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原爆投下、トルーマン大統領は何を考えたか。日本国の正体(9月発売)に記載。本土決戦、 日本側死物狂いの抵抗。将軍は一九四六年末まで継戦、五十万の米兵の犠牲を報告。広島、 小倉、新潟、長崎に原爆投下の予定。落とす時の天候の都合で、後先のやりくりは裁量。
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原爆投下、トルーマン大統領は何を考えたか。日本国の正体(9月発売)に記載。本土決戦、 日本側死物狂いの抵抗。将軍は一九四六年末まで継戦、五十万の米兵の犠牲を報告。広島、 小倉、新潟、長崎に原爆投下の予定。落とす時の天候の都合で、後先のやりくりは裁量。

2019-08-07 07:42
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「米国は原爆が何故を落としたか」は、現代史の大きいテーマ。犠牲者を如何に少なくする

かが米側の意図。

トルーマンは一八八四年生まれ。一九四五年四月から一九五三年一月まで米国大統領。日本

と深く関わる。著書『トルーマン回顧録』(恒文社、一九六六年)からの引用。

・この当時、私が考えていた事は、如何に早く太平洋戦争を片づけるかという事だった。

・沖縄と硫黄島は敵の守備が厳しくて、我が将兵の損害も甚大だった。本土に近づけば近づ

くほど、ますます敵が死物狂いの抵抗をすることを知っていた(中略)。大きな損害を出し

ながら、我が軍が太平洋を進撃する時、ソ連の参戦を速めれば、幾十万、幾百万の米国人の

人命を救うことになると考えた(中略)。(ポツダム会議での)軍事顧問達はソ連が参戦する

よう強硬に主張した。

・原爆の第一回爆発を知らせる歴史的電報が七月一六日スティムソン陸軍長官から来た。

・陸軍の計画では

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トルーマンのこの回顧は自分の深刻な犯罪を隠す意図を以て書かれた小説風小文に見えて仕方ありません。何故なら、次のような米国側の事情が厳然とあるからです。

1.太平洋戦争の海軍のトップがニミッツ提督です。彼は真珠湾攻撃を避ける為に沈んでも良い使い物にならない艦船をパールハーバーにそのままにして残し、決定的に重要な空母を安全地帯に避難させてている。米が本格反撃に転ずれば、1943年末には日本を降伏させることが出来るという戦略をも併せ持って居た。言い換えれば、フィリッピン、沖縄はほっとけというもの。私はこれを桶狭間戦略と呼んでいる。朝鮮戦争の時のインチョン上陸も桶狭間戦略の一つだ。

2.一方、トルーマンは原爆を日本に落としたかった。原爆の完成はまだ先のことだった。従って、ニミッツの小投資額で大勝利を得る賢い戦略には合意しなかった。トルーマンにとって時間延ばしは不可欠。当然、マッカーサーのフィリッピン奪還作戦を採用し、多大な犠牲も辞せず、且つ沖縄の玉砕戦まで徹底的にやってのけた。米軍の死者の数は無視出来ないほど大きくなった。が、トルーマンは動じなかった。彼の頭は広島に原爆を落とすという悪魔の戦術に拘っていた。

3.なしさんがおっしゃったように日本兵は奴隷だったから、山中ゲリラで本土決戦はあり得なかっただろう。戦いが始まった途端に食糧は前線に運ばれ、銃後は飢餓状態になっていたからだ。更には日本人に15世紀のインカ帝国のインカ人と同じ心理があることを無視出来ないのだ。インカ人はスペイン人が略奪、支配にやってきたのに、馬に乗って銃撃つ姿を見て神の到来だと歓迎した。それと似て、マッカーサーが厚木に降りた時、日本人の99.99%が救世主到来と感じたのだ。今もそのように感じて居る人がこの板にもいるから間違いない。

一つだけ付け加えるが、岸信介氏も救世主到来を感じはしたが、インカ人の素朴な受け入れではなく中国大陸に向けての反攻を今度は星条旗の下でやりなおそうと思っていたことだ。それを保証するかのようにグッドバイジャパンと言って帰米した駐日米大使のグルー氏との再会が間近に迫っていたのだ。

