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小説『神神化身』第二部 三十一話  「朝焼」
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小説『神神化身』第二部 三十一話  「朝焼」

2021-12-17 19:00

    小説『神神化身』第二部 
    第三十一話

    「朝焼 

     落雷による火事で、不幸にも舞車は焼けてしまった。しかし、カミに祝福されし遠江國の覡達は幸運にも雷を避け、傷一つ無く避難することが出来た。これこそ、遠江國・御斯葉衆が誉れ高き加護を賜っている証である。
     結局は、そういうことになったらしかった。巡には全く理解の出来ないこじつけだが、あの場を見ていない人々からすればそう解釈するより他に無いのだろう。そのくらい、御斯葉衆というものは想像力を喚起する、特別なものになってしまっているらしい。
     けれど、確かにその勘違いが、錯覚こそが全ての本質なのかもしれない。自分だって、あの時たった一度自分の手を取ってくれた相手を唯一の運命だと思い込むような真似をして生きてきたのだ。そして、その勘違いがなければ、栄柴巡は今まで生きてこられなかった。
     布団から半分身を起こし、鮮やかに化身の刻まれた左手を見る。
     握り込んでしまえば見えなくなる位置。握り込まれてしまえば、見なくても済む位置。それでも、巡からこれが消えることはないのだ。
     じっと化身を見つめていると、襖の外から「失礼します」という声がした。──秘上佐久夜の声だ。巡が拒む言葉を発しなかったので、襖が少しだけ開く。よく出来た、綺麗な所作だった。
    「たかが二日ぶりなのに、随分久しぶりな気分だね。佐久ちゃん」
     巡が言うと、佐久夜は気まずそうに目を逸らしてから「そうだな」と言った。
    「いやー、参っちゃったよ。いくら俺が可愛い跡取り息子だからって、検査だの身体に障りがないかだの色々調べられちゃって! 舞奏から離れてた間はそんなん気にする奴いなかったのにさ!」
     お陰で、自分の部屋にすら戻れず、広々とした和室に敷かれたふかふかの布団で養生させられる羽目になった。スマホが無かったら退屈で死んでいたかもしれない。たっぷり入っていたメッセージに、佐久夜からのものはなかった。薄情なのではない。彼なら、最初の一言は直接会ってにしたがるだろう。
    「俺も心配していた。……身体は何ともないか」
    「むしろピンピンしてるって! こんなに何にもしないの久しぶりだもん!」
     むしろ、怪我を負ったのは佐久夜だけだった。舞車から巡を降ろす際に炎に煽られたのだろう。巡を掴んでいなかった方の手は火傷を負ってしまっていた。痛々しい傷の出来た手を「俺は鍛えているから平気だ」で流された時は、佐久夜が冗談を言っているのではなく、本気で言っているのかと思ったくらいだ。……本気で言っていたのだろうか?
