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小説『神神化身』第二部 三十六話  「舞奏競 星鳥・修祓の儀(中編)」
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小説『神神化身』第二部 三十六話  「舞奏競 星鳥・修祓の儀(中編)」

2022-01-21 19:00

    小説『神神化身』第二部 
    第三十六話

    舞奏競 星鳥・修祓の儀(中編) 



     修祓(しゅばつ)の儀(ぎ)が行われる社(やしろ)の雰囲気は、巡(めぐり)のよく知っているものだった。ここはどことなく遠江國(とおとうみのくに)の舞奏社(まいかなずのやしろ)に似ているのだ。伝統とカミへの思いの粋を極め、ただ舞奏(まいかなず)の為に建てられた社である。そのことが、一歩また一歩と奥に進むにつれ伝わってくる。
     社全体が複雑に入り組んでいて、意図的に来客を惑わせる造りになっているところも、ある意味でとても『舞奏』らしいというか、凝っている。
     この社を建てた人間が何にこだわっているかがひしひしと伝わってくる作りだった。そう思うと、思わず笑ってしまいそうになる。人はいつでも形を変えて夢を見るのだ。
    「巡」
     その声に振り向くと、佐久夜(さくや)が厳しい顔つきで立っていた。
    「さっきからふらふらと何をしているんだ。お前が好きに動くから、鵺雲(やくも)さんとはぐれてしまった」
    「えー、だってこんなに不思議な舞奏社だったら、色々見て回りたいじゃん! 迷路みたいで楽しいし、装飾も豪華だし」
    「修祓の儀の前に手間を掛けさせるな」
    「時間になったら社人(やしろびと)がどうにか俺らを探し当てるだろうし、鵺雲さんなんかは修祓の儀には絶対遅れないタイプでしょ。平気だよ。もー、佐久(さく)ちゃんってば心配性なんだから」
    「お前の分まで心配すべきところを心配しているんだ」
     つまらなそうな表情で答える佐久夜に、巡は小さく笑ってみせた。きっと佐久夜はふらふら好き勝手に奥に入って行こうとする巡と、あくせく動くはずもない鵺雲を天秤に掛け、こちらを選んだ。ささやかな勝利だ。自分でも切実過ぎて笑ってしまう。けれど、勝利は勝利だった。
     佐久夜は少しの間巡を見つめていたが、やがて諦めたように大きな溜息を吐いた。
    「……お前の言うことも一理あるかもしれない。ともあれ、これからは俺の傍にいろ。道すがら鵺雲さんと合流出来るかもしれない」
     強欲な佐久夜は、巡を見つけたことにすっかり安心して、次は鵺雲を探そうとしていた。全く、佐久夜には風情がない。だが、一応及第点を与えてやって、巡は次の話題に移った。
    「この舞奏社って結構モチーフがはっきりしてるよね」
    「モチーフ……とは何だ?」
    「何だろ。全体のテーマ? 遠江國舞奏社は遠江國の伝承を色濃く反映している場所だけど、ここも相当だなって」
     佐久夜はあまりピンときていないのか、不思議そうな目を向けている。遠江國に仕え、遠江國の中で生涯を過ごす佐久夜にとっては、外のことなど知る必要もないことだろう。仕方が無いので、一つ分かりやすく教えてやることにした。
    「時に佐久ちゃんに回りくどい話をしてあげよう。しかと拝聴するように」
    「……分かった」
    「俺が舞奏を辞めてしばらくは本当に大変な騒ぎだったよね。んでそれが落ち着いてからは恨み節の雨あられ。よくもまあまだ子供だった俺にあれだけの無体が働けたもんだよ! 彼らは俺を憎んでいたけれど、その後数年に渡って囚われ続けもした。他の人間が御斯葉衆(みしばしゅう)を組み、俺が粛々と指導を行っていることに陰口を叩きながらも、俺の復活を望まずにはいられなかった」
     周りがあれだけ巡を冷遇し、苦境に立たせようとしたのは、そうすれば巡が舞奏の世界に戻ってくれるのではないかという涙ぐましい努力の一端だ。確かに心を傷つけられながらも、巡はそれを栄柴(さかしば)家の次の主として受け容れていた。
