りゃんさん のコメント
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・多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。 ・多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしい。民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一
この引用文のもとの文章(原文ということにする)は青空文庫で無料で読めて、それを読むと、伊丹の言いたかった趣旨がよくわかる。原文は短いので今すぐあっという間に読めるはずだが、簡単にわたしなりに要約的なことを書いておくと、
伊丹のもとに、「自由映画人連盟」なる人たちが映画界の戦争責任者を指摘し、その追放を主張しているという知らせが届く。伊丹は、形式上その「自由映画人連盟」に名前を連ねていたのだ。これに対して伊丹は、だます、だまされるについての議論を展開(その議論の一部が今回の孫崎さんに引用されている)するのだが、議論の到達点は、「まず自己反省の方面に思考を奪われることが急であつて、だました側の責任を追求する仕事には必ずしも同様の興味が持てない」であった。そして、「自由映画人連盟」そのものからも除名を申し出た。
以上である。当時も、誰が悪い、何が悪いと追求するヒトビトは、今と同じく多かったのだろう。伊丹はそれとは真逆のことを考えている。
原文を味読すべし。わたしは、伊丹の原文は、「よく事情も知らずにに断定するくせがあり、つねに自動的に自分以外のだれかを責める傾向のある独善的なヒトビトへの、猛烈な皮肉」になっていると感じる。
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