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小説『神神化身』第二部 三十七話  「舞奏競 星鳥・修祓の儀(後編)」
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小説『神神化身』第二部 三十七話  「舞奏競 星鳥・修祓の儀(後編)」

2022-01-28 19:00

    小説『神神化身』第二部 
    第三十七話

    舞奏競 星鳥・修祓の儀(後編) 


     御斯葉衆(みしばしゅう)のところから逃げるように──実際に逃げはしたのだが──去った後、水鵠衆(みずまとしゅう)は互いのことを見つめ合いながら、ただひたすらに黙り込んでいた。阿城木(あしろぎ)も、七生(ななみ)も、こういう時に口火を切ってくれそうな去記ですら、言葉を探して黙り込んでいる。
     何かを言うべきなのかもしれない。ただ、何から話せばいいのかもわからない。嵐が過ぎ去って阿城木に残ってしまったのは動揺だ。
     自分は本当に六原三言(むつはらみこと)の代わりなのだとしたら──七生が選んでくれた理由がそれなら、自分はどうすればいいのだろうか?
    「……九条鵺雲(くじょうやくも)と何を話したの?」
     沈黙を破ったのは、七生の鋭い声だった。久しぶりに自分に言葉が投げかけられたと思ったらこれだ。思わず、阿城木も刺々しく返す。
    「散々ふてくされといて、開口一番それかよ」
    「はあ? 僕はこれでも心配してあげてるんだけど。九条鵺雲はそれこそ阿城木に酷いことを言って精神攻撃してくるかもしれないし。それで舞奏競(まいかなずくらべ)に支障が出たら洒落にならない」
     七生は噛みつくようにそう言って、阿城木を睨みつけた。まるで既に九条鵺雲の掛けた呪いが効果を発揮していて、阿城木の舞奏を損なっているとでも言いたげな態度だ。
     精神攻撃と七生は言うが、本当にそうだろうか? しげしげと阿城木のことを見つめながら、独り言のように囁かれた言葉を思い出す。あれが単に阿城木を動揺させようと言った言葉には聞こえなかった。ただ単に、ああして言葉が口を衝く程に、阿城木入彦(いりひこ)と六原三言が似ていただけなのだろう。
    「精神攻撃してくるってんなら、お前の方がよっぽどだけどな」
    「なっ……それ、どういう意味!?」
    「散々こっちのこと避けといて、九条鵺雲と話したらきゃんきゃん言ってくんのかよ。お前の情緒不安定の方がよっぽど俺の舞奏(まいかなず)に悪影響だろうが」
    「原因を作ったのはそっちのくせに被害者ぶるんだね。阿城木のそういうところ本当に嫌い」
    「あーそうかよ。じゃあ六原のことも嫌いなのか? 俺に似てんだろ?」
     半分は本気で、半分はカマを掛けてやるようなつもりで。こうして七生を試そうとするようなところが、彼に嫌われる由縁だろう。だが、阿城木はこういうやり方以外で七生に近づく方法を知らなかった。
     殻に傷を付けて、ひび割れた箇所から中身を引きずり出すようなやり方を、昔の阿城木ならきっとしなかっただろうに。
     案の定、七生は受けた衝撃を隠そうともせずに、子供のような声で言った。
    「……どうして三言の話が……?」
    「お前が聞きたがったんだろ? 九条鵺雲と何話したのか」
     阿城木が噛みつくように言うと、七生はいよいよ顔を蒼白にして、今にも倒れ込みそうだった。
    「み、三言……とは何なのだ? 何の話……なのだ?」
     知らない名前に、去記が不安そうな顔をする。
    「さあな。俺もわかんねえよ。映像で観た舞奏だって大分昔のだし、人となりなんか余計わかんねえ。けど、七生はよく知ってる。そうだよな」
     七生は阿城木の方を睨みつけたまま、全く動かなかった。その憎しみとも悲しみともつかない目に息を吞む。蔵で七生を見つけた時は、こんな風に七生を責め立てる日が来るなんて想像もしていなかったのに。本当は、こんなことを言いたかったわけでもなかったのに。阿城木は改めて苦しくなる。