    「俺がこうまで切望されたのは……まあ栄柴家に生まれた化身(けしん)持ちだからっていうのも当然あるんだけど、それ以上にもっと大きい理由があると思うんだよ」
    「大きい理由……。お前が他の代の覡(げき)よりも優れた舞奏の才を有しているということか?」
    「はーあ、佐久ちゃんって本気でそういうこと言えちゃうからずるいよねー! マジでムカつく」
    「どうして腹を立てるんだ……」
     佐久夜が憮然とした表情で言う。顔つきこそ不満げだが、彼が内心では不安がっていることを知っているので、巡はそれだけで少し気分がよくなった。
    「そういうことじゃなくてさ、俺の才がほんとに最強でみんながだーいすきっていうのは置いといてさ! ……俺が狂おしくも求められてたのは、俺が失われた存在だったからだよ」
    「どういう意味だ?」
    「俺が舞奏をやめちゃったからね。他の人にとったらようやっと生まれた栄柴家の跡継ぎが死んだようなもんだったんだよ」
    「……お前は生きてる」
    「舞奏が出来なきゃ死んだも同然! そりゃ佐久ちゃんは一応俺の親友としても在ってくれたからピンと来ないだろうけど」
    「ああ……そうだな」
     佐久夜がどこか苦しげに言う。親友としての佐久夜が、その中に確かに存在している。だが、今となってはこうも思う。佐久夜は巡の舞奏を諦めたり、忘れたりすることがなかった。だからこそ、覡の巡をその腹の中で生かし続けていたのだ。仮に栄柴巡が本当に死んだとして──果たして秘上(ひめがみ)佐久夜は諦められるのだろうか。と、少しだけ恐ろしいことを思う。
    「だから、余計に素晴らしく思えたんだろうね。失われた栄柴巡の舞奏が失われず時を重ねていたら、どれだけ美しかっただろう、どれだけ素晴らしかっただろうって」
     人間はどういうわけだか、そこに在るものよりも失われたものに弱いのだ。栄柴巡も同様だろう。今ここに居る栄柴巡よりも、失われた栄柴巡の方がずっと貴い。
    「それでだよ、佐久ちゃん。この社の来歴って知ってる?」
    「いいや。知らない。他の國の社人はまた変わってくるだろうが、秘上の家の社人はやや特殊だからな。遠江國および栄柴家のこと以外は明るくない」
    「それでいいよ。この社ね、昔はこんな山の中にあったわけじゃないんだよ。本当は麓(ふもと)の林のところにあって、脈々と継がれていた小さな社だったんだけどさ……。ある事件をきっかけに移動したんだ。そこからこうして増築に増築を重ね、ウィンチェスター・ミステリー・ハウスっぽい社になったってわけ」
    「そうだったのか……移転するということは、それだけのことがあったのだろうが」
    「それだけのことがあったんだよ。燎原館(りょうげんかん)集団失踪事件とかね。聞いたことある?」
    「それは……確かに聞いたことがあるな。優れた覡が舞奏を奉じ、カミに願いを叶えてもらったという」
    「そうそう。雨を降らせたり、死んだお姫様を生き返らせたりの亜種だね。願いを叶えた覡の名は昏見貴生(くらみたかお)。だが、彼は住人達と一緒に忽然と姿を消し、カミを満たした奇跡の舞奏は二度と見られなかった」
     今でも昏見貴生の名前だけは、都市伝説のように語られている。彼の人となりはまるで分からないのに、彼が素晴らしい舞い手であったことは、外の世界ではいざしらず、こと舞奏の世界ではまことしやかに語り継がれている。尤も、反対に彼のことを忌むべきものだと認識している家も多くあるようだが。
    「昏見貴生がここまで俺達の間で知られているのは、彼が真っ当に大往生を迎えなかったからだぜ。優れた舞い手が不幸にも失踪したからこそ、ここまで残った」
    「……理屈は分からないでもないが」
    「この社は入り組んでて、目を離せば簡単に消えられる。その点で、この社は燎原館集団失踪事件のことを今でも忘れてないんだなって思うよ。ここは憧憬(しょうけい)の社だ」
     巡が言うと、佐久夜は改めて社を見回した。素直な男だ、と巡は思う。
     失われたものに拘泥(こうでい)しているのは、巡も同じなのかもしれない。巡は自分の親友であった、自分の為だけの秘上佐久夜を求め続けている。自分が遠江國の人間と違うところは、それをこの手で取り戻そうとしているところだろう。ただ手をこまねくつもりはない。
