りゃんさん のコメント
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小泉八雲、 1850 年 - 1904 年(明治 37 年)、怪談 (kwaidan) 1904 年 - 耳なし芳一のはなし、むじな、ろくろ首、雪女、葬られた秘密、食人鬼、他で有名。
・日本の教育は、見かけは西洋風でありながら、外見とは全く反対の方式に行われている。その目的は、個人を独立独歩の行動を出来る様に鍛えるのではなく、個人を共同的行為にむくようにーつまり、厳しい社会機構の中に個人が妥当な位置を占めるのに適するようにー訓練を施すことであった。我々西洋人の間では、強要抑圧は子供時代に始まり、その後徐々に緩めめられる。この国での強要抑圧は、後になってから始められ、その後段々締めつけが強まってゆく。
・クラス生活の調整は、多数に対し一人が独裁力を振るうという事ではない。多数がひとりを支配していくというのが常道であり、-その支配力たりや実に強烈なものであるー意識的にしろ無意識的にしろ、クラス感
「話題は○○ですぞ」などと勝手にしきってきたり、
自分の意見と違う他人につきまとって、果ては場から追い出してしまうような
老人をみていると、ああなるほど、こういう老人がむかしはもっと
多かったんだろうな、それは伝統的な非個人主義的教育のせいなんだろうな、
と思われる。
自分や友人たちをかえりみると、ハーンの指摘はあんまりあてはまってないと
感じるが、しかし、諸外国(欧米だけでなくイスラムとか中国とかふくめ)からすると、
やはりまとめて日本人的なのだろう。
この状況は、わたしの予想では、日本への移民が決定的にかえてしまうとおもっている。
少子化を背景に相対的に日本人が少数化していく状況の中で、個人差はあろうが
それぞれの「普遍(たとえばアラー)」をせおってやってくる外国人たちと、
日々の些細な出来事(たとえばゴミ出し)で、おおげさにいえば闘争してゆかねばならない。「この場の話題は昔からのゴミ出しのしかたですぞ」などとしきろうにも、
アラーはゴミ出しについてこう決めている(かどうかしらないが、一応そうとして)
という「普遍」を持ち出されれば言い負ける。その結果、日本人自体がかわっていく。
米国の日系人が、顔は日本人に近くても、(わたしからみても)
価値観などがまったく異なる、それと同じことが日本でおこってゆく。
日本にいる日本人が「日系人化」する。
逆に考えると、「普遍」どうしが長く争っていたから、諸外国では人間が個人主義化
していったのだろう。争いあうような「普遍」がほんとうに普遍といえるのか、疑問はあるが。
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