    「…………お前が俺を選んだ理由が、六原三言に似てるからだったとしても、今更何も言わねえよ。それが九条の言うように郷愁の為のもんだったとしても、それがお前に必要だったなら……無下にはしない」
     自分の声がただの虚勢になってしまわないよう、阿城木は慎重に声を発した。それがどれだけ七生に響く言葉なのかは分からない。
     ややあって、七生が静かに言った。
    「……代わりなんかじゃない」
     その様があまりに弱々しかったので、思わず七生、と名前を呼んでしまう。すると、七生が弾かれたように阿城木の方を見た。そして、苦しげに言う。
    「代わりになんかなれると思う? 六原三言は化身(けしん)持ちだ。お前とは違う。カミにその才を認められた覡だった。阿城木はそうじゃない。そんな人間が、六原三言の代わりになれるはずがない」
     その言葉には悲壮感すら漂っているようだった。手負いの獣が、精一杯死力を尽くして立ててくる爪のようだ。傷つかない、と言えば嘘になる。だが、目の前にいる七生が血を流していることを知っているから、辛うじて耐えられた。
    「似ているところは、その独善の具合くらいじゃない? 六原三言もそういう人間だった。……いつだって三言が一番正しくて、他の人間は間違ってて……。だから、いつだって周りの人間は、六原三言に従うしかなかった。……阿城木だって、そうして……周りの人間をなんだかんだ従わせたり……引っ張ったりしちゃってさ。そういうところが、本当にずっと、……疎ましかった。六原三言が憎いから、お前のことだって嫌いだった」
     ──あんま好きになっちゃ駄目だよ。僕なんか。そう言われたのは、一体いつのことだっただろうか。
    「見苦しいな」
     その時、一段冷え切った声で、去記が言った。
    「自分の価値を下げる為に、入彦を使うのは少々趣味が悪くはないか? それを妙手と思うなら、続けるのもよかろうが」
     駄々をこねる子供を窘めるような調子で、去記がくすくすと笑う。それを見て、七生が正気に戻ったように口元を押さえた。
    「好悪が口先一つでどうにかなるものであれば、我だってもう少し上手く立ち回れていたであろう。そうではないから、我はああなったのだ。好意から逃れることが叶わなかった。末路を知る千慧(ちさと)が同じ穴の狢となるのは、少々頂けぬよ」
     去記が今晒している傷は、彼が拝島綜賢(はいじまそうけん)に利用されていた時のものだ。言葉や理屈で嫌いになることが出来ていたなら、拝島去記はここまで傷ついたりはしなかった。
    「これ以上は不毛な言い合いになるであろうな。ならいっそ、我らは舞奏競まで離れようではないか。何事も咎めず関わらず……舞台の上でのみ交わるものとなろう。それがこの場を収めるもっとも冴えた裁きであろうよ」
     去記が八重歯を見せながら、この世のものならぬ笑みで言う。勢いに気圧されたのか、やや冷静になった七生が言った。
    「……そうだね。僕は阿城木といると落ち着いていられないから。これまで通りなるべく関わらないようにするよ。無用な衝突は……確かにもううんざりだ」
    「……ああ。俺もそれでいい。今のこいつと話しても平行線だ。修祓の儀は別に茶飲み話をするイベントじゃないらしいからな。話さなくてもどうにかなるだろ」
    「よし。これで決まりであるな。何もかも元通りだ。我も一旦の安寧を得ることが出来て嬉しいぞ」
     去記がにっこりと目を細めて笑うのを見届けてから、七生は黙って他の部屋に行ってしまった。全く、行動の早い覡主(げきしゅ)だ。その点だけはご立派なことで、と阿城木は思う。
     その背を見送った後、去記が口を開いた。
    「我は……わかる。千年生きているから……わかる!」
    「何がだよ」
    「千慧のあれは……つんでれというやつなのだ」
