p_fさん のコメント
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「音楽とは何か」。ショパンはこれに答えている。「ショパンが死亡する前の1949年
5月、結核の末期に入っていたショパンは、すでに作曲もできなくなり、階段も一人では降りなくなるほど衰弱していました(中略)。彼はピアノとは、そして音楽とは何なのかということを、はっきり言葉にしておきたいと考えたのです」「“音楽とはなにか”という本質についてまとめようとしています。
音によって表現される芸術は、音楽と呼ばれる。音によって思想を表現する芸術。音を操作する術。音によって表現された思想。音による我々の知覚の表現。音による思想の表現。音による我々の感情の表出。人間の定かならぬ(模糊たる)言葉、それが音である。定かならぬ言葉、(つまり)音楽。言葉は音から生じたー言葉以前の音。言葉、(つまり)ある種の音の変容。話すのに言葉を用いるように、音楽を奏でるには音を用いるのである」
以上は、 崔善愛著『ショパン』に引用
音楽への持論は立派でも出す音は まるでツマラナイ音楽家も多い中、ショパンは思想、作曲、演奏、三拍子揃った稀有な天才だったと改めて思う。
> だが世界を見渡すと、しばしば思想が前面に出てくる。
ホンモノであれば、この「個人的」思想は自ずと反体制の趣きが出る。
南アやラ米 取材で知られるジャーナリスト・伊高浩昭氏は、「文化というのは、こよなく左翼的だ。体制側の文化など、本当にツマラナイ」と言っていたが、その通りと思う。
音楽に限らずホンモノは反体制と見做される作品を出すが、当然、体制側から圧力を受ける。場合によっては殺される。小林多喜二、ガルシア・ロルカ、ビクトル・ハラ...皆殺された。
ブラジルも80年代の軍政時、亡命を余儀なくされた大衆音楽系アーティストが少なくない。当時 暗喩の軍政批判歌で「希望という名の綱渡り芸人は どんなアーティストのショーも 途中で止めるわけにはいかないことを知っている」と書いた詩人もいた。
> 多分、日本の音楽家で「思想」を強調する人はそういない。
本当に滅多にいない。「思想」強調しようとすると体制側に排除されるからだ。これが第一段階。
それでも「そう発するのを『止めるわけにはいかないことを知っている』のがアーティストだ!」というタイプが頑張るが、日本の大衆は累が及ぶのを恐れて これを支持せず、孤立無援で消えるのが第二段階。まさに「臆病ものが五十人いる」状態。
そうして、もはや「思想」強調を止めるわけにはいかないことすら知らないクズ、カス アーティストが蔓延るだけの最終段階に至ったのだ。
>「痛みを共有できる」、それは人間の貴重な資質の一つでないか。
共有範囲を何処まで広げられるか。それが余りにも狭い連中によって、日常社会でも国家レベルでも悲劇が繰返されていると思う。
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