なしさん のコメント
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「音楽とは何か」。ショパンはこれに答えている。「ショパンが死亡する前の1949年
5月、結核の末期に入っていたショパンは、すでに作曲もできなくなり、階段も一人では降りなくなるほど衰弱していました(中略)。彼はピアノとは、そして音楽とは何なのかということを、はっきり言葉にしておきたいと考えたのです」「“音楽とはなにか”という本質についてまとめようとしています。
音によって表現される芸術は、音楽と呼ばれる。音によって思想を表現する芸術。音を操作する術。音によって表現された思想。音による我々の知覚の表現。音による思想の表現。音による我々の感情の表出。人間の定かならぬ(模糊たる)言葉、それが音である。定かならぬ言葉、(つまり)音楽。言葉は音から生じたー言葉以前の音。言葉、(つまり)ある種の音の変容。話すのに言葉を用いるように、音楽を奏でるには音を用いるのである」
以上は、 崔善愛著『ショパン』に引用
わたしは実は音楽とは楽譜に書かれている音符や休符、それに
作曲者が書いた速度などの演奏上の指示がその音楽のすべて
ではないかと考える人間です。
作曲者がどんな思いで作曲したのか演奏者は考える必要はないと。
チェソンエさんの父君とは考えが違いますね。
ベートーベンの田園やビバルディの四季は違いますよ。
あれは標題音楽、描写音楽ですから。
昔、ショスタコビッチの周辺の人がショスタコビッチの捜索活動が
いかにソ連指導部からの制約のもとにあったかを暴いた本を
書きました。
それに対してある評論家が、ショスタコビッチの音楽への見方が
大きく変わった。
彼の音楽へのこれまでの敬意はもう持てないと書きました。
わたしはもともとショスタコビッチの熱心な聞き手ではありませんで
したが、それは違うだろうと思ったものです。
ショスタコビッチの値打ちを評価するのは彼の残した楽譜であるべき、と。
モーツァルトという大天才がいました。
よく知られていますが、彼はいい加減な人間でした。
女が大好き、カネが大好き、ばか騒ぎが大好き。
そのモーツァルトが後期三大交響曲というのを残しました。
第39,40,41番の交響曲でした。
大傑作です。
とりわけ40番の美しさは比類がない。
モーツァルトはどんな動機でこの3曲を書いたか。
カネにつまり、とにかくカネがほしかった。
出版社に売るために数週間のやっつけ仕事をしました。
交響曲です、それも3曲。
ろくな推敲もせず、ほとんど一筆書きです。
それでも大傑作。
音楽は楽譜がすべてでその背後の思想など必要ない。
そもそもそれの信憑性がどれだけ担保されるのか。
ショスタコビッチの息子が西側の読者のウケ狙いで
少し事実をゆがめた可能性は?
やはり音楽は楽譜がすべて。
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