No.1 64ヶ月前

前任者ルーズベルトの急死で、思いがけなく就任したばかりのトルーマン大統領は、原爆についての知識もないまま、投下の許可を与えてしまったと言われている。
トルーマン回顧録の記述は、その誤った判断をごまかすために書いたものと思われる。
当時の日本軍は、海上封鎖などにより石油も鉄鋼も入手不能であり、戦闘機や艦船はおろか、銃弾さえも作れなかった。
そのため、沖縄戦でも何の抵抗も受けずに上陸しているではないか。
日本軍が試みたのは、上陸用舟艇の船底に竹槍で穴を開けて沈没させようとしたが、分厚い鉄板に竹槍で穴が空くはずはなかった。

No.2 64ヶ月前

産経2018年8月9日はが報道したところによると、

英国が同意しなければ、米国が開発に成功しても、使用できない「ケベック協定」があり、英国チャーチル首相(当時)が、7月1日、原爆投下同意文書に著名した。

第2次大戦中の1945年7月英国のチャーチル首相(当時)が、米国による日本への原爆使用に最終同意して署名していたことが、英国国立公文書館所蔵の秘密文書で判明した。約1か月後の広島と長崎への原爆投下に至る意思決定にチャーチルが深くかかわっていた。

投下に至る決定手順が大切であり、本投稿に一切触れていないのは、残念です。

No.3 64ヶ月前

>>3
別にチャーチルが原爆投下に深く関わったとは思いませんが、どのように深く関わったんでしょう?教えて下さい。

私にはどうみてもマンハッタン計画を英米共同で進めるにあたっての合意書を作り、お互いが爆弾を落とすとき他方の事前承認を取るという決め事もあって、チャーチルは形式上の義務を果たしたとしか思えません。仮にチャーチルが反対してもトルーマンは落としたですよ。トルーマンの戦争は日本陥落では終わって無く、広島、長崎の原爆でソ連を脅威に落とし込み、世界支配の為に彼の頭はこの脅威を利してソ連をどう料理するかでいっぱいだったのですから。繰り返し言います。チャーチルが絡んだ決定手順は単なる形式ですよ。

No.4 64ヶ月前

これはイデオロギーではなく、知識的な問題なので、横からコメント失礼します。
日本への原爆投下についての英国の関与については、changeさんがお答えになるでしょうが、もう少し視野を広げて、第二次大戦期から戦後しばらくまで(いまも?)の英国(あるいは英国と深い関係のある金融資本)の日本や東アジアへの関与については、慎重に見なければならないとおもっています。

英国は欧州においては大戦の主役で、米国を参戦させる画策をした張本人であり、一方アジアでは当時はまだ植民地帝国でそれこそ今話題の香港などもあったわけですが、ここで例に出したいのは朝鮮戦争のことです。

朝鮮戦争では英国はたしか800人あまりの死者数で、米国よりははるかに少ないですが、戦争に積極的に参加しています。マッカーサーが満州の中国軍に原爆を投下しようとしたときには、日本の時とは逆に拒否権を発動したのは有名なはなしですが、そのほかにもマッカーサー回顧録には、
「中共軍が大挙して鴨緑江を渡っても、満州内部の補給線を爆撃される心配はないということを、中共軍は明らかに知っていた」「ワシントンでは、外国、特に英国の影響力が非常に強く働いている。共産勢力に対する攻勢を強化することにあまり関心がない」「日本を相手にした時には、蒋介石と手を握ることに反対しなかった連中が、なぜ共産主義勢力を相手にした時にはそれを嫌がるのかは、ついに明かされなかった」
というような記述があり(これはいま回顧録が手元にないので、ネットからのコピペですので正確ではないかもしれませんが、とにかくそうしたふうな記述があるわけです)、英国のふるまいについては、マッカーサーにとってすらなにか不透明なものが当時あり、われわれにとってはいまもまだあるのです。

