フレデイ タンさん のコメント
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A-1 ロイター「街角景気、 11 月は感染再拡大で 3 月以来の悪化 先行きも低下 ( 12 月 8 日) ・内閣府がタクシー運転手など街角の景況感を調査して指数化している景気ウオッチャー調査は、8日公表された11月の 現状判断DI(指数)が前月比8.9ポイント悪化して45.6となった。マイナスは3月以来。先行き判断DIも同12.6ポイント悪化して36.5となった。景況感の良し悪しの分岐点となる50をともに下回った。 ・10月は観光促進策GoToトラベルの影響で指数は上昇していたが、新型コロナウイルスの感染再拡大でその効果が剥落した。飲食やサービス関連業界の景況感が大幅に悪化したが、製造業も悪化している。 ・現状判断DIは新型コロナ感染症が急拡大した3月に急落した後、経済活動の回復に伴って上昇基調が続き、10月は54.5まで回復していた。 ・11月の調査期間は11月25━30日。対象は全国2050人。家計関連では飲
お尋ねですので、さわりの部分を書きます。
防空壕なんですが、普通の家は大体土間(キッチンと物置を兼ねる)が在って、その土間には穴が掘られていて、2,3人が潜めるようになっていました。爆撃がひどくなって火事が発生するようになると土間の防空壕から飛び出して戦場化した地域をひたすらかけて大規模な防空壕に避難するのです。その防空壕は小さな丘の土手に横穴式(高さ2m、幅2m)に掘られていました。
空襲警報のサイレンがその避難行動の為の唯一のサインでして、それに基づいて、防空壕に入り、空襲警報解除のサイレンがなって初めて、安心して防空壕から出る、と言う具合です。空襲を知らせるラジオ放送もありましたが、全くあてに出来ませんでした。「、、、上空通過中」(私たちの町から100キロ離れた海域)とラジオはヒステリックに叫んでいたが、その時には私たちの町は既に猛烈な爆弾攻撃に遭っていたんです。1945年6月から8月中旬まで、私たちの町は戦略物資の生産基地でしたからか(大人たちがそう呟いていました)、殆ど毎日爆撃されていたというのが実感です。
余談ですが、私ら子供にとってはマッカーサーは神でしたね。進駐軍は解放軍そのもでした。日本列島は全て解放区なんです。三島由紀夫は屈折して受け止めていたようですが、恐らく、松本清張は私らと同じく解放された実感があったでしょう。
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