Mythe et poemeさん のコメント
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アイゼンシュタットは1923年ワルシャワ生まれ。ヘブライ大学教授。ハーバード大学、スタンフォード大学等で客員教授。『日本比較文明論的考察(二〇〇四年岩波書店)』
からの引用
・明治国家の最大の特徴は、驚くべき速度で、高度な政治的・行政的中央集権が達成されたことである。行政の中央集権化は、幾つかの段階を経ながら、次の三つの特徴を備えていった。(1)統合の中心的権威としての天皇の名における支配、(2)統合的な中央官僚制による直接支配、(3)国民皆兵制、士族の廃止、統一的権利の制定における国民の平等。日本は何百もの大名の支配から統一国家へと姿を変えていく。江戸時代の半自律的な地方権力や法的伝統は、全国共通の法制度によって取って代わられ、中央権力が全国津々浦々に浸透していった。
・明治日本の新しい政治制度の設立は、欧州の国民国家における国家建設の過程と似通っていた。いや、多くの点
司馬は、日本人が<国家>という形而上学的な存在を列島の人間が理解できないまま「明治」という時代がはじまってしまっていることを繰り返し述べている。
人にとって「国家」とは何なのか?それが実はよく分からないままに、日本という「国家」はスタートした。そして、国際社会における「国家」としての振舞い、つまり<外交>ということが分からないままに進んで行ったのである――滅亡へと。
ハイデッガーは、ナチだと批判されるが、それでも、本居宣長のように神話で国体を語りはしていない。存在の根本的な源泉は民族だと言ったわけであり、神話ではなく歴史な成り立ちにおいて国家を考察したのだった。そもそも、ドイツは、ヘーゲルからニーチェへの道のりにおいて、「国家」そのものを思想の対象として考え抜いている。
日本は、ドイツから軍事は学んだが、ヘーゲルの国家論やハイデガーの存在論はおろか、クラウゼヴィッツの『戦争論』にもさしたる注意を払っていなかったように見える。石原莞爾の『戦争論』における世界最終戦争論にしてからが、政治と外交の延長上に戦争があるという発想が欠如している。石原の本を読んでいるとバカの壁の恐ろしさに身震いがする。
今でもそうだが、すぐに経済的な結果を産み出さない基礎理論に価値を置かないこの国の国ぶりは、にわか作りの木と紙の家を作るようにしてすぐにできるのだが、持続可能な共同体を産み出すことが苦手だ。持続可能な共同体を構築するには忍耐と努力と理性的な判断に基づくヴィジョンの共有が必要だが、そういうパブリックの構築ということについての経験も智慧もなおこの列島には蓄積されていない。
「百年河清を待つ」という諺があるが、政治家に何かを求めているうちは、この国はよくはならない。
今、政治も不在、官僚も右往左往し、なおかつ、日本は動いている。
つまり、政治家も官僚も、今のような人たちであれば不必要な上澄みに過ぎないということが顕在化している。
日本は彼らを必要としていないののである。
日本という国家を事実上動かしているのは、名もない庶民の日々の労働にほかならないからだ。
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