    「ぜってー違うだろうが。九尾データベースはどうなってるんだ」
    「いやはや、一時はどうなることかと思ったが、収まるところには収まったの」
    「収まってねーよ。クソ、六原三言だの何だの……ここにいんのは俺だろうが。化身の有無とか痛いとこ突いてきやがって」
     阿城木の記憶にある少年を脳内で加齢させたものの、自分と似た容貌になっているかは分からない。
     外見はともかくとして──親交のあったであろう七生の言うことだ。六原三言と阿城木入彦は、中身の面では似ているのかもしれない。だが、言うまでもなく阿城木と六原三言は別の人間だ。
    「……畜生、暴いたら暴いたでろくでもねえことばっか出てくんな。それをどうこう言うつもりはねーけど、普通に堪えるわ」
    「うう、その気持ちはわかるぞ。辛かろう。あ、でも、ああ言ってはいたが、千慧はきっと六原三言のことが嫌いではないぞ!」
    「六原のフォローをされても別に嬉しかねーよ」
    「あっ、あっ、えーと、だからつまり我が言いたいのは、六原三言が嫌いではないということは、その六原三言に似ている入彦のことだって大好きであろうということで」
    「ばーか。お前の言いたいことは分かってるっつーの。ちょっとからかってやりたくなっただけ」
     阿城木が悪戯っぽく笑って言うと、去記が「あーっ」と大声を上げた。
    「千慧に冷たくされているからといって、我に意地悪した! 我そういうのよくないと思う!」
    「悪かったよ。なんか……ついな。つい」
    「ぐう、ついで済まされてしまうとは……。我が一本尻尾であったら赦してやれんかったかもしれぬぞ」
    「お前が九尾で良かったよ」
     阿城木がそう言うと、去記はころっと表情を変えて嬉しそうな笑みを浮かべた。九尾であることを褒められて、素直に嬉しくなったらしい。これからはちゃんと九尾であることを認めてやらないといけないのかもな、と阿城木は思う。
    「……それにしても、六原三言……か……。もしかしたら、それが千慧の……目的なのかもしれぬな」
    「あ? もしかしてあいつ、お前には何か話してんのか?」
    「うう、そんな睨まないでほしいぞ……。……我が、水鵠衆に入ることを拒んでいた時のことを覚えているか?」
    「ああ、そりゃあな」
     あの時、去記は頑なに水鵠衆への加入を拒んでいた。それが、阿城木の家に泊まり、七生と話をしただけで態度を一変させたのだ。あの時のことは、阿城木も気になっていた。
    「あの夜……千慧は我に、その身を捧げよと言った」
     思いがけない言葉に、阿城木は一瞬戸惑う。
    「は? それどういう意味だよ」
    「そのままの意味であろうな。カミへの復讐と贖罪を共に果たせるものと言っていたのだ。千慧には何らかの理由で我が必要なのだ」
    「それはつまり……大祝宴(だいしゅくえん)に辿り着く為に力を貸せっていうことだろ?」
    「そうではない。上手く言葉には出来ぬが、そうではないのだ。千慧は我に身を捧げよと言った。それが単なる比喩ではないと感じたからこそ、我は水鵠衆に入ったのだ」
     コンタクトレンズの下に隠れている、去記の化身を強く意識した。
    「我はこの身を捧げる場所を求めている。それが千慧の下ならば、こんなに嬉しいことはない」
    「……ていうか、この間から思ってたんだけどよ。そんな捨て鉢なこと言うなよ。身を捧げるとか、そういう生け贄染みた話は違うだろ。俺らは一応仲間なんだからな」
    「ふふふ、そこは我と入彦の平行線であるな。我はそうではなければ、水鵠衆にはいなかった」
     同じ言葉を喋っているはずなのに、去記とも七生とも会話が成立していない気がする。だからいっそ交流を絶ってしまうという去記の解決方法は、一番理に適っている。
     なら、自分達はどうしたらいいのだろうか? 何もかも不透明で、導く光すら届かないこの状況で、一体何を標にすればいい?