     化身を与えられたこの左手で、求めるものを引きずり得てみせる。
    「ねね、水鵠衆(みずまとしゅう)の奴らってもうこの社にいるのかな?」
    「どうだろうな。到着していてもおかしくない頃合いだろうが」
    「仲良くなれるかなー? 俺人見知りだからドキドキしちゃう」
    「どの口で言ってるんだ、お前は」
    「ドキドキしちゃって縮こまるならまだいいけどさ、愛想を撒けるか怪しくなっちゃうから」
     巡は真面目な顔をして言った。
    「今回、上野國(こうずけのくに)舞奏社はかなり思い切ったことをしたじゃない? 拝島(はいじま)の家の人間を入れたり、化身至上主義なのに化身の無いノノウを入れたり。おまけにリーダーは来歴不明な覡ときた。俺は与り知らぬところだけれど、よっぽど素晴らしい舞奏で社も観囃子(みはやし)も納得させたんだろうね。それを考えると、ほんと眩しいくらいだよ」
    「きっとさぞかし実力があるのだろう……とは思うが」
    「まー、見られたもんじゃないってことはないんだろうけどさ」
     そう言って、巡はいつになく厳かな笑みを浮かべた。
    「奴らの中で一番注目を集めてるのは誰だと思う? よりによって化身の無い阿城木入彦(あしろぎいりひこ)って覡らしいよ」
     鵺雲のように化身を持たない人間の舞奏を下に見ているわけではない。佐久夜はそのことをちゃんと理解出来ている。だから、敢えて正直に言った。
    「阿城木入彦はずっと覡になりたくて、けれど化身が顕れずに機会に恵まれなかった。けれどとうとう夢を叶えたってわけだ」
     化身が無く、自由に生きられたはずの人間が覡となり舞奏を奉じるようになったのは美談なんだそうだ。美談! その言葉の意味を辞書で引き直してやりたくなった。
     たかが化身が無い程度で、絶望したような顔をすることは赦せない。何にも縛られていない人間が、生きる道がいくらでもあった人間が、手に入らない獣道一つを指して不幸を知ったつもりになるなんて許さない。
     とはいえ、阿城木入彦からしてみれば巡こそ憎いのではないだろうか。自分が外でどう勇名を轟かせているかは知らないが、化身を持ちながら舞奏に背を向けた贅沢な愚か者が良いところだろうか。
     けれど、巡は巡で同じ言葉をくれてやることが出来る。
     手に入れられなかった一にこだわる人間は、その一を持っている人間を羨む。自分が持っているそれ以外の万の可能性から目を背け、自分には何も無いと嘯きたがる。
     巡の人生には与えられなかった万の道があり、自由に生きられたはず栄柴巡の屍が壮麗(そうれい)な舞車(まいぐるま)を形作っていることに、阿城木入彦は気づけない。気づけるはずがないのだ。
    「慣例をぶち壊し、自由の為に戦ってる奴らは強いよ。きっと皆さんそういうのがお好きだ。俺らが縛られている鎖を憐れに思う人間こそ、一層水鵠衆を応援したくなるだろう」
    「伝統よりも革新というのは理解が出来るが」
    「でもさ、俺はこの鎖に意味があったって言い張ってやりたい。これこそが栄柴巡を栄柴巡たらしめていたのだと教えたい。俺達が絡め取られた運命を貴び、心ゆくまで愛したい! 俺達の舞奏競(まいかなずくらべ)ってそういうもんじゃない?」
     巡が言うと、佐久夜は大きく頷いた。
    「……俺はその一助でありたい」
    「…………」
    「お前がこの舞台に立つことの意味が、俺が浅ましくも諦められなかった無二が、寡二少双(かじしょうそう)が、千年先も語り継がれるよう」
    「ああ、そうだな」
     寡二少双。いい言葉じゃないか。御斯葉衆が巡と鵺雲の二本柱により成立している舞奏衆であるからこそ、そう思う。唯一無二が二人という矛盾を孕み、それを解消しようと自らを舞奏に窶す自分達。
    「よし、これで上手くやれそうだよ。水鵠衆の前でも、めちゃくちゃキュートで人当たりのいい巡ちゃんでやっていける。サンキュー佐久ちゃん、俺のスーパー人気者スイッチを押してくれて!」
    「……そんな珍妙なものを押したのか、俺は」
