りゃんさん のコメント
このコメントは以下の記事についています
「音楽とは何か」。ショパンはこれに答えている。「ショパンが死亡する前の1949年
5月、結核の末期に入っていたショパンは、すでに作曲もできなくなり、階段も一人では降りなくなるほど衰弱していました(中略)。彼はピアノとは、そして音楽とは何なのかということを、はっきり言葉にしておきたいと考えたのです」「“音楽とはなにか”という本質についてまとめようとしています。
音によって表現される芸術は、音楽と呼ばれる。音によって思想を表現する芸術。音を操作する術。音によって表現された思想。音による我々の知覚の表現。音による思想の表現。音による我々の感情の表出。人間の定かならぬ(模糊たる)言葉、それが音である。定かならぬ言葉、(つまり)音楽。言葉は音から生じたー言葉以前の音。言葉、(つまり)ある種の音の変容。話すのに言葉を用いるように、音楽を奏でるには音を用いるのである」
以上は、 崔善愛著『ショパン』に引用
崔善愛の音楽観を広く「自分の個性や思想の発揮」と考えれば、そういう音楽観が根付いてくるのは、西欧でもルネサンスのころから前史がはじまり、ようやくベートーベンとかショパンのころから確立するわけで、つまりは近代というものと結びついている。孫崎さんがあげているのも、ほぼ現代の音楽家たちである。
つまり、崔善愛の音楽観は近代と結びついている。そしてその同じ近代が主権国家で成り立ち、国籍の区別を厳密におこなうことで安定していて、そのなかで音楽活動をして収益もあげているわけである。まあ、崔善愛という人がそこまでは考えが至らなくてもしかたないとはおもう。
以上が今回言いたいことのメインだが、付け加えると、
近代以前は、民衆の祭りなどで素朴なものはあっただろうが、洗練されたものは神仏への賛美や祈りだとか王侯貴族の行事や慰安と結びついていた。そこでは典型的には音楽家は職人であり、「自分の個性や思想の発揮」などは考えなかっただろう。
ここで重要なのは、「自分の個性や思想の発揮」という音楽観があるから音楽も立派だ、とはならないことだ。音楽家個人やそのファンがそう感じるのはもちろん自由だが、客観的に見て、近代以降の「自分の個性や思想の発揮」の結果、ダメな音楽や、音楽に限らずダメな芸術一般の死屍累々はやまほどあるのじゃないかとおもう。
近代以前の音楽職人の世界では、そもそもある程度の才能があるとおもわれるものが選抜され、お手本にしたがって修行をし、まれに天才が出るが、多くは平凡で、平凡なりにまあまあの成果をあげる。少なくとも死屍累々にはならない。平凡がまあまあの成果をあげうるのは、お手本があったり型が決まったりしているからで、「自分の個性や思想の発揮」とは逆のベクトルだ。
現代でも、たとえばモランボン楽団というのがあって、DVDしかみたことはないが、あれはあれで質が高く、ある種の感動もあり、もっと知りたいという印象を個人的には受ける。しかし、もちろん想像だが、モランボン楽団のひとたちは、崔善愛のような、つまり「自分の個性や思想の発揮」という方向の音楽観は持っていないはずだ。
Post