    「………………決まってるよな」
     自然と、その言葉が口を衝いて出た。
    「俺はあいつに教えてやらねえとな、そろそろ」
     独り言めいた呟きが漏れたことに驚いたのだろう。去記が「入彦……?」と首を傾げる。
    「何を教えるのだ?」
    「全部だよ。今までわからせてやれなかった全部。大体あいつ居候のくせに生意気過ぎんだよな。やれシュークリームが食べたいだの、やれチョコの気分だから抹茶は明日だの、人を菓子調達人みたいに扱いやがって」
    「それは入彦が千慧にあまあまだからなのではないか……?」
    「ないか……? じゃねーよ! 俺のせいかよ!」
    「お陰かもしれぬが……」
    「まあいい。俺が言いたいのは、ここらで一つあいつに思い知らせてやんなきゃなんねえのかもなってことだよ」
    「思い知らせる……?」
     去記が子供のように復唱する。水鵠衆の中で一番大人であるはずなのに、と阿城木は思わず笑ってしまう。首を傾げたままの去記の胸をトンと指さしながら、阿城木は不敵に笑った。
    「俺が阿城木入彦で、お前が拝島去記で、俺らは水鵠衆だってことだよ」
     全ては遅々として進まず、七生がどうして自分を──六原三言に似ている自分を選んだのかも、去記の口にした七生の目的についても、何も分からない。おまけに七生とは舞奏競までまるで口を利けないときている。
     だが、七生は舞台に上がるしかないのだ。その目的の為に。そこからは、七生は絶対に逃げられない。なら、それでいい。自分達には、言葉よりも雄弁なものがある。
    「言葉で言っても分かんねえなら、舞奏でだ」


      *


     九条鵺雲は回想する。
     鵺雲の一番好きな本は、自分の日記だ。日記は自分の同一性を高め、自分を九条鵺雲たらしめてくれる。鵺雲にとっての標とは、過去の己自身だった。
     おまけに自分の日記には、しばしば弟の九条比鷺(ひさぎ)についての記述も多く出てくる。それを読み返す度に、鵺雲は弟が生まれた時の幸せな気持ちを新鮮に思い返すことが出来るのだ。
     今でも弟のことは大好きだし、考えると幸せな気持ちになりはするのだが、自分のことを慕い、後を着いてきてくれていた頃は筆舌に尽くし難い。
     しかし、日記を付けていようといまいと、九条鵺雲は記憶力の良い人間だった。大抵のことは忘れない。舞奏に関することならば尚更だ。
     だから、鵺雲は初めて秘上佐久夜(ひめがみさくや)と言葉を交わした時のことをちゃんと覚えている。社人(やしろびと)である秘上佐久夜は、御斯葉衆(みしばしゅう)の誰よりも堂々とした佇まいをしていた。対戦相手である覡達よりも、鵺雲の目を惹いたのは彼の方だった。社人である佐久夜には、当然ながら化身が無かった。だが、御斯葉衆に所属している覡達にも化身は無かった。なら、佐久夜と彼らの立場は同じだろう。
     自身の仕える御斯葉衆が鵺雲の率いる櫛魂衆(くししゅう)に敗れたというのに、佐久夜はさして残念そうな素振りも見せていなかった。むしろ、それが当然であると言いたげですらあった。
     その態度が気になって、鵺雲は佐久夜に話しかけたのだ。
    「やあ、君は遠江國(とおとうみのくに)の秘上家の子だね? 舞奏競に社人が付き従ってくるなんて珍しい」
    「秘上の家では、そのようなしきたりになっております。……貴方は九条鵺雲様ですね」
    「うん。はじめまして。僕が九条家の嫡男、九条鵺雲だよ。君のお父上には、九条の家もお世話になったんだよ。合同舞奏披(ごうどうまいかなずひらき)の時とかね」
    「恐縮です」
