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【第294号】黒沢清の考える映画を映画館でみる意味
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【第294号】黒沢清の考える映画を映画館でみる意味

2020-10-21 07:00
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    マクガイヤーチャンネル 第294号 2020/10/21
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    一昨日の放送「黒沢清とセカイの恐怖」は如何だったでしょうか?

    90年代に映画の見方が分かってきた自分のようなおっさんにとって黒沢清は特別な存在なのですが、思う存分話せて満足しております。

    しかし那瀬さんの旦那さんも黒沢清が好きとは思いませんでした。




    マクガイヤーチャンネルの今後の放送予定は以下のようになっております。



    〇11月15日(日)19時~「最近のマクガイヤー 2020年11月号」

    詳細未定

    いつも通り最近面白かった映画や漫画について、まったりとひとり喋りでお送りします。



    〇11月30日(月)19時~「推しドキュメンタリー特集(仮)」(日程が変更になりました。ご注意下さい)

    『れいわ一揆』『はりぼて』『なぜ君は総理大臣になれないのか』……ドキュメンタリー映画の力作が相次いで映画館で公開されています。

    『ザ・ノンフィクション』『ドキュメント72時間』『NNNドキュメント』といったテレビのドキュメンタリー番組も長い間人気です。

    そこで(というわけでもありませんが)、ドキュメンタリー番組とはなにかについて総括しつつ、「推しドキュメンタリー作品」について紹介しあうようなニコ生を行います。

    ゲストとしてお友達の編集者のしまさん(https://twitter.com/shimashima90pun)をお迎えしてお送り致します。



    〇藤子不二雄Ⓐ、藤子・F・不二雄の作品評論・解説本の通販をしています

    当ブロマガの連載をまとめた藤子不二雄Ⓐ作品評論・解説本『本当はFより面白い藤子不二雄Ⓐの話~~童貞と変身と文学青年~~』の通販をしております。

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    また、売り切れになっていた『大長編ドラえもん』解説本『大長編ドラえもん徹底解説〜科学と冒険小説と創世記からよむ藤子・F・不二雄〜』ですが、この度電子書籍としてpdfファイルを販売することになりました。

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    合わせてお楽しみ下さい。




    さて、今回のブロマガですが、番組でもちょっと紹介した黒沢清の書く本について紹介させて下さい。



    ●伊丹十三との確執の理由

    押井守や黒沢清といった映画監督が書く文章が好きです。もしかすると、彼らが監督する映画そのものよりも好きかもしれません。

    なんでこんなにも好きなのか色々と理由を考えると、多分彼らは映画監督として極めて有能であるので、「映像でしか表現できないこと」と「映像では表現不可能なこと」の二つをしっかりと理解しており、文章を書くときは「映像では表現できず、文章でしか表現できないこと」に注力しているからなんじゃないかと思います。


    黒沢清は仕事があまりなかった90年代前半を中心に映画批評・ライターの仕事をしていて、それらは『映像のカリスマ』『映画はおそろしい』といった本で読めます。どれも黒沢清の文章が楽しめる本なのですが、監督作との関係でいうと、やはり『黒沢清の映画術』が必読なのではないかと思います。

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    2006年に発表されたインタビュー本なのですが、本人の修正・加筆がかなり入っているせいか、もしくはインタビュアーがデキるせいか、興味深い内容がいっぱいです。

    一連の動作をワンカットでみせることにこだわる理由とか、後輩への嫉妬心から『復讐』シリーズや『CURE』が生まれたこととか、読みどころ満載なのですが、下衆な自分としては、やはり伊丹十三との確執が心に残りました。


    有名なので、知ってる人も多いと思うのですが、黒沢清と伊丹十三の間には『スウィートホーム』のビデオ化権料やテレビ放送の際の編集権を巡って裁判で争っていた過去があります。


    この本を読むと、二人の確執の発端は、「決定的なところで説明的な顔のアップをいれたくない」という、黒沢作品の本質にも関わる感覚の違いであった――ということが分かります。それが訴訟沙汰と関係断絶になるまでの怒りと憎しみあいにまで発展するのだから、二人とも映画監督として天晴れであるなぁ、なんて思ってしまいます。

    裁判中にも関わらず「ええ、黒沢君にはきっと才能があるんじゃないですか」と自分に不利な証言をしてしまう屈折した伊丹と、それを受けて「自分以外の誰かが伊丹十三のきちんとした歴史的再評価をするべき」「僕はどうも、長谷川和彦さんの撮れない不幸や、伊丹十三さんの不幸と引き換えにして、映画を撮り続けているような気がします」とまで発言する黒沢清が印象深いです。



    ●憎悪はどこに存在するのか

    で、この箇所を読むと、同じく黒沢清の書いた小説版『CURE』における佐久間教授の台詞の一部を、連想したりもするのです。

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