馬淵睦夫はそこらへんから、実は北朝鮮も共産中国も、いやそもそもがロシア革命も、ディープステイト(その前身もふくめ)がつくったのだというような話を繰り広げているとおもいますが、そこまではともかく、わたしが申し上げたいのは、当時の日本や東アジアへの「英国」の影響、あるいは英米関係といったものについては、慎重に考えていかなければならないのではないか、ということです。現在のわれわれは、つい、米国だけ考えがちですが。

No.5 64ヶ月前

>>5
いろいろ知ったかぶりして、文章創ったという感じしか与えないですけど。

韓流ドラマで出て来る駆け出しの女性刑事が解剖する前にいろいろ感想を述べる。そのとき解剖医が「小説を書くな」と一言いう。その一言が貴兄の文章にふさわしい。

CHANGEさんはなじかはしらねど孫崎先生が嫌いらしい。だって自らを天の邪鬼だと自己紹介して居る訳です。CHANGEさんは孫崎先生が言わんすることに対して「横を向く」か「論点を代えて別のことを言いだす」のが通例です。今回のコメントは横を向いた単なる嫌がらせです。

貴兄のコメントは残念ながら私には街宣車のそれみたいに聞こえます。いやそうじゃない。小説だから街宣車のそれに比べてレベルが低い訳は無い。という風に感じてますが、恐らく貴兄は若いらしいから「糞くらえ」言うのかな。

No.6 64ヶ月前

意図がうまく伝わらなかったと少し反省しています。馬淵睦夫をだしたのは、はずみであり、私が彼に同意しているわけではありません。ただ、どう呼ぶかはともかく、戦後の筋書きを書いたヒトビトのことについて、馬淵睦夫のように考える人もいるということです。それを小説と呼んでも、あなたの考えが真実であることの証明にはなりません。

わたしが言いたいことのメインは、当時の情勢を総合的に考えると、英国が日本への原爆投下の決定に深く関わっていたとおもうのはむしろ自然であり、「チャーチルは形式上の義務を果たした」だけ、という意見をアタマからあやまりだと言うつもりはありませんが、それを主張するなら、それなりの根拠を示さないといけませんよ、ということです。あなたはトルーマンの世界支配云々を根拠だと思ってるようですが、それはまた別の根拠によって証明されなければならないことであり、直接の根拠になりません。

No.7 64ヶ月前

>>4
無知な教条主義者に何を言っても無駄であるが、明らかにされている事実を次に述べます。

ケベック協定
1943年8月ルーズベルト・チャーチルの米英首脳がカナダのケベック州で原爆の共同開発を密約
①兵器(原爆)を互いに対して攻撃するために使用しない
②第三国に使用する場合互いの同意が必要
③両国の同意がない限り、英米原爆開発計画「チューブ・アロイズ」に関する情報を流さないこと
* ②は事実上の英国拒否権

ハイドパーク協定
チャーチルが44年9月ルーズベルトの別荘で結んだ協定。「原爆が完成すればおそらく日本に使用される」と同意した。原爆完成後は、ドイツでなく日本に投下することで米英の密約が交わされた。

ポツダム会談(45年7月24日)
チャーチルは、ルーズベルトが急死したため、44年9月トルーマンに、前任者と密約を交わした「ハイドパーク協定」を持ち出し、「警告なしで使用すべきだ」とトルーマンに迫った。

投下命令
ポツダム会談の翌日、原爆投下指令を承認、投下命令が出され、一か月後の8月に広島・長崎に投下された。

孫崎先生の戦後史の正体はともかくとして、昨年この事実が明らかにされた以上、9月発売の日本国の正体には載せてほしいと思い、残念なこととコメントしたが、事実を追求される孫崎先生がご判断されることであって、外野が余分なことを言うべきではないでしょう。判断されるのは孫崎先生自身です。それが歴史を探求する一番大切なことではないか。あなたのように、自分が知らないこと、自分が知りたくないことに、眼、耳をふさぐことは正しい姿ではない。

No.8 64ヶ月前
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