     そう言って、佐久夜が深々と頭を下げる。所作の一つ一つが整っていて美しく、ここまでくると、彼が何故舞奏をやっていないかが──もっと言うならば、彼に何故化身が無いのかを不思議に思ってしまうほどだった。尤も、カミが彼に化身を与えなかったのであれば、その才は見初められるだけのものではなかったのかもしれないが。
    「考えてみれば、はじめましてというわけでもないかな。修祓(しゅばつ)の儀(ぎ)の時に、顔は見ているはずだものね。君は従者らしく、他の人の世話に終始していた覚えがあるから、言葉を交わすのは初めてだけど」
    「そうですね……。あの社(やしろ)でお目に掛かりました。増築を繰り返した、大きな社で」
    「そうそう。まあ、君だけに教えてあげるけど、僕はあの社がそんなに好きじゃないんだ。あそこで修祓の儀が行われると知って、少し残念に思っちゃったよ」
    「そうですか……。私は、美しいと思いましたが……」
     そう言って、佐久夜が困ったように黙り込む。ややあって、寡黙そうな彼がゆっくりと口を開いた。
    「……鵺雲様の舞奏を拝見しました。あれを目の当たりにすれば、御斯葉衆が何故勝てなかったのかが窺い知れます。本当に素晴らしいものでした」
    「あは、僕の舞奏が素晴らしいのは自明のことだけれど……御斯葉衆が戦ったのは櫛魂衆でしょう? 僕だけじゃない」
    「それでも、貴方様の舞奏が一番美しかった」
     面白い目をする子だ、と鵺雲は思った。爪の先まで礼に浸され、決して表に出ようとしない従の態度を崩さないのに、その目はどこか深く鋭く、こちらを取って食おうとしてでもいるようだった。貪欲で、残忍な目だ。こんな目をする人間はそういない。
     その目が自分に向けられていることに、少し驚いてしまうほどだった。この九条鵺雲に、臆さず手を伸ばさんというその姿勢。
    「……申し訳ありません。出過ぎたことを申し上げました」
    「ううん。素直な賛辞は心地がいいよ。ありがとう」
    「それが見られただけでも、私がここに立ち会えたことへの望外の喜びを噛みしめずにはいられません」
     口調は素っ気なく、話し方は朴訥(ぼくとつ)だ。だが、鵺雲には彼の言葉が本心からのものだと察せられた。いっそ切実ささえ滲んでいる。彼は至高の舞奏を──その才を貪欲に求めている。
    「君は、もしかすると飢えているのかな」
    「……飢え……?」
    「少し抽象的な言葉になってしまってごめんね。でも、それ以外に形容する言葉が出てこなくて」
     すると、佐久夜は少し黙り込んでから、その腹に手を当てた。そのまま、静かに答える。
    「鵺雲様の言葉は正しいと思います。私は──もうずっと長く、飢えている」
     佐久夜がゆっくりと目を閉じる。その様は、鵺雲の目には殉教者(じゅんきょうしゃ)とも見えた。
    「気になっていたことがあるんだ。秘上の家といえば、舞奏の名家である栄柴(さかしば)の家に仕えるものでしょう? 君の主人は一体どこにいるの? 化身が出なかったわけでもないのに」
    「栄柴家の嫡男──栄柴巡(めぐり)は、舞奏を辞めました」
    「辞めた?」
     舞奏に対し『辞める』という言葉が充てられることに驚き、思わず訝しげな声を上げてしまった。鵺雲の弟の比鷺も舞奏から一時的に離れてはいるが、いずれ必要になれば舞奏に戻るだろう──九条の血、舞奏との縁はそういうものだ。
     栄柴の家ともなれば、何代も続く名家だ。その縁は深く、その責務や血も重いだろう。それなのに、どうして辞めるなんて話が出たのだろうか。鵺雲のように、他に血を分けた控え子がいるわけでもないだろうに。ますます不可解だ。
     そんな鵺雲に対し、佐久夜はまっすぐに目を見て言った。
    「私の責任です。私が彼を舞奏から離れさせてしまった。それを悔やまぬ日はありません。私には、その罪過を浄める機会すら与えられないでしょう」
