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changeさん のコメント

>>4
無知な教条主義者に何を言っても無駄であるが、明らかにされている事実を次に述べます。

ケベック協定
1943年8月ルーズベルト・チャーチルの米英首脳がカナダのケベック州で原爆の共同開発を密約
①兵器(原爆)を互いに対して攻撃するために使用しない
②第三国に使用する場合互いの同意が必要
③両国の同意がない限り、英米原爆開発計画「チューブ・アロイズ」に関する情報を流さないこと
* ②は事実上の英国拒否権

ハイドパーク協定
チャーチルが44年9月ルーズベルトの別荘で結んだ協定。「原爆が完成すればおそらく日本に使用される」と同意した。原爆完成後は、ドイツでなく日本に投下することで米英の密約が交わされた。

ポツダム会談(45年7月24日)
チャーチルは、ルーズベルトが急死したため、44年9月トルーマンに、前任者と密約を交わした「ハイドパーク協定」を持ち出し、「警告なしで使用すべきだ」とトルーマンに迫った。

投下命令
ポツダム会談の翌日、原爆投下指令を承認、投下命令が出され、一か月後の8月に広島・長崎に投下された。

孫崎先生の戦後史の正体はともかくとして、昨年この事実が明らかにされた以上、9月発売の日本国の正体には載せてほしいと思い、残念なこととコメントしたが、事実を追求される孫崎先生がご判断されることであって、外野が余分なことを言うべきではないでしょう。判断されるのは孫崎先生自身です。それが歴史を探求する一番大切なことではないか。あなたのように、自分が知らないこと、自分が知りたくないことに、眼、耳をふさぐことは正しい姿ではない。

No.8
62ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
「米国は原爆が何故を落としたか」は、現代史の大きいテーマ。犠牲者を如何に少なくする かが米側の意図。 トルーマンは一八八四年生まれ。一九四五年四月から一九五三年一月まで米国大統領。日本 と深く関わる。著書『トルーマン回顧録』(恒文社、一九六六年)からの引用。 ・この当時、私が考えていた事は、如何に早く太平洋戦争を片づけるかという事だった。 ・沖縄と硫黄島は敵の守備が厳しくて、我が将兵の損害も甚大だった。 本土に近づけば近づ くほど、ますます敵が死物狂いの抵抗 をすることを知っていた(中略)。大きな損害を出し ながら、我が軍が太平洋を進撃する時、ソ連の参戦を速めれば、幾十万、幾百万の米国人の 人命を救うことになると考えた(中略)。(ポツダム会議での)軍事顧問達はソ連が参戦する よう強硬に主張した。 ・原爆の第一回爆発を知らせる歴史的電報が七月一六日スティムソン陸軍長官から来た。 ・陸軍の計画では
孫崎享のつぶやき
元外務省情報局長で、駐イラン大使などを務めた孫崎享氏。7月に発行された『戦後史の正体』は20万部を超えるベストセラー、ツイッターのフォロワーも13万人を突破。テレビや新聞が報じない問題を、日々つぶやいている孫崎氏。本ブロマガでは、日々発信。週1回別途生放送を発信。月額100円+税。【発行周期】日々。高い頻度で発行します。