changeさん のコメント
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新宿通り、麹町一丁目交差点に茶道具舗がある。ショーウインドーに茶碗が飾ってある。信号待ちの時に、時に覗き込む。店の中とは遮断されているのでお店の人と顔を合わせることもない。三輪休雪18万円のように高価なものや、数千円の物もある。とうとう、安めの茶碗を買って、毎日、普通のお茶を飲んでいる。
お茶を飲んでいた時、ふと元駐日イラン大使の言葉を思い出した。
「日本人とイラン人は似てます。日本はお茶の儀式で素晴らしいお茶碗を使う。水やお茶を飲むのに芸術性のある椀は別に必要ない。ガラスでいいじゃないですか。量産の茶碗でいいじゃないですか。でもお茶を飲むという日常の行動の中に芸術が入っている。これが日本でしょう。イランの絨毯も同じです。床や地面に敷くのにゴザのようなものでいい。しかしここに最も手の込んだ絨毯を敷く。日々の生活の中に芸術が入っているのです」
イラン人と日本人は美を愛でるという点では同じ
失礼を承知の上で申し上げると、外務官僚の時代の方が自由な発想をされていたのではないか。最近とみに使命感みたいなものに突き動かされているような気がいたします。
私は、ものの見方の大きな区分けとして、
①自然法爾なありかた 人間の差別感を離れた無分別の無分別。あえて言うなら、人知を超えた造物主の作られたもの。
②日本庭園のように、無分別の分別・分別の無分別。作り出されたものに人々が感嘆する。
③西洋式庭園のように分別の分別。美しいが美しいだけで、心を打つ度合いが小さい。
日本人の霊的特性を持った、お金だけでは動かない人が為政者の中にいて、政治に清涼感を感じたが、最近とみに、「物」「金」が中心になり、心が単なる情緒に落ち込んだ日本に寂しさを感じています。
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