    「そうだよー! そのお陰で水鵠衆の覡主(げきしゅ)とも、阿城木入彦ともちゃんとやれる。はーあ。あ! でも、あの狐耳とだけはちょっと仲良くなれそうかも。俺は拝島家の呪いとかも別に? って思ってるし」
    「お前、犬派じゃなかったのか」
    「まあそうだけど、狐の耳着けてるの可愛いじゃん。佐久ちゃんはどう?」
    「………………俺は犬派だ」
     佐久夜の回答に、巡が笑う。こんなやり取りをした後だからなお、巡はちゃんとやれると思っていたのだ。
     まさか、鵺雲がキツいことを言われているのを聞いて、佐久夜が一、二も無く飛び込んでいくなんて思わなかった。


     巡がちょっと仲良くなれそうだと称していた狐耳の覡──拝島去記(いぬき)が中に入ってきてくれたお陰で、佐久夜は場の空気がやや持ち直したのを感じた。それと同時に、口の奥に苦いものを感じる。
     文脈は分からない。一部始終を聞いていたわけじゃないからだ。だが、水鵠衆の覡主である七生千慧(ななみちさと)に鵺雲が酷いことを言われているのを耳にした瞬間、佐久夜の身体は勝手に動いていた。
     偉そうに従者についての言葉を吐いたが、その態度は従者として失格に等しい。出過ぎた真似を、何の許可も無くやってしまった。会話に割り込むことなど、特にしてはいけないことだろうに。
     おまけに上手いこと啖呵を切ってくれたのは巡である。栄柴の家に生まれた彼の、土壇場での肝の据わり方は佐久夜の比ではない。その点も恥じ入るべきところだ。
    「……去記……は、凄くいいタイミングで来てくれたよ。……ありがとう」
     七生千慧が殆ど焦燥したような笑みで言う。それを聞いて、拝島去記が「むう……」と小さい声を上げた。
    「……ごめんね。僕が至らなかった所為で、修祓の儀の前の交流が、あまり良い空気の中で行えなさそう。舞奏競を戦う二つの舞奏衆は、ある程度互いを知り合うべきなのに」
     鵺雲が申し訳無さそうに目を伏せる。それを見て、拝島がぎょっとした顔をした。
    「まだ交流出来ないわけではないぞ! 我なら全然おーるおっけーっていうか、千慧も入彦もちょっと落ち着いたらそうなるはずだぞ!」
    「ふふ、ありがとう。君は拝島去記くんだよね。コンタクトレンズで隠されているのが勿体無いな」
     何が、というのを明言しなくても拝島には分かったのだろう。右目の方にバッと手を当て、彼がぱくぱくと口を開閉する。
    「そ、そう……? で、でも、我はこの目の方が好きだから」
    「隠されたところで、君が素晴らしき化身持ちであることは変わらないものね」
     鵺雲が楽しげにくすくすと笑う。
    「空気をよくしてくれたお礼に、一ついいことを教えてあげる」
    「な……何?」
    「君の化身は呪いではないよ。カミは君を呪わない。だから、誇ればいい」
    「え……?」
     鵺雲の口調は確信に満ちていて、言われた拝島の方も戸惑いの表情を見せている。それでも、コンタクトレンズが嵌められているという目には安堵が浮かんでいるようだった。
    「去記を妙な甘言で惑わせないで」
     七生千慧が冷たい声で言う。どうしても七生は鵺雲のことが気に食わなくてたまらないようだった。
     佐久夜は社人として、たとえ他國に所属している覡であろうと、一定の敬意を払っている。巡が仲良くなれそうにないと溢していた時も、自分なら上手くやれるだろうと思っていた。
     だが、実際に相対してみて理解した。佐久夜は七生千慧のことがあまり好きにはなれそうになかった。
    「……あんたには色々言われたけど、俺はその言葉の真の意味を理解出来てるわけじゃないんだと思う」
     そう言ったのは、阿城木入彦だった。彼は鵺雲の方をしっかりと見つめている。
    「けど、正味この場で俺だけが化身持ちじゃない。あんたにとっては蚊帳の外だ。あんたは俺を覡として見ていない」
     阿城木入彦は──巡が並々ならぬ思いを抱いていることなど知らない、どこまでも恵まれた自由の徒が、高らかに言う。
    「けど、俺のことを見てもらうぜ。才能も化身も関係ない。俺は努力と熱意だけで大祝宴に辿り着いてみせる」
