フレデイ タンさん のコメント
このコメントは以下の記事についています
エドウィン・ライシャワーは 1910 年生まれ。ハーバード大学教授。 1961 年 1966 年、駐日アメリカ大使。著書『日本《過去と現在》』(時事通信社 、一九六七年)からの引用。
・当時の日本において、国主義的かつ権威主義的な反動が起こったことの裏には、当然ながら数世紀にわたって形成された日本人のある特質があった。ナショナリズムはつねにくすぶり続けており、さして煽りたてずともそれは再び燃え上がったし、幾百年もの武家政治の下にあった日本人は、軍国主義者の主導権主張を唯々としてうけいれた。
・幾世紀もの間の権威政治におとなしく服していたせいで、たいていの日本人は、再び権威主義を押し付けられることになってもほとんど無関心であった。
・事実、彼らの多くは、せっかく手に入れた知的・政治的自由にぎこちなさを感じて、むしろもう一度天下り権威のもとで感情的な安住を得たい、とさえ考えていたのであった。封建時
明治維新がどのような作用で起こったか?内部からか、外部からか?
そして作られた権力がどこに向いたか?
1945年は一体何なのか?
そしてその後の流れはそれまでの流れと同じなのか違うのか?
そういう疑問に的確に答えることが肝ではないかと私は考えるのです。「ひこばえ」と言われても、私に関する限り納得性があるようには思えません。
単純に言えば、私の独断ですが、日本の近代国家と権力は英米の強い作用で出来上がり、作られたということになります。1945年、米国の激しい折檻に遭って壊されたが、その完全庇護のもと育成された。しかし、その独自性の発揮は禁じられている。
これから、日本国土と人的資源は益々、米国の旺盛なる覇権主義(昔は帝国主義と称されたが聞こえが悪く使われていない)の最終ターゲットたる中国、ロシア、半島へのベースキャンプ(最前線基地)として活用されて行くと私は見ています。
この事態を大陸半島側から見れば、日清、日露戦争時の日本より背後の米国が日本と一体化している分、手ごわい相手で手抜かりは一切許されない状態にあることは否めないでしょう。
ライシャワーさんの文章は非常に難しい。この手の思索として私が感心して読んでいるのはヘレン・ミアズの「アメリカの鏡・日本」です。1949年、ダグラス・マッカサーが翻訳出版を禁じた衝撃の書です。
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