     佐久夜の掌にある傷が、自分の化身とよく似ていて、嬉しく思ってしまう自分もいた。そんなこと、思うべきではないだろうに。
    「お前は割といつも……元気に動き回っているからな」
    「そうそう、俺は元気な巡ちゃんだからねー」
     そう言って、苦々しい顔をした佐久夜の手を、今度は自分から握ってやった。背筋を伸ばした綺麗な正座が、少しだけ崩れる。
    「それに、俺に怪我が無いことはお前が一番よく知ってるでしょ。お前が俺をあの舞台から降ろしたんだから」
     佐久夜がいよいよ苦しげな顔になって、巡のことを見つめた。この不器用な仏頂面の中の機微を感じ取れるのは自分だけかもしれない、と本気で思う。けれど多分それは、事実というよりは願望に近いのだ。
    「俺はね、あの舞車で大火傷を負ったって、それならそれで構わなかったんだ」
     巡の手に力が籠もる。力加減が自分でも上手く制御出来ない。痛いほどのそれを、佐久夜は振り払わなかった。
    「お前も──いや、お前なら分かってたはずだろ。あのまま俺を舞わせてたら、きっと素晴らしい舞奏が観られたって。至高の舞奏に、俺達はあの時初めて手が届きそうだったんだ」
     炎に包まれた舞車での、あの感覚を思い出す。
     自分の身をも焦がしてしまいそうな炎にあてられてもなお、巡の中は静かに澄んでいた。音も感覚も何もかもが遠く、昏い水の中に深く沈んでいくような、身体ごと呑み込まれていくような、そんな感覚があった。
     底に沈めば沈むほど、自分の舞奏が研ぎ澄まされていく。だから、このまま呑み込まれてしまってもよかった。そのくらい、巡は勝ちたかった。秘上佐久夜を取り戻す為に、御斯葉衆の覡主になりたかった。あの舞車は、巡にとっての再会の場所だった。
     それなのに、他ならぬ佐久夜が巡を引き留めたのだった。
    「お前が望んだ舞台は、あそこにあった」
    「……そうだな」
     佐久夜は変に否定することもなく、素直に答えた。
     貪欲な秘上佐久夜が、どんなものを犠牲にしてでも得たかったものが、あの舞台には確かに存在していた。あそこで佐久夜だって終わりにしても良かったはずなのだ。栄柴巡を呑み込んで、後を余生にしても構わなかったはずだ。そのくらいのものが、巡の舞奏にはあっただろう。
     なのに、佐久夜はそれを全部フイにしてまで、幼馴染のことを選んだ。
     いつぞやのようにこの手を握って、栄柴巡を救ってくれた。
    「二度とあんな舞台とは巡り合えないかもしれない。雷火に貫かれた極限の舞台なんか立ち現れない。俺があれほど舞奏に全てを捧げることも、これから先無いかもしれない」
     佐久夜が擲ってしまった物の重みを教え込むように、静かに言う。
    「……そのことも、理解している」
    「理解している? 本気で言ってんの? それ。俺のこと踏み躙ってまで手に入れたかったもんなのに、お前はそれをみすみす逃したんだよ。その重み、本当に理解出来てんのかよ」
    「そうでなければ、俺はあそこでお前の手を取れなかった」
     佐久夜が思いがけず真剣な表情で言うので、巡は一瞬だけ言葉に詰まる。そこに嘘が無いことを察せられる程度には、巡は佐久夜と一緒に過ごしてきたのだ。罪深く欲深く、だからこそ全てを諦められないどうしようもない秘上佐久夜。
    「……それでさぁ。あろうことかお前が赦してくれっていうからさ、びっくりしちゃったよ。でもさ、そこで赦さなくていいって言うんじゃ、欲しがりのお前らしくないもんな」
    「それは……」
    「俺は赦さないよ」
     そう言って、巡はパッと手を離した。急に解放された佐久夜の手が、所在無げに宙を彷徨う。
    「お前のこと、絶対に赦してなんかやらない。お前の所為でめちゃくちゃになった俺の人生を背負わせてやるよ」