    「……君が舞奏を辞めさせたの? 君が引き継がれてきた歴史をも撥ね除けて、栄柴巡くんに影響を及ぼした、と?」
     佐久夜は静かに頷いた。彼を縛る罪悪感は、ただの思い上がりと切り捨てられないものだった。栄柴巡が舞奏を辞めたのは、秘上佐久夜の所為なのだ。
    「それで、栄柴巡くんは今何をしているの?」
    「栄柴の血を引く後継に注力しています。つい先日、妻を迎えました」
    「舞台から降りたのなら、それが栄柴の家の為に出来る一番のことかもしれないね」
     後に託して子を成し、血を次代に繋いで行くことは名家に生まれた者の最低限の責務だ。それだけは無事に果たされそうであると知り、鵺雲は密かに安堵する。舞奏の豊穣には、他家の繁栄も欠かすことが出来ない。
    「だから、巡様が舞台に戻られることはありません。あの舞奏は永遠に失われてしまった。あれほど美しい舞奏は他になかったというのに」
    「君はそうして一生苦しみ続ける運命にあるんだね」
    「私は、咎人です」
     佐久夜はよく通る声ではっきりと言った。
    「今生で罪過を浄めることの出来ない私は、きっと未来永劫報いを受けるでしょう。ですが、私は今でも諦められない。巡様が大祝宴に辿り着くところを見られるのなら──いいえ、あの方の舞奏がもう一度見られるのなら──生皮を剥がれても構わない」
     佐久夜は腹の中にあったものを吐き出すように言った。
    「私は、巡様が生きている限り、きっと死ぬことすら出来ない……。これを抱えて、生きていくしかないんです」
    「失われたものに焦がれ続けるのは苦しいだろうね」
    「それでも、私はあの舞奏と共に心中したい」
     佐久夜が苦しそうに──だがはっきりと、そう宣言する。
     鵺雲は記憶力がいい。だが、その佐久夜の言葉を聞いた時の感情だけは、正しく思い出せなかった。日記を読み返し、弟への感情を呼び起こすのとは違うのだ。
    「なら、僕が救おう」
     鵺雲ははっきりと言った。
    「素晴らしい舞奏が失われるのは耐え難いことだよね。カミに与えられた才があるなら、それはきっと貴ばれるべきだ。たとえ相模國の外のことであろうと──こと舞奏に関することであれば、僕が手を差し伸べぬ道理が無い」
     鵺雲の言葉が理解出来なかったのか、佐久夜がまじまじとこちらを見た。その目には飢えた獣の獰猛さと、迷う信徒の揺らぎが奇妙に混じり合っている。鵺雲の暮らす相模國では特定の家に仕える社人の家系、というものは存在しない。そのことが少々惜しく思えるほどだった。彼は、ある意味で遠江國に脈々と受け継がれる伝統そのものであった。彼は忠義を尽くしつつ、尽くす相手を縛るものだ。
    「……本当ですか」
     佐久夜が絞り出すような声で言う。まともに言葉を交わしたのは今日が初めてだ。よっぽどのことがなければ、これから先はもう無いだろう。そろそろ鵺雲はここを離れ、舞奏衆を組んでいる二人のところに戻らなければならない。
    「君のことを覚えておくよ、佐久夜くん」
     鵺雲はそれだけ言って、佐久夜に頷いた。
    「鵺雲さん? あ、鵺雲さん! その……三言が探していましたよ。御秘印(ごひいん)も……」
     案の定、自分を呼ぶ声がする。
    「それじゃあまたね」
     だが、こうして秘上佐久夜と言葉を交わすことは、今の鵺雲にとって必要なことだった。秘上佐久夜を救うことは、栄柴家の舞奏をも救うことだ。可能性は、どこにおいても存在する。だとすれば、これは覚えておくに値するものだろう。
