日本の詩歌は、万葉集を除いて、喜怒哀楽を直截的に表現しないことを良しとする。
「古今集」では失恋をうたったとみられるものも、「風吹けば 峰にわかるる 白雲や たえてつれなき 君が心か」(壬生忠岑)や「色みえで うつろうものは 世の中の 人の心の花にぞあらぬ」(小野小町)等優雅に歌ったものは幾つもある。こうした伝統は和歌や俳句にも引き継がれてきた。
芭蕉にしても、寂しさを「うき我を 寂しがらせよ かんこ鳥」「この道や 行く人なしに 秋の暮れ」と読んでいる。芭蕉の句で、我々が一見壮大な風景描写と思う「荒海や 佐渡に横とう 天の川」には奥に秘められたものは深い。芭蕉自身、「打ち寄せる波の音がしばしば響いてきて、胸が締め付けられるようで、無性に悲しみがこみ上げてくるのでなかなか寝付けなかった。そこで詠んだのが「荒海や佐渡に横とう天の川」」と記している。多分、佐渡島が島流しの場であったことに思いをは
コメント
コメントを書く時実新子さんが、祖母から口移しとして聞いた言葉が、「太郎を呼べば太郎が来る。花子は来ない」であり、太郎は幸せの代名詞といっている。
孫崎さんは、「何を求めるかが大切であり、こどもたちには、できるだけ自分の目標を鮮明にしてほしい」といったが、受け取った先生も一瞬、きょとんとしていた。
どのように受け取るべきか。現実は九郎(苦労)の連続であり、その苦労からどのように、脱出(脱皮)するかが、人生における最重要なことであることは間違いない。
やはり何事も「執着「」が一番いけないのでしょう。とらわれてしまう・こだわれば深みに入り出られなくなってしまう。こんな時には、新しい見方・考え方に転換しなければ活路が見いだされない。「花子」は来ないといえる。
「米国の安全保障」と「中国との商売」の選択にもつながるのでしょう。基軸が明確なのに、商売に執着すると、目標が不明確になり、漂流を続けることになる。
「太郎を呼べば~」は過去記事に数回挙がっていたが、全てすっかり忘れている。
> どれだけの子供が意図を読んでくれるのか。
私も背景説明なしでは解らなかった。連れの花子は捻くれ者なのだろう くらいに思ってしまった。
一方、人生で「何を求めるか」は明確かと訊かれ、30そこそこの孫崎さんが まだ明確でない旨答えたエピソードの記憶があるが、何処にも見つからない。相手は訪露中の有名日本人女性だったが、誰かも思い出せない。そこでは「今は『何を求めるか』は明確だ」と結ばれていたと思う。
> 「何を求めるか」の何は、通常容易に手に入るものではない。
私も明確にできなかった一人ながら、ご指摘のように「明確にするのを恐れる」のとは違うのでないか。
ベクトルが定まらない理由として、単にグズな性格、怠け者だからというのもアリだと思う。そんな者達をそのまま周囲に流されるままにしておこう というのが日本の教育、社会環境の主流でもある。
だからこそ それに抗い切った孫崎さんが光るのである。