     まさか、赦してもらえるとでも思ったのだろうか、と巡は思わず笑ってしまう。そんなこと、絶対にしてやらない。罪悪感がある内は、佐久夜の中に栄柴巡が存在し続けるだろう。だから、そこは明け渡さない。
     どうせ目の前の男からは逃れられないのだ。巡はもう、この夜叉と共に在る覚悟を決めている。自分の人生をくれてやってもいいとまで思ってしまっているのだから、秘上佐久夜の心だって、少しくらい巡が貰わなければ不公平だ。
    「……背負わせてもらえるなら、そうしたいと思っている」
     佐久夜は静かに答えた。
    「へえ、そうなんだ。佐久夜ってば言うねえ~」
    「……茶化すな。俺は本気だ。そうしていつか……お前に報いたい」
    「はいはい。期待してるよ~佐久ちゃん。とりあえず、俺が本調子になるまで尽くしてよねー。あ、パフェ食べに行きたいから車出して! いや、むしろステーキからのパフェとか? 勿論佐久ちゃんの奢りで!」
    「……分かった。望むようにしよう」
    「わーい! 佐久ちゃん大好き! さっすが秘上家の跡取り!」
    「どういう意味だ、それは」
     佐久夜が珍しく表情を和らげる。安心したんだな、と巡は思った。
    「俺達、これから御斯葉衆として舞奏競に出ることになるんだよね」
    「……そうだな」
     舞台を放棄しなかった九条鵺雲が、これで晴れて覡主となったわけだ。彼を覡主に戴いた御斯葉衆は、大祝宴まで辿り着けるのだろうか。正直なところ、九条鵺雲が大祝宴に辿り着かないところが想像出来ない。だが、九条鵺雲と組んだ自分が、彼と睦まじく大祝宴に辿り着いているところも同じように想像出来ない。自分達は一体、どんな舞奏衆として舞奏競を戦っていくのだろう。
     だが、これだけははっきりしていた。
    「俺の舞奏はきっともっと研ぎ澄まされるよ」
    「………………巡」
    「俺は九条鵺雲を覡主とする御斯葉衆なんか気に食わないんだよ。だから、俺はまつろわない。この身を擲ってでも、あいつに勝つ。その瞬間を、お前に見せてやる。──舞奏競の場で」
     炎の中で舞う九条鵺雲は、常軌を逸していた。こうして振り返っても、巡にとっては信じられないことであるし、事実狂気的だったとすら思う。あのまま舞車の中で舞っていることで、大惨事が起きてもおかしくなかったのだ。
     だが、それでも鵺雲の舞奏は美しかった。舞奏の正解がある、というだけじゃない。あの時の鵺雲には苛烈さもあった。舞奏以外に何の自我も無いような、掴み所が無い男には──舞奏に全てを懸けるだけの苛烈さがあった。
     その点で、巡と鵺雲はよく似ているのだ。身を擲つ苛烈さの向かう先が違うだけで、燃え上がるか沈み切るかの違いがあるだけで、結局のところ同じ舞車の中に居る。
     つくづく秘上佐久夜は与えられる者なのだ。巡と鵺雲がこうして舞奏に身を窶しているのを目の当たりにして、最も恵みを得るのはこの男だろう。鵺雲が焼け落ちるところなど想像も出来ないが、その時に彼を腹に収めるのは、きっとこの男だ。
     ただ、そのたった一回の満足と心中する覚悟があるから、巡は佐久夜のことを認めている。夜叉としては失格なほど欲深い男が幕引きをする様を、見届けてやりたくなる。佐久夜の言った、背負いたいという言葉に嘘はない。だから、あとは終わるだけだ。
     それまでは、御斯葉衆の覡であり、幼馴染の二人のままで。
    「俺は、お前の舞奏が好きだ」
     佐久夜はまっすぐに巡のことを見て言った。
    「そして、幼馴染である──親友である、お前のことも」
     知ってるよ、と巡は心の中だけで答える。そんな言葉よりも、舞車の中で握った手の方がずっと雄弁だった。
     これからも承認と焦燥の狭間で舞いながら、巡はあの手の温度を思い出すだろう。
    「さて、俺の話はこれでおしまい! はーあ、疲れちゃったし寝ようかな。佐久ちゃんもおつかれー!」
    「……急に終わらせるな」
