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p_fさん のコメント

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p_f
「太郎を呼べば~」は過去記事に数回挙がっていたが、全てすっかり忘れている。

> どれだけの子供が意図を読んでくれるのか。

私も背景説明なしでは解らなかった。連れの花子は捻くれ者なのだろう くらいに思ってしまった。
一方、人生で「何を求めるか」は明確かと訊かれ、30そこそこの孫崎さんが まだ明確でない旨答えたエピソードの記憶があるが、何処にも見つからない。相手は訪露中の有名日本人女性だったが、誰かも思い出せない。そこでは「今は『何を求めるか』は明確だ」と結ばれていたと思う。

> 「何を求めるか」の何は、通常容易に手に入るものではない。

私も明確にできなかった一人ながら、ご指摘のように「明確にするのを恐れる」のとは違うのでないか。
ベクトルが定まらない理由として、単にグズな性格、怠け者だからというのもアリだと思う。そんな者達をそのまま周囲に流されるままにしておこう というのが日本の教育、社会環境の主流でもある。
だからこそ それに抗い切った孫崎さんが光るのである。
No.2
51ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
日本の詩歌は、万葉集を除いて、喜怒哀楽を直截的に表現しないことを良しとする。 「古今集」では失恋をうたったとみられるものも、「風吹けば 峰にわかるる 白雲や たえてつれなき 君が心か」(壬生忠岑)や「色みえで うつろうものは 世の中の 人の心の花にぞあらぬ」(小野小町)等優雅に歌ったものは幾つもある。こうした伝統は和歌や俳句にも引き継がれてきた。 芭蕉にしても、寂しさを「うき我を 寂しがらせよ かんこ鳥」「この道や 行く人なしに 秋の暮れ」と読んでいる。芭蕉の句で、我々が一見壮大な風景描写と思う「荒海や 佐渡に横とう 天の川」には奥に秘められたものは深い。芭蕉自身、「打ち寄せる波の音がしばしば響いてきて、胸が締め付けられるようで、無性に悲しみがこみ上げてくるのでなかなか寝付けなかった。そこで詠んだのが「荒海や佐渡に横とう天の川」」と記している。多分、佐渡島が島流しの場であったことに思いをは
孫崎享のつぶやき
元外務省情報局長で、駐イラン大使などを務めた孫崎享氏。7月に発行された『戦後史の正体』は20万部を超えるベストセラー、ツイッターのフォロワーも13万人を突破。テレビや新聞が報じない問題を、日々つぶやいている孫崎氏。本ブロマガでは、日々発信。週1回別途生放送を発信。月額100円+税。【発行周期】日々。高い頻度で発行します。