたことは知っている。回数は少ないが、それが記事になったこともあった。
 だとすれば、自分達の対決は間に何一つ邪魔の入らぬ、正真正銘の真剣勝負であったことになる。共に舞奏をしている時のような、互いを喰らわんという一触即発の舞台だったことになる。
 それを確信した時、思わず全てを忘れて嬉しくなってしまった。あの真剣勝負の間は、お互いがお互いのものだった。カミなんてものが介在する余地のない、自分達だけのものだ。
 昏見の血は、大切なものをカミに奪われ続けてきた。天は飛べぬ自分達を見下ろし、こちらから差し引いてきた。自分の愛した名探偵がカミによって作られたものなのかと疑念を抱いた時、知らず知らずに自分は大切なものを掠め取られていたのではないかと恐ろしくなった。
 だが、そうじゃない。怪盗ウェスペルと対峙してきた名探偵は、カミの手によるものではない。人間の可能性を愛し、明日の世界を少しだけよりよくする為に理想を貫く、怪盗ウェスペルが──昏見有貴が見出した『名探偵』だ。
 なら、それをよすがに歩いて行ける。あの日船上で晒されていた月は、変わらずにそこにある。
「でもさ、皋先生は見つけたんだぜ、猫。一週間くらいかかったけどな。あんなに忙しいのに、合間を縫って探し回って」
 加登井の言葉で、現在に意識が引き戻された。そのまま、昏見は笑顔で応じた。
「流石ですね、所縁くんは。お忙しかったでしょうに、依頼を受けたら絶対に諦めないんですから」
「あれだけ引っ張りだこで名探偵として持て囃されてたのに、ペット探しなんか真剣にやるかって話で。あの時の皋先生、割と普通にバテててめちゃくちゃ心配だったわ。俺が何言っても聞かないんだけどさ」
「でも、大事な猫ちゃんが見つかったら、飼い主の方は喜ぶでしょう。そういうのを良しとする人なんですよ、彼は」
「知ってる」
 加登井が笑いながら言った。
「そんなわけで、俺は皋先生の転身を何より喜んでるよ。あの人にやらせていいのは猫探しくらいだった」
「そうかもしれませんね」
「ああでも、怪盗ウェスペルとの対決も良かったな」
 加登井が思い出したように言うので、昏見は優雅に微笑んだ。
「あら、あの大立ち回りがお好みで?」
「怪盗ウェスペルとの対決の時は、皋先生も生き生きしてたからさ。あの人、怪盗が出てくる小説とか読んじゃってさ。なんかもう微笑ましかったもん。俺はずっとあのままウェスペルとの対決だけやっててほしかった。んで、皋先生の活躍がハリウッドに輸入されたら、めちゃめちゃ面白かったのに」
「そうですね。所縁くんがオーランド・ブルームで怪盗ウェスペルがキアヌ・リーブスとアン・ハサウェイのW起用で演じられるはずだったかもしれませんもんね」
「でもさ、怪盗ウェスペルもいなくなっちゃったじゃん。あれ、皋先生が引退しちゃったからなのかな。そう思うとなーんかやるせなくてさ」
 加登井の言葉には、なかなか思うところがある。怪盗ウェスペルは休業中であり──実際は大がかりなプレステージの為の幕間期間ではあるが──表舞台には出ていない。世間では怪盗ウェスペルの引退説や死亡説、そもそも皋所縁の自作自演であった説などがまことしやかに唱えられている。それなのに、今なお怪盗ウェスペルの話題は尽きていない。定期的に怪盗ウェスペルの真実なるものがSNSを騒がしている。そういった意味では、ウェスペルが現れなくなってからの方が、ずっとウェスペルの存在は色濃く取り沙汰されていた。
「怪盗ウェスペル、今どこにいるんだろうな。何してんだろ」
「うーん。そうですねえ。きっと毎日楽しく過ごしているに違いありませんよ。豪華客船を貸し切っての高難易度ドミノ倒しとか、ナイアガラの滝を使ってシャンパンタワーをしたりとか。これだとまずは滝の勢いに負けないガラスを開発するところから始めなければなりませんが……」
「まあまあ愉快ではあるけど、俺もみんなも何だかんだ怪盗ウェスペルのことを待ってるから、そんなわけわからんことしてないで戻ってくりゃいいのに」
「怪盗ウェスペルの話題は尽きませんものね」
「まあ確かに。なんかみんなずっとウェスペルのこと気にしてるもんな、ずっと」
「いなくなったものに向けられる関心の度合いは相当なものですからね。一ピースだけ欠けたジグソーパズルを見た時、人は殆ど揃った図柄ではなく、欠けた穴ばかりに注目します。忘れ去られぬ不在こそ、人を引きつける術なのかもしれませんね」
「それはあるかもなぁ。俺、未だに名探偵の皋先生のこと忘れらんないから。覡になって、舞奏をやって、皋先生にとってはそっちの方が全然いいって思ってるけど、それでもあの日々を忘れてない。忘れられない」
 加登井のカップの中のコーヒーが無くなっていた。そろそろ、この語らいも終わりだろう。ややあって、加登井が言った。
「そろそろ戻らないとな。大した話が出来なくて悪かったわ。結局、皋先生が猫探し下手な話しか出来なかったし」
「いえいえ、それが聞きたかったんですよ。猫探しが上手いかどうかは舞奏を奉じるにあたって一番重要な要素なんです。これで所縁くんの舞奏は数段パワーアップするはずです」
「あ、俺ちょっと皋先生に文句言いたいことあったわ」
 不意に、加登井がそんなことを言った。
「何ですか? 伝えておきましょうか?」
「やっぱ、俺なんかに給料払いすぎだったんだって。お陰で他の仕事が全部いまいちに感じる」
 彼は今の会社に勤めるにあたって、初めてスーツを買って髪を黒に染めたのだという。歳の割に悪戯っ子のような雰囲気を纏う彼は、なるほど皋の傍で働くのに最適な人材だった。
「それはそれは、困ったものですね」
「でも、これはやっぱり伝えなくていいや」
 加登井が笑いながら言った。
「皋先生のことよろしく。闇夜衆(くらやみしゅう)の活躍、楽しみにしてるから」
「それはもう。ご期待に応えますよ」
 昏見が言うと、加登井がなんだか安心したように頷いた。そのまま彼が立ち上がり、伝票を持って去って行く。むしろこちらが奢るつもりだったのに、先にやられてしまった。
 名探偵の活躍を知っていた人間は、こちらの方をもう振り返らなかった。





著:斜線堂有紀

この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。





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