    「だって俺は言いたいこと言ったし、佐久ちゃんから欲張りツアーの言質も取ったし、今なら合コンのセッティングとかも頼めちゃうかもだし」
    「それは絶対にしない」
    「ちぇー。まあ、今日のところでこれは終わり。だから、鵺雲さんのところに行ってもいいよ」
     佐久夜がぴくりと身を震わせる。分かりやすくて素直だ。それでこそ。従者は主人に何一つ隠しごとをしないものだ。腹に一物抱えて、化身まで宿してしまった欲深く愚かで残酷な男。だからこそ、秘上家の中で一番の夜叉になれるかもしれない幼馴染。
    「別に……その予定は無かったんだが」
     佐久夜が苦虫を噛み潰したように言う。
     確かに、この後には行かないかもしれない。けれど、いずれは行く。なら、予め許可を与えてやりたい。ここから先、どれだけ間隔が空いたとしても関係が無い、秘上佐久夜は栄柴巡に許されたから、九条鵺雲のところに行けるのだ。
     困った様子でいる佐久夜の前で、巡は笑う。このくらいでないと、お前に付き合ってられないだろ? という意味を込めながら。

     

     許されたからではない、とわざわざ思いながら、佐久夜は鵺雲の元に向かっていた。どのみち彼とは話をしなければならなかったのだ。
     ハンドルを握っていると、掌の火傷が疼いた。適切な処置をして包帯を巻いてあるので、きっと跡も残らないだろう。そのことを、少し残念に思う自分もいた。この火傷は、巡の化身を連想させた。そんなことを本人に言ったら、きっと笑い飛ばされてしまうだろうけれど。
     鵺雲は祝大(いわた)から少しだけ離れた旅館に移っていた。この旅館には宿泊客が誰でも自由に弾けるピアノが置かれているのが特徴で、もしかしたら彼は、それに惹かれて宿を選んだのかもしれない、と佐久夜は思う。ただ、鵺雲が白蝶貝のあしらわれたそのピアノを弾いているところは、上手く想像出来なかった。
     彼は奏者であるというよりも、上等に誂えられた楽器に似ている。
     仲居に話を通して、鵺雲の泊まっている客室に案内してもらう。
     果たして、九条鵺雲は舞奏披の前と全く変わらぬ佇まいで、カウチに腰を掛けていた。
    「やあ、佐久夜くん。こんにちは」
     久しぶり、とも、火傷は大丈夫? とも言われなかった。そんな言葉を佐久夜が求めないことを知っているが故の対応だった。
    「……こんにちは、鵺雲さん」
    「先日はありがとう。とても楽しかったね」
     鵺雲は私服である白地のニットを着ており、鎖骨にある化身がはっきりと見えていた。空を裂く雷のようでもあり、飛翔する鳥のようでもある。奇妙なことに、それは巡のものにも似ているところがあった。勿論、全体の印象は違う。だが、それもまた雷ではあったのかもしれない。
     佐久夜の腹に浮き出ているものは、鵺雲のものにも巡のものにも似ているようで、ところどころ欠けているような気がした。腹に一物抱えているが故に、あるいは満たされぬ飢えを抱えているが故に、ここに化身が浮き出たのならば、化身そのものが欠けてしまっていることも自然なのかもしれない。
     だとすれば、化身とはその覡を表すものなのだ。形の良い鎖骨に浮かんだそれを見ながら、佐久夜は思う。そんな佐久夜を余所に、鵺雲は笑顔で話を続けた。
    「特に巡くんの舞奏は素晴らしかったよ。勿論、栄柴の血を引いている彼の舞奏が素晴らしくないはずがないんだけどね! でも、それ以上のものがあった。僕ですら不思議に思うくらいに」
    「……巡の舞奏が優れていることは、俺もよく知っています」
     佐久夜が言うと、鵺雲は更に嬉しそうに表情を綻ばせた。そして、佐久夜の元に一歩近づいてくる。
    「考えてみたら、彼の舞奏が優れている理由はすぐに分かったんだ」
     鵺雲の手が、包帯をしている方の手をそっと取る。
    「栄柴家の血だけじゃないんだ。これは秘上家の血の力でもあるんだよ。君達の家は互いに影響し合って、素晴らしい舞奏を創り上げた。夜叉と夜叉憑き、どちらが欠けても成り立たなかっただろう」
