「音楽とは何か」。ショパンはこれに答えている。「ショパンが死亡する前の1949年
5月、結核の末期に入っていたショパンは、すでに作曲もできなくなり、階段も一人では降りなくなるほど衰弱していました(中略)。彼はピアノとは、そして音楽とは何なのかということを、はっきり言葉にしておきたいと考えたのです」「“音楽とはなにか”という本質についてまとめようとしています。
音によって表現される芸術は、音楽と呼ばれる。音によって思想を表現する芸術。音を操作する術。音によって表現された思想。音による我々の知覚の表現。音による思想の表現。音による我々の感情の表出。人間の定かならぬ(模糊たる)言葉、それが音である。定かならぬ言葉、(つまり)音楽。言葉は音から生じたー言葉以前の音。言葉、(つまり)ある種の音の変容。話すのに言葉を用いるように、音楽を奏でるには音を用いるのである」
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>>8
私には、韓国と仲良くなっては困るというように聞こえます。
内政干渉に類するものではありませんか。
>>9
ほほー。内政干渉と絡めますか?なるほど、自民党系はそういう風に捉えるんですね。これは私には発見です。
ネオナチも歴史修正が問題で、内政干渉だから、と言う風に考える人はいませんよ。歴史修正は内政を飛び越えて国際的に論じられるテーマですよ。
>>10
歴史問題としてとらえているわけではありません。そのようなわだかまりを乗り越えていこうということです。
理論的に決着をつけてから進めるというのでは何事も進みません。あなたにいっても理解できないかな。
>>11
この問題は曖昧は許されません。曖昧な日本は政治の場では朝鮮半島に限れば受け入れられること難しい。
そういうのを許すのは中國では無いでしょうか。あなたが嫌う中国ですよ。最近、現代中国は日本の靖国も趙克しているようです。
貴殿はそういうポスト社会主義の中國を敵視してはいけませんよ。中国程、曖昧、右系右翼でも矢を向けない限り包容する国はありません。米国が発明した新自由主義と米国が惚れ込む市場経済をも完全に内部化してます。
安倍でも菅でも誰でも強く握手して交際しますよ。米国みたいに日本の総裁人事にまで口を挟むことはありませんよ。
崔善愛著「ショパン」のご紹介を有難うございます。先日の「チェーホフ全集5 小説 1886」同様に読んでみたくなりました。
音楽への持論は立派でも出す音は まるでツマラナイ音楽家も多い中、ショパンは思想、作曲、演奏、三拍子揃った稀有な天才だったと改めて思う。
> だが世界を見渡すと、しばしば思想が前面に出てくる。
ホンモノであれば、この「個人的」思想は自ずと反体制の趣きが出る。
南アやラ米 取材で知られるジャーナリスト・伊高浩昭氏は、「文化というのは、こよなく左翼的だ。体制側の文化など、本当にツマラナイ」と言っていたが、その通りと思う。
音楽に限らずホンモノは反体制と見做される作品を出すが、当然、体制側から圧力を受ける。場合によっては殺される。小林多喜二、ガルシア・ロルカ、ビクトル・ハラ...皆殺された。
ブラジルも80年代の軍政時、亡命を余儀なくされた大衆音楽系アーティストが少なくない。当時 暗喩の軍政批判歌で「希望という名の綱渡り芸人は どんなアーティストのショーも 途中で止めるわけにはいかないことを知っている」と書いた詩人もいた。
> 多分、日本の音楽家で「思想」を強調する人はそういない。
本当に滅多にいない。「思想」強調しようとすると体制側に排除されるからだ。これが第一段階。
それでも「そう発するのを『止めるわけにはいかないことを知っている』のがアーティストだ!」というタイプが頑張るが、日本の大衆は累が及ぶのを恐れて これを支持せず、孤立無援で消えるのが第二段階。まさに「臆病ものが五十人いる」状態。
そうして、もはや「思想」強調を止めるわけにはいかないことすら知らないクズ、カス アーティストが蔓延るだけの最終段階に至ったのだ。
>「痛みを共有できる」、それは人間の貴重な資質の一つでないか。
