00a7cbbe8a81b85bc9784f88cfa175448c5b63ac

165186b35ee41bcf164f12b2923b650188dcd055

その4 明治前後の日本、武術~武道。(後半)

歴史が変わる際には天才が現れる。明治維新において数え切れないくらいの偉人や天才が現れたかのように。武術存続の危機の時代にも一人の天才が彗星のように現れた。それこそが柔道の生みの親であり、講道館を創設した人物。そして東京にオリンピックを招聘した人物でもある、嘉納治五郎先生だ。


嘉納先生は非常に頭が良く、そして機を見るに敏な人で幸運にも恵まれた人だったように思う。衰退から逃れることが出来なかった柔術という名前に拘らずに、“柔道”と名前を大胆に変更したことは特筆に価する。柔術を柔道に変えた際には名前だけでなく、稽古のシステムも変えたことは有名な話で、それまでの型稽古主体の柔術から、乱捕りや実際に技を掛け合うシステムを作り上げ、単調な型稽古だけでなく、実際に技を自由に掛け合う楽しさを加えた。


意外に知られていないが、投げの際に行う引き手を考案して義務つけたのは嘉納先生だと聞いている。それまでの柔術は投げっぱなしだったため、稽古において怪我が絶えなかった。そのため、柔術の道場では首を整復する方法が発達した。柔道では引き手を確実に行うことで稽古における怪我が激減し、安全であり、楽しめる稽古が出来るようになっていった。誰もが短時間で技を覚えられ、怪我を心配することなく稽古を楽しめる。そのために柔術の“術”の部分を無くしてしまったのだ。あるいは初心者には術の部分は教えなくても出来るようなシステムを構築した。


身体の使い方、身体の内側の動きに修行の大半を費やす古流柔術の“術”の部分を削除すれば、単純な身体の表面の動きだけで技を説明すればいい。だから入門したらすぐに柔道の乱捕りが出来るようになる。柔術の術、身体の内側の動きを習得するためには長い時間と気が遠くなるような努力が必要だ。その部分を削除したことにより、柔道は誰もが気軽に学べるものとなり、普及への大きな武器を得たことになった。


当時の柔道には組み手争いはなかったとも聞いている。お互いに充分に道着を掴んだ状態から乱捕りを始める。そしてお互いに技を掛け合う。さらに相手の技が効いたら、無理をせずに自分から技にかかって綺麗に飛ぶ。身体が崩れた状態になって相手の技がかかったら自分で綺麗に投げられる。投げた相手は、綺麗に投げられた相手を自ら引き手で守る。技を綺麗にかけられたら相手を認めて自ら綺麗に投げられる。自分の技を認めてくれて、綺麗に受けてくれた相手には、自分の引き手で敬意を持って守るように、畳に直に全身で落ちないように支える。このやり方なら稽古で喧嘩越しにならないし、お互いに敬意を持って安全に技を試し合うことができるのだ。


講道館初期の柔道はこうやって稽古をしていたと聞いたことがある。事の真意は定かではないけれど、こういった柔道は今やっても安全で楽しいし、身体も壊れにくい。健全な精神と肉体の育成、体育という目的を掲げた講道館柔道の初期の乱捕りはこのようにやっていたようだ。


そもそも柔術とは本来素手で行うものではない。柔術家とは柔術のみならず、必ず剣術も同時に稽古をしていた。かの宮本武蔵も柔術を当然嗜んだ。「柔術とは陰と陽の身体操作が全てである」と言った言葉が残されている。どちらが強いのかを本当に競うなら、素手はあまり大きな意味を持たない。素手の打撃どころか、打撃そのものを禁じた初期の講道館柔道において、どちらが強いのかという目的が存在したかと言えば、無かったとしか僕には思えない。どちらが強いのかを競うのではなく、どちらが正々堂々と相手と向き合えるのか? それを競ったのが初期の講道館柔道のような気がする。


相手ときちんと組み合い、決して逃げずに相手と技の掛け合いをする。一度相手の技が入れば、相手の技を認め、無理に耐えることはせずに自ら投げられる。その際には両者が拍手で周りから認められていたと古い武術を嗜む老人から聞かされたことがある。綺麗に技をかけたほうも見事なら、それを認めて綺麗に投げられたほうも見事な心と技と身体を持った人物であると認められた。それが武道の始まりだ。