     鵺雲の力はとても弱く、手が痛むことはなかった。それどころか、彼に触れられている時は火傷の疼きが感じられない。冷たい水にでも浸しているかのような心地よさがある。
    「そこに至るまでの道程があるから、あれだけのものが生まれるんだって感動したんだよ。けれど、考えてみればその通りだよね。舞奏はその人を映し出すものなんだから。共に生きてきた巡くんに、佐久夜くんが影響を与えないはずがない」
     鵺雲が堪えきれない、というように小さく笑い声を上げた。
    「君はその欲深さで以て、人を──その舞奏をも変えてしまうのかもしれない。君が混じると、舞奏は思いがけない進化を遂げる。……これが、遠江國の夜叉」
     その時、不意に鵺雲と目が合った。何度となくそうなったことはあるが、今回は初めて鵺雲が自分を──秘上佐久夜のことを見ているような気がした。ややあって、鵺雲が言う。
    「例えば僕に夜叉が憑いたら、舞奏はどんな風に変わるんだろうね」
     一瞬の沈黙があった。炎の中でもなお揺るがぬあの完璧な舞奏と、それに惹かれた自分のことを思い出す。
    「俺は、そう大層なものではありません。……ただの、秘上家の社人で……御斯葉衆の覡です」
    「本当にそうかな?」
     鵺雲の声が、身体の芯を震わせる。巡と相対している時と同じような得も言われぬ高揚が、掻き立てられる焦燥感がそこにはあった。
    「……今回の舞奏を生んだのは、君の欲深さだよ。栄柴巡の全てを手に入れたいと望むのに、僕すら呑み込んでしまいたいんだろう? 九条家の嫡男、九条鵺雲すらも」
     その通りだ。舞車の中で炎に捲かれながら舞う九条鵺雲を、佐久夜は美しいと思った。巡の舞奏に心惹かれるのと同様に、彼の舞奏にも確かに惹かれた。栄柴巡を諦められないのと同じように、佐久夜は強く、鵺雲のことを渇望したのだ。
    「…………」
    「きっと僕は、君の舌にも適うだろう。なら、求めればいい。舞奏披を終えた君は、もう御斯葉衆の正式な一人だ。僕は精々、君に喰われないよう用心することにするよ」
     用心と口では言いながらも、鵺雲の口調は半ばそれを期待しているようにも見えた。あるいは、自分がそうはならないと確信しているが故の余裕が、鵺雲を微笑ませているのかもしれない。自分の中の獣が、化身の絡む鎖骨に爪を立てるところが、やけにはっきりと想像出来た。そのくらい、佐久夜はそれを望んでいるのだ。
     息を吞む様が鵺雲に悟られないよう、身動ぎすらせずに彼のことを見つめた。すると、不意に鵺雲が笑った。
    「ふふ、とりあえずは覡としての君だね。君の舞奏は大分見られたものになってきたけれど、それでもまだ少し足りていないから。これから一緒に頑張ろうね」
    「……励みます」
    「お願いするよ。思いがけないことで僕が御斯葉衆の覡主となることが決まったわけだから、僕も精進しないと」
    「貴方の舞奏は……覡主に相応しいものだと思っています」
    「そう言ってくれると嬉しいよ」
     鵺雲は微笑むと、佐久夜の手を離してカウチに戻っていく。鵺雲の手が離れた瞬間から、火傷がまたも疼き始めた。雷は舞車を焼き、自分達を炎で炙った。だが、雷は豊穣の象徴でもあった。今は、どちらなのだろう。
    「けれど、これで無事に舞奏競に出ることが出来るね。きっとカミもお喜びになるだろう」
    「カミも……」
     自然と漏れた声と共に、佐久夜は鎖骨に関する逸話を思い出す。──鵺雲の化身が一体どんな意味を孕んでいるのかを知りたくて、密かに調べていたのだ。
     鎖骨は、古くは存在しない骨と称されていた。
     そして、罪人を捕らえておく為に鎖を繋いでおく骨であるという言い伝えもあった。
     単純に考えてしまえば、彼は存在しない幻の骨であり、どこかを開く鍵であるのだろうか? それとも、何かに繋がれることを運命づけられた覡なのか?
