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changeさん のコメント

「王政復古」の権力闘争の背景に武力があることを言わんとしているのでしょうか。

当事者であり、わかっていないはずがないのに、西郷の「得ざる時は之れあるのみ」と剣を示したそうであるという伝聞言葉に引っかかり、少し調べてみた。

「西郷から岩倉、岩倉から浅野、浅野から土佐藩の後藤象二郎に説得が重ねられ,豊信(容堂)は心折れ、王政復古を議定した」という表現は、権力闘争が武力の結果であることを強く暗示している。

一方、岩倉公実記の「豊信(容堂)猶ほ~決っせんのみ」の文章とほとんど同じであるが、浅野長勲自叙伝では、最初に武力誇示者西郷が加えられている。

このあたりの差異がどうして出たのか興味のあるところです。そのあたりの論考があると面白い。
No.1
67ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
徳川慶喜は大政奉還を行います。朝廷が主体の政治になることが確定しました。 そのあり様が検討されます。 新しい体制で、一番重要な点は、有力藩の藩主が入っていますが、徳川慶喜が入っていないことです。 十二月九日一八時頃から、御所内・小御所にて明治天皇臨席のもと、最初の三職会議が開かれます。 会議は冒頭、中山忠能より開会を宣し、を述べて曰く、  「徳川内府政権を奉還し、将軍職を辞するを以て、其の請を充し給う。因て王政の基礎を肇設し、萬世不抜の国是を建定し給はんとす。各皆聖旨を奉体し、以て公議を盡すべし」との勅旨を述べます。 ここで、山内容堂が、「『此の小会議に速やかに徳川内府を召して出席せしめ、朝議に参与せしむべし』と述べます。 ここから、徳川慶喜の出席を巡り激しい議論が起こります。 会議は紛糾し結論が出ません。一時休憩となります。 その模様を晩年後述した
孫崎享のつぶやき
元外務省情報局長で、駐イラン大使などを務めた孫崎享氏。7月に発行された『戦後史の正体』は20万部を超えるベストセラー、ツイッターのフォロワーも13万人を突破。テレビや新聞が報じない問題を、日々つぶやいている孫崎氏。本ブロマガでは、日々発信。週1回別途生放送を発信。月額100円+税。【発行周期】日々。高い頻度で発行します。