     それ以降、罪過を浄める機会を与えられなかった秘上佐久夜とも、後に託すことだけを選んだ栄柴巡とも、九条鵺雲は相見えなかった。鵺雲自身も、わざわざ彼らと会う必要性を見出さなかった。何しろ、九条鵺雲には櫛魂衆の覡主としてやるべきことがあった。
     そこから、思いがけない出来事が起こり、あの時の言葉を意図とはまるで違う形で叶えることになるとは、九条鵺雲は想像もしていなかった。

     修祓の儀はつつがなく終わった。こうした場に慣れているであろう鵺雲に、社人である佐久夜、それに、一通り学ばされている巡が揃っているのだ。手間取る理由も無い。水鵠衆の方も比較的早くに済んだようだった。ああした個性の強い覡達は手間取るのではないかと思っていたが、ああ見えて覡主が儀式の上ではしっかりとしているのかもしれない。
     迷路のような惑わしの社から出ると、開放感があった。門を背に巡は大きく伸びをして、明るい声で言う。
    「はーあ、終わった終わった。ねえ、水鵠衆との懇親ってこれもう無い感じだよね?」
    「無い……ようではあるな。今からでも申し入れれば、受け容れられなくもないかもしれないが」
    「佐久ちゃんってば、鵺雲さんと水鵠衆の覡主とのあの感じ見て、まだそう思える? だとしたらなかなかのもんだけど」
    「……まだそう思えると問われれば、そうではないという答えにはなるが……」
    「本当にごめんね。巡くん、佐久夜くん。重ねてお詫びするよ」
     鵺雲がしゅんとした顔をする。それを本気でやっていそうなところが、鵺雲の鵺雲らしいところだ。
    「そういう時はごめんなさいって言った方が可愛げありますよ」
    「可愛げ?」
    「いいから素直にリピートしてくださいって」
    「……ごめんなさい?」
     鵺雲が不慣れな外国語でも口にするような調子で言う。
    「はいオッケー。じゃ、佐久ちゃん。適当にここら観光して帰ろ」
    「ここらに観光出来るところがあるとは思えないが」
     佐久夜がつれない調子で言う。それに合わせ、九条鵺雲も言った。
    「観光となると、それこそこの舞奏社(まいかなずのやしろ)こそが見るべきものだと思うしね。食べ物も……ここは何かあるのかな?」
    「修祓の儀をやるような舞奏社なんだから、食べるところくらいあるでしょ。舞奏衆同士の会食とかセッティングしなくちゃいけないだろうし」
    「巡くんの言う通りだね! とはいえ、その会食が執り行われるような場合も、最近では少ないようだけど」
     鵺雲が小さく首を傾げながら言うが、巡にとっては当然だろうという感じだ。これから鎬を削り合う相手なのだし、よっぽど社交的な覡じゃなきゃ成立しないだろう。
     おまけに、九条鵺雲が化身すら持たない覡と会食をしようという気になるかといったら、それこそ怪しい。というか、絶対にそんなことはしたがらないに決まっている。だから、御斯葉衆が他衆と交流を深めることすら、これからあるとは思えなかった。
     それこそ、水鵠衆のように前々から見知った間柄である、という裏事情が無ければ、余計に。
    「……まあ、仲良しこよしご飯したいかって言われると、それも微妙だしね。昔は家同士を仲良くさせようっていう集まりにあれこれ呼ばれたもんだけど」
     佐久夜にも似たことを言ったが、改めて鵺雲にも言っておく。
    「舞奏の名家同士の結びつきを深めることには意味があると思うけど」
    「とはいえ名家って簡単に消えてくもんだからね。枯れた滝を蘇らせた御堂(みどう)とか、戦で所領が焼き払われる前まで時間を戻した藤澤(ふじさわ)とか、歴史ある家も今じゃすっかり音沙汰もない。名字だけ残って舞奏なんか知らないって家もあるしね」
     正直なところ、栄柴の家だってそうなる可能性が十二分にあったのだ。巡があのまま逃げ出していれば、きっとそうなっていたことだろう。