     彼が繋がれているとしたら、その軛は一体何なのか。
     佐久夜は改めて鵺雲を見る。自分の中の夜叉が彼をも呑み込みたいと思うのは、彼を繋ぐ者と対峙し、彼を奪いたいという欲求に他ならないのかもしれない。自らの欲が、九条鵺雲の鎖骨に新たな枷を嵌めるところを想像する。
     その刹那、鵺雲は普段の彼には全く似つかわしくない、冷たい微笑みを浮かべた。
     思わず、佐久夜は目を逸らしてしまう。背筋が微かに粟立つのが分かった。もしかするとこの人間は──この覡は、見てはならぬものなのかもしれない。触れることすら許されぬものなのかもしれない。そう、本気で思う。
     だが、佐久夜はそれでも九条鵺雲を諦められないだろう。栄柴巡を諦められないように、九条鵺雲をも手にしたいと願うだろう。彼の舞奏が行く先を、佐久夜は見たい。
     たとえ、そこに何が待ち受けていたとしても。
    「どうしたの? 佐久夜くん」
     心配そうに尋ねる鵺雲の笑みは、すっかりいつものものに戻っていた。佐久夜はゆっくり首を振って応じる。
    「……いえ、何でもありません」
     佐久夜には、一つ尋ねてみたいことがあった。
     雷火すら恐れず舞奏を奉じる鵺雲は美しく苛烈で、それでいて、とても満たされて見えた。それこそが自分の使命であり、そこに身を窶すことこそ幸せだと知っている顔をしていた。
     その鵺雲は、二人で見た三保松原の海を幸せだと思っていてくれたのだろうか。海水に足を浸し、その冷たさに笑っていた彼は、本気で波の感触を愛おしんでくれたのだろうか。それとも、佐久夜がそうあれと求めたから、応えてくれただけなのだろうか。
     それを尋ねる為の一言が出てこない。最初の一音が引きずり出せないから、佐久夜の中に言葉は溜まるばかりだ。そんな佐久夜を余所に、鵺雲は明るい声で言う。
    「実はね、ひーちゃんがまた素敵な動画を出していたんだ! 本当に凄いよね! ひーちゃんは沢山の人に愛されているから、動画を出すと、とっても喜んでもらえるんだ! 僕もひーちゃんのことが大好きだから、ワクワク広告……? っていうのを出して、いるんだけど、これをすると、ひーちゃんの動画がキラキラするんだ!」
    「……そうですか。楽しそうで何よりです」
    「ふふ、離れていてもお兄ちゃんのことを楽しませてくれるんだから、ひーちゃんは素晴らしい弟だよ。それにそのお陰で、面白いものを見つけられた」
    「面白いもの?」
     佐久夜はその内容を尋ねたつもりだったのだが、鵺雲は口元を押さえたまま笑うばかりで、答えてはもらえなかった。
    「行き着く先は同じでも、道程が違えば異なる景色を見られるものだよね」
     一体、鵺雲は何の話をしているのだろう。雷の轟く空は晴れ、今は束の間の陽が差している。舞奏競に挑むと決まった今でもなお、佐久夜は思った。これから始まるのは何なのだ?
     考えても仕方が無いので、無理矢理意識を引き剥がす。美しい和室には、相変わらず必要最低限の物しかない。旅館間の移動に用いられるスーツケースくらいが、鵺雲の持ち物と言えるだろう。
     そのスーツケースの取っ手に、見覚えのあるものがあった。
    「それは……」
     鵺雲は不思議そうに首を傾げ、佐久夜の視線の先に目を向けた。そして「ああ」と、納得したような、どこか不満げなような、微妙な声を上げた。
    「そんな反応をされても困るよ。駄目かな? 他のところはなかなか思いつかなくて」
    「……駄目ではありません。ですが、何故……」
    「君が連れて行ってほしいって言ったんじゃない。覚えていないの? あそこにいたら、少なくとも置いていかれる心配はないよ」
     鵺雲のスーツケースの取っ手には、ゲームセンターで佐久夜が唯一獲得したキーホルダーが所在無げに──されどしっかりと繋がれていた。




    著:斜線堂有紀

    この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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    ©神神化身/ⅡⅤ

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