小泉八雲、1850年- 1904年(明治37年)、怪談 (kwaidan) 1904年 - 耳なし芳一のはなし、むじな、ろくろ首、雪女、葬られた秘密、食人鬼、他で有名。
・日本の教育は、見かけは西洋風でありながら、外見とは全く反対の方式に行われている。その目的は、個人を独立独歩の行動を出来る様に鍛えるのではなく、個人を共同的行為にむくようにーつまり、厳しい社会機構の中に個人が妥当な位置を占めるのに適するようにー訓練を施すことであった。我々西洋人の間では、強要抑圧は子供時代に始まり、その後徐々に緩めめられる。この国での強要抑圧は、後になってから始められ、その後段々締めつけが強まってゆく。
・クラス生活の調整は、多数に対し一人が独裁力を振るうという事ではない。多数がひとりを支配していくというのが常道であり、-その支配力たりや実に強烈なものであるー意識的にしろ無意識的にしろ、クラス感
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小泉さんの日本観察は鋭いですね。今も全然変わっていない。
小泉さんの著作をもう一度読み直します。
この奴隷性は官僚に限らないですよ。日本人全体が古からそうだと思います。日本人はア・プリオリに全体主義ではないでしょうか。これは悪口じゃないですよ。己の存在をよく知ることは将来の危機管理、危険防止に役立つということです。
50人の臆病者と書かれましたが、単に臆病というより
立身出世主義の弊害でしょう。
50人に身をおいたほうが確実に出世します。
1人の方を選ぶと、それが50人くらいいると1人くらいが
歴史に名を残す英雄になりますが、残り49人は切ないことになります。
辞職してちゃんと食べていけるかも大いに問題です。
私は以前も言ったのですが、歴史を変えた英雄は
恵まれた家庭に育った正義感の強い秀才が多い。
豊かでない家庭に育った秀才は体制の中での立身を第一に考えて
50人の中に身を置く傾向にあります。
その中でのし上がる。
マーガレットサッチャーなどがその典型です。
自身の出身階級に対してきわめて冷淡な情けない奴に
なる傾向があります。
残念ながら。
孫崎さんは、戦前と現在の比較をしておられる。異論がないというより、現在の日本の現状に対して、寂しい気がしています。
孫崎さんも承知していると思うが、私は、戦後教育を受けており、新制度に代わってから10回目の卒業になる。孫崎さんは4年後の卒業で14回目ということになる。
私の卒業した高校は、自由主義を標榜しており、新制度になってから,校歌なども教師と生徒が一緒になって作っていったし、行事なども生徒の自主性に任されており、学校、教師が干渉することなどなかった。大学はどこも学生の意思が尊重された。
卒業後会社に入っても、新しいことに挑戦する人が求められた。1965~1975年は、新しい市場開拓新製品開発が一番大切なことであり、何か仕事をすれば、必ず成果がついてくるし、給料のアップが30%を超える年度もあり、上を見て仕事をするというより、目前にある仕事を処理していくのに、苦労した時代であった。振り込まれる給料がいくらなどということを確認したこともなかった。
潮目が大きく変わったのは、よく覚えていないが(調べればわかることであるが)、多分、バブル崩壊が端緒であったのではないか。入社してくる新人たちは、仕事を指図しなければ仕事をしない、指図待ち仕事待ちの人間ばかりになっていったと思う。自主性が消えていったのが、現在に続いている。
>>3
今日のテーマは小泉さんの当時の観察についてなんです。あなたはバブル崩壊後、指示待ち仕事待ち人間ばかりになったとおっしゃる。確かに私もそのように感じるのです。その現象には「彼が家族のものになり、集団のものになり、政府のものになっている」という八雲の観察に多くの共通性があるように思えるのです。あなたの意見はそういうことなんでしょうか?曖昧なのでお確かめしたいんです。いろいろいちゃもんつけてごめんなさいね。
>>4
いちゃもんではありません。その通りです。
折角新しい時代を創造しようと皆で頑張っていたが、管理教育だけでなく、管理野球、経営管理など管理が世の中でブームになり、体制管理につながっているとみているのです。
>>5
了解です。
ルールや常識さえ守っていれば、他人は他人、自分は自分、という状況に耐えられず、
「話題は○○ですぞ」などと勝手にしきってきたり、
自分の意見と違う他人につきまとって、果ては場から追い出してしまうような
老人をみていると、ああなるほど、こういう老人がむかしはもっと
多かったんだろうな、それは伝統的な非個人主義的教育のせいなんだろうな、
と思われる。
自分や友人たちをかえりみると、ハーンの指摘はあんまりあてはまってないと
感じるが、しかし、諸外国(欧米だけでなくイスラムとか中国とかふくめ)からすると、
やはりまとめて日本人的なのだろう。
この状況は、わたしの予想では、日本への移民が決定的にかえてしまうとおもっている。
少子化を背景に相対的に日本人が少数化していく状況の中で、個人差はあろうが
それぞれの「普遍(たとえばアラー)」をせおってやってくる外国人たちと、
日々の些細な出来事(たとえばゴミ出し)で、おおげさにいえば闘争してゆかねばならない。「この場の話題は昔からのゴミ出しのしかたですぞ」などとしきろうにも、
アラーはゴミ出しについてこう決めている(かどうかしらないが、一応そうとして)
という「普遍」を持ち出されれば言い負ける。その結果、日本人自体がかわっていく。
米国の日系人が、顔は日本人に近くても、(わたしからみても)
価値観などがまったく異なる、それと同じことが日本でおこってゆく。
日本にいる日本人が「日系人化」する。
逆に考えると、「普遍」どうしが長く争っていたから、諸外国では人間が個人主義化
していったのだろう。争いあうような「普遍」がほんとうに普遍といえるのか、疑問はあるが。