共有範囲を何処まで広げられるか。それが余りにも狭い連中によって、日常社会でも国家レベルでも悲劇が繰返されていると思う。
> 歌手となれば...等多くの人がいる。
体制権力と闘い続けたナイジェリアの大衆音楽家、フェラ・クティもその一人。
「ゾンビ」(1975)から-
ゾンビだ、ゾンビ
行けと言うまでゾンビは行かない
止まれと言うまでゾンビは止まらない
回れと言うまでゾンビは向きを変えない
考えろと言うまでゾンビは考えない
ゾンビだ、ゾンビ
まっすぐ進め
休憩なし、仕事なし、感覚なし
殺してこい
休憩なし、仕事なし、感覚なし
鎮圧してこい
休憩なし、仕事なし、感覚なし
殺してこい
死んでこい
鎮圧してこい
玉砕せよ
・
・
・
ナイジェリア軍を直接批判した曲。命令に盲従する、思考力の停止した だらしない兵士をゾンビに喩えている。だが、こんな風にコケにされた兵士達にフェラ・クティは襲撃されてしまう。(ライナーノーツ)
>>15
ゾンビの歌、心に沁みて来ます。
>>5
なるほど、確かにそうですね。
音楽を祈りとしてとらえたコメントがないので一言。
祭事の祈りが、キリスト経典・イスラム経典・仏教経典の言葉を何度も何度も繰り返し唱えているうちに、だんだん歌のようになって聞こえてくる。
キリスト教の場合、ローマ・カトリック教会に期限を求められる。具体的に、バッハの「主に向かって新しき歌を歌え」とかモーツァルトの「踊れ、喜べ、幸いなる魂よ」などの宗教音楽がある。
仏教経典を多くの僧が唱える光景は、荘厳でなんとも言えない気持ちになる。
イスラム経典の読誦風景も心洗われ、すがすがしい気持ちになる。
音楽は、人間が生きていくときなくてはならないものではないか。ショパンのピアノ曲によって、くじけそうな時励まされ気持ちを新たにして生きてこられたのでしょう。
今回の孫崎さんの文章からは、崔善愛という人は、「自分の音楽と自分の政治活動をどう説明するか」というテーマを一生懸命考えて、優等生的な結論を得たという感じを受ける。どこかで聞いた、誰かに影響を受けてる、ありふれてる結論だけど、まあ無難だよね、という感想だ。
崔善愛の音楽観を広く「自分の個性や思想の発揮」と考えれば、そういう音楽観が根付いてくるのは、西欧でもルネサンスのころから前史がはじまり、ようやくベートーベンとかショパンのころから確立するわけで、つまりは近代というものと結びついている。孫崎さんがあげているのも、ほぼ現代の音楽家たちである。
つまり、崔善愛の音楽観は近代と結びついている。そしてその同じ近代が主権国家で成り立ち、国籍の区別を厳密におこなうことで安定していて、そのなかで音楽活動をして収益もあげているわけである。まあ、崔善愛という人がそこまでは考えが至らなくてもしかたないとはおもう。
以上が今回言いたいことのメインだが、付け加えると、
近代以前は、民衆の祭りなどで素朴なものはあっただろうが、洗練されたものは神仏への賛美や祈りだとか王侯貴族の行事や慰安と結びついていた。そこでは典型的には音楽家は職人であり、「自分の個性や思想の発揮」などは考えなかっただろう。
ここで重要なのは、「自分の個性や思想の発揮」という音楽観があるから音楽も立派だ、とはならないことだ。音楽家個人やそのファンがそう感じるのはもちろん自由だが、客観的に見て、近代以降の「自分の個性や思想の発揮」の結果、ダメな音楽や、音楽に限らずダメな芸術一般の死屍累々はやまほどあるのじゃないかとおもう。
近代以前の音楽職人の世界では、そもそもある程度の才能があるとおもわれるものが選抜され、お手本にしたがって修行をし、まれに天才が出るが、多くは平凡で、平凡なりにまあまあの成果をあげる。少なくとも死屍累々にはならない。平凡がまあまあの成果をあげうるのは、お手本があったり型が決まったりしているからで、「自分の個性や思想の発揮」とは逆のベクトルだ。
現代でも、たとえばモランボン楽団というのがあって、DVDしかみたことはないが、あれはあれで質が高く、ある種の感動もあり、もっと知りたいという印象を個人的には受ける。しかし、もちろん想像だが、モランボン楽団のひとたちは、崔善愛のような、つまり「自分の個性や思想の発揮」という方向の音楽観は持っていないはずだ。