その1 次の道が僕を待っていた。(後半)
ある日、取材の依頼が来た。その取材は「達人入門」。ハハハ、その頃の僕はまだ武術とのご縁はない。達人なんて僕の意識にはなかった。その取材では昔の達人の動きか何かをやったのかな? 今となっては覚えていない。このたまたまもきっと必然だったんだろうな。掲載本が届いたので、パラパラ見てると、僕の記事のすぐ隣のページに知ってる顔があった。あの時から始まったんだな。振り返るとそんなことを感じたりする。
プロ選手を引退した翌日、僕はスポーツジムで体を動かしていた。なぜかジムに行きたくなった。そしてなぜかこんなことを思ったりした。昨日でプロを引退したんだから、これからは身体を無理なく上手に動かす練習をしてみようって。振り返ると不思議な感じで僕は引退翌日を過ごしていた。今に繫がる道を自然と自分で勝手に始めていたんだろう。
それから1年、僕は自分なりに考えて身体を上手に動かすことを毎日続けていた。その元になったのは操体法(そうたいほう)といって、現役時代にたまたま雑誌で見かけたものだった。さらにたまたま行ける場所でもあり、たまたま読んだ後すぐに腰を痛めた。こんな“たまたま”が重なり僕は操体法と出合った。操体法を受けたことで、痛めた腰は楽になった。だから現役時代は定期的に身体のケアのために通っていた。引退したらそれ程身体は酷使しない。そもそも身体を上手に使う練習を引退翌日からやったのだから、身体のケアの必要はなかった。
自分であれこれ考えて身体を動かした1年間は、格闘技のプロで酷使した身体に休養を与え、次に進む道に新しい力を注いでくれたのかもしれない。元気とやる気が戻ってきた頃、僕は偶然取材を受けた。僕の記事の隣には操体法をやってくれた人が写っていた。またまた、たまたまだ。ハハハこれは読みにくいな。またまた、たまたま。またまたを反対にするとたまたま。たまたまを反対にするとまたまた。たまたまは実は何度でもやって来る。ハハハ、僕は一体何を書いてるのだろうか?(笑)。
とにかく何だか分からないけど、僕はその記事に引き込まれた。それで操体法の人に電話した。次の日、僕はその人と会っていた。そしていつの間にか操体法を学ぶことになった。不思議だけどそうなった理由は覚えてない。きっと最初からそうなることが用意されていたのだろう。そんなふうにしか思えないのだ。メインの記事はその人の師匠にあたる人。どうせなら師匠から学べば良いということで翌日に出掛けた。それで通うことになった。
僕は道場で教えるのが仕事だから普通の人が通う時間には都合がつきにくい。それでなぜか僕に時間を合わせて個人的に教えてくれることになった。操体法の師匠から、個人レッスンで学んだのは僕が初めてのことらしい。引退して1年が過ぎた頃、僕は操体法を学び始めた。
1年間何かをやらなければいけないと追い立てられるように僕を包み込んだ感情。僕を急き立てた感情、その感情が何をさせたいのか分からなかった。一体何をしたらいいのか分からないまま、何かに急き立てられて1年を過ごした。そして操体法に出会い、たったの3日で弟子入りすることになった。
操体法というのは昭和の時代に宮城県の医師である橋本敬三先生が創設されたもの。人は身体を動かして生きる。身体を動かして悪くなったものは、身体を動かしたら良くなるんじゃないのか? 医師として苦労した不定愁訴(原因不明の痛みや、動きに制限のかかった状態、腰痛や肩こり等を含む)に関して、正体術という民間療法にヒントを得て発見した橋本先生の独自のやり方は、紆余屈折を交えながら、効果を高めていき、NHKの番組で取り上げられると一躍知名度を上げた。それからは全国から患者が訪れ大盛況になったという。