    「……そう。努力と熱意ね」
    「じゃ、一旦これで失礼するから! 修祓の儀終わった後にまた話す機会があるといいよね! じゃーまたばいばーい!」
     鵺雲がそれ以上何か言う前に、ということなのだろうか。巡が口早に言って、鵺雲の手を取った。
    「わ、巡くん。そんなに引っ張られたら戸惑っちゃうな」
    「……それでは、これで失礼します」
     佐久夜も一応そう言ってから、頭を下げて部屋を出た。
     七生千慧だけが、最後までこちらのことを──佐久夜と巡と鵺雲のことを、じっと睨みつけていた。


     どうして鵺雲や水鵠衆の面々があの部屋にいたのか分からないほど、あそこは修祓の儀が行われる広間とは違った方角だった。まるで迷路のようだ、というより、これはまさに迷路だ、と佐久夜は思う。幸いながら、佐久夜は方向感覚には優れている。一度通った廊下であれば難なく脳内に地図を作ることが出来た。
     遙か昔、巡と隣町まで冒険に行った時、この能力を褒めてもらったことを思い出す。どれだけ遠くに行っても、遠江國舞奏社まで戻って来られるので、巡は安心して気ままに歩けるのだった。
    「佐久ちゃんは俺の案内人だね。いや、カーナビ……カーではない……」
    「案内人でよかっただろう。何故微妙な方向に持っていこうとするんだ」
    「なんか語呂が微妙な気がしてさー。あ、でも」
     巡が何かに気がついたように言う。
    「佐久ちゃんがそんなんだから、俺達は迷子になれないんだね。ずーっと遠江國にいるまんま」
    「それでいいだろう。俺もお前も、ずっとあそこで」
     佐久夜は珍しく強い口調で返した。
     巡がそれに対して何と言ったのかを思い出せず、佐久夜は少しだけ悲しい気持ちになった。
     広間近くで彷徨っている三人を見つけた社人が、近くの部屋を御斯葉衆の控えの間として解放してくれた。最初から大人しく社人に問い合わせていればよかったのだ、と佐久夜はしみじみと思う。
     巡は無言のまま用意された椅子に鵺雲を座らせ、自分も隣の椅子に腰掛けた。差し当たって、佐久夜は二人の向かいの椅子に座り、向かい合う姿勢を取ることにする。ややあって、巡が口を開いた。
    「鵺雲さん」
    「うん? どうしたのかな? もしかして、水鵠衆とちゃんとした交流が出来なかったことに対して怒りを覚えている? そうだとしたら、至らなくて本当にごめんね」
    「この戦いに勝ったら温泉行こう。俺と佐久ちゃんと鵺雲さんの三人で」
     巡はよく通る声で、一語一句聞き間違えようのないくらい明瞭に言った。鵺雲が大きな目を見開いている。あまり見ない表情だった。
    「……おんせん」
    「ちょっ、温泉知らない人の言い方しないでよ! 温泉くらいわかるでしょーが」
    「温泉についての知識はあるよ。旅館を仮住まいにしていた身だし……けれど、舞奏競に勝ったら何故温泉に行くの? もしかして、栄柴家の伝統か何かなのかな」
    「そんなんが伝統の浮かれたお家だったら俺ももう少しくらいのびのび暮らせてそーなんだけどなー!」
    「そうじゃないなら、そんなことを提案する理由がわからなくて」
    「行きたいっていうのは理由じゃないの! 自分の思うままに好き放題やってるやりたい放題佐久ちゃんなら分かるでしょ!」
    「……何だその言い草は」
    「えー、反論出来る? 俺の許可も無く、さっきいきなり割って入って話を中断させた佐久ちゃんが?」
    「あれはやむを得ない状況だったと思うが」
    「とはいえだよ。佐久ちゃんはもうちょっと慎みを持て。今の佐久ちゃんは覡なんだからな」
    「……………………本当に申し訳ないとは思っている」
     当てこするように言われて、佐久夜は反論の余地無く黙り込んだ。
    「まあまあ、あのままだともしかしたら、少し感情の高ぶってしまった七生くんにぶたれていたかもしれないし、それで舞奏に支障が出るような怪我を負ってたかもしれないし」
    「あのちょっとチビっこい奴に殴られてそんなことになるかなー?」
    「……俺は鵺雲さんに万一のことが無くてよかったと思う」