    「それをさせない為に、僕らは仲良くするのかもしれないなって今思ったよ。それこそ、僕がここに来たことで、巡くんが舞奏への意欲を燃やすようになったみたいに……って言うと、少し思い上がりが過ぎて恥ずかしいかな?」
    「そんなこともないですよ。その通りですしね」
     家同士を縛ってしまうやり方の有用さは、巡にも重々分かっている。それが家と家を超えて、人と人との結びつきになってしまったら尚更だ。その繋がりを断ち切りたくないという気持ちが、家への強い従属を生む。
    「じゃ、俺らはさっさと帰りましょうか。この近くに何も楽しいところが無いんなら、祝大(いわた)に戻ってから楽しませてもらおっと。ねー、佐久ちゃんもそれでいいでしょ?」
     気がつくと、佐久夜は舞奏社のことを振り返り、じっと見つめていた。まるで、家を恋しがる子供のようだった。
    「どうしたの、佐久ちゃん」
    「……この社が、何故か名残惜しい」
     佐久夜がそんなことを言い出すとは思っていなくて、一瞬呆気にとられてしまう。あの人を惑わせるような社が気に入ったのだろうか。無秩序な増築と中の豪奢さは目を見張るものがあったが、佐久夜の趣味はあまり分からない。
    「貴方はあまり好ましくないと言うでしょうが」
     その時、不意に佐久夜が鵺雲の方を見て言った。鵺雲は驚いたように目を見開き、おずおずと言った。
    「……えっと、僕はそんなことを言ったかな?」
    「いえ、そんなことは……ですが、そうではないかと」
     佐久夜が自分でも不思議そうな顔をして言う。すると、鵺雲はまた一つ大きく頷いた。
    「うん。合ってるよ」
    「えー? ああでも鵺雲さんはそうかもね。考えてみたら納得するか」
     巡も彼に合わせて、一つ大きく頷いた。彼の今までの発言や価値観に則ればそうかもしれない。そして鵺雲は、やけに真剣な色をした目で言った。
    「巡くんが覡になってくれて、僕は本当に良かったと思っているよ」
    「え、何ですか急に」
    「巡り巡ってこの縁で良かったことがあるとすれば、それなのかもしれない。いや、そうであるからこそ、僕は可能性に気がつけたのかもしれない。ね、まさかこんな形になるとは思わなかったけれど」
     鵺雲が何を言っているのか、巡にはよく分からなかった。常々理解の外にある男だとは思っていたけれど、今日はそれが一入である。あの七生という旧知の少年にあれこれ言われた所為だろうか。それでも、鵺雲はどこか楽しげですらある。
     その時、巡の目が舞奏社の二階に佇む一人の覡の姿を捉えた。あの例の──水鵠衆の覡主、七生千慧だった。
     彼は自分達ではなく、ただ御斯葉衆の覡主である九条鵺雲のことを見ていた。その夕暮れのような奇妙な色の瞳に、自分の姿が映っていないことが訝しくてならない。何故なら自分は、栄柴家の血を引く栄柴巡なのだから。そんな風に扱われては困ってしまう。
     上等だよ、と巡は思う。およそ交わることすら赦されなかったはぐれ者達。栄柴巡とも九条鵺雲とも、当然ながら秘上佐久夜とも相容れないだろう自由の徒。およそ言葉では理解し合えないのであれば、自分達が発する言葉は、ただ舞奏のみでいい。
    「舞奏は楽しい。この期に及んでこそ」
     七生千慧の視線に気がついたのか、九条鵺雲が歌うようにそう言った。あまりにも優雅なその言葉が、御斯葉衆にとっての開戦の烽火(のろし)であるようだった。






    著:斜線堂有紀

    この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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