• このエントリーをはてなブックマークに追加

younghopeさん のコメント

生まれる前であり、見聞した姿はなく、忠実に歴史をたどるしかない。

1.日露戦争の講和を仲介したアメリカとのすれ違いが修正されることがなかった。
  南満州鉄道の共同経営を1億円の財政援助で持ち掛けられ、桂小太郎は歓迎するも、小村寿太郎は反対する。
  アメリカとの対立の起点となる。
2.大正11年、軍縮会議で中華民国への進出の抑制など日本の弱体化を狙った合意がされる。
  満州事件、盧溝橋事件など中国との武力衝突が顕在化する。
3.昭和14年 日米通商航海条約破棄を米国が通告
  ガソリン、鉄など戦争継続に必要な物資の輸出を禁じた。
4.昭和16年、南部仏印に進出し、アメリカと対立が強まる。
5.山本五十六の真意は不明であるが、ハワイを潰せば、本土は遠く、優位に展開するとみたのでしょう。
  映画の「ニイタカヤマノボレ208」の電文は心に響いている。

アメリカの戦術であるが,先制攻撃をすることなく、関係諸国との同意と経済封鎖などの制裁を軸に、「じわりじわりと追い込む戦術」は、中国にも共通する大陸大国の常とう手段であり、現在も北朝鮮に向けられているのは、注目すべきでしょう。日本の姿が北朝鮮はわかっているのであろうが、何らかの対話に応じていかなければ、追い込まれていくだけでしょう。江戸時代のような漁船の姿を見ると、すでに国家をまとめていく能力を失っているとみなすべきでしょう。
No.3
85ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
ジェフリー・レコード著『アメリカはいかにして日本を追い詰めたか』という本があります。米国陸軍戦略研究所( U.S.Army War Collage, Strategic Studies Institute )内のレポートの訳です。この本の評価は別として冒頭、米国陸軍戦略研究所所長グラス・ラブレースの言葉が記載されています。 ・日本が1941年に下した米国攻撃の決断は全く合理性に欠け、ほとんど自殺行為であったと考えられる。アメリカは日本の10倍の工業生産力を持っていた。もちろん日本がアメリカ本土を攻撃することは出来るものではない。そんな国と戦って日本は勝算があると考えたのだろうか。太平洋方面で我が国と戦えば負けることは解り切ったことだった。日本が我が国と戦うと決めた歴史的事実を一体どう説明したらよいであろうか。 ・ディーン・アチソンは1941年には国務次官補であり経済担当をしていた。
孫崎享のつぶやき
元外務省情報局長で、駐イラン大使などを務めた孫崎享氏。7月に発行された『戦後史の正体』は20万部を超えるベストセラー、ツイッターのフォロワーも13万人を突破。テレビや新聞が報じない問題を、日々つぶやいている孫崎氏。本ブロマガでは、日々発信。週1回別途生放送を発信。月額100円+税。【発行周期】日々。高い頻度で発行します。