     佐久夜が言うと、鵺雲は素直に「そうだね。ありがとう」と言った。
    「話を戻すけど、行きたいから行くんですよ。こんなの」
    「それは分かったけど……」
    「俺は鵺雲さんのことそんな好きじゃないけど」
     巡があっさりと、明日の天気でも口にするような調子で言った。
    「むしろ、俺が矜持(きょうじ)を賭けて戦うべき相手がいるとしたら、あんただとも思っているけど。それでも、あんたが意味無く相手を踏み躙るような人間だとは思ってないし、ああいう言葉を投げかけられるような人間だとも思ってない。いい意味でも悪い意味でも、目的が無きゃ動かないから。優先順位と価値観の違いで、旧友に憎まれることもあるんでしょ」
     巡が反抗的な笑みを浮かべる。栄柴の家にも舞奏社にもおもねらない、佐久夜のよく知っている顔だ。そのまま、巡は続けた。
    「だから、意味無いことやらせちゃおーかなって」
     鵺雲は黙って巡のことを見つめていた。そうしてしばらく経った後、ようやく口を開く。
    「果たしてどこを勝利と置くかを考えていたんだ。こと七生くん相手だからね。彼が場外戦術を是とするなら、僕も対策を考えなくてはいけなくなる」
     舞奏競の勝利とは、観囃子の歓心を多く集め、御秘印を得ることではないのだろうか。少なくとも佐久夜の中ではそうであるし、巡だって同じ認識であるはずだ。
     だが、佐久夜も巡も口を挟まなかった。少し黙ってから、堪えきれないと言わんばかりに吹き出した。
    「でも、巡くんと佐久夜くんの二人と一緒に温泉に行けるなら、そこを勝利に置いてもいいかなって気がしてきたよ」
    「……そうですか」
    「うん。そうだね。およそ僕の発想の中には無いものだったけれど、他ならぬ巡くんの提案だし、とてもいい考えかもしれない」
    「マジで? 変な意味じゃなく鵺雲さんがオッケーするとは思わなかったわ。よっしゃ決まり決まり」
    「思い返してみると、旅行というもの自体初めての経験かもしれないね。各地の舞奏社に行ったことや、舞奏の交流会には出たことがあるんだけど」
     鵺雲が懐かしげに目を細める。それに対し、佐久夜は穏やかに言った。
    「所感ではありますが……楽しめるものになると思います」
    「そうそう。カミもそっちの方がむしろ喜ぶんじゃない? 覡がほんのたまにでものびのびしてたらさ」
    「それは賛同しかねるけれど」
     鵺雲が困ったように言う。鵺雲の中のカミは、随分厳粛なのだなと心の中で思う。すると、巡も同じことを思ったのか、冗談めかして「鵺雲さんの中のカミってそんなに良い奴じゃないんだね」と言った。
     すると、鵺雲は思いがけない言葉を口にした。
    「うーん、そう思っているわけでもないよ。そう思えるようなものではない、というのが正しいかもしれないけれど」
    「何それ。鵺雲さんにとってカミってどんなイメージなの?」
    「……そうだなあ。VDOって感じかな」
     ますます意味の分からない返答だった。訝しげな視線に気がついたのか、鵺雲は笑顔で補足する。
    「これは僕の好きな小説に出てくる造語なんだけど……イメージといえばそれかもしれない」
    「なんか循環参照染みてて怖いんだけど! つまり、その造語ってどういう意味なの?」
    「これを話すと小説のネタバレになってしまうし……一応その小説、知っている人間が書いているものだから、無体なことはしたくないんだ。あ、ベストセラーだというし、片端から読んでいけば、いずれ行き当たると思うよ!」
    「そんなの確率的にキツいんですけど! はあ、まあいいや」
     巡りが呆れたように言ったその時、社人が修祓の儀の開始を告げた。
    「それじゃあ行こうか、二人とも」
     御斯葉衆の覡主が、一番最初に立ち上がった。佐久夜は大きく息を吸い込み、修祓の儀に臨む。





    著:斜線堂有紀

    この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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