p_fさん のコメント
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官僚:人間の奴隷でないが、制度の奴隷 ラフカディオ・ハーンは著『神国日本』(一八八八年米国で出版し、日本では平凡社、一九七六年)から出版。その引用 ・ 日本の教育は、見かけは西洋風でありながら、大体において、これまでも、また今でも、外見とは全く反対の方式に基いて行われているのである。その目的は、個人を独歩の行動を出来るように鍛えるのではなく、個人を共同的行為にむくようにーつまり、厳しい社会機構の中に個人が妥当な位置を占めるのに適するようにー訓練を施すことであった。我々西洋人の間では、強要抑圧は子供時代に始まり、その後徐々にゆるめられる。極東のこの国での強要抑圧は、もっと後になってから始められ、その後だんだん締めつけが強まってゆく。 ・クラス生活の調整は、多数に対し一人が独裁力を振るうという事ではない。多数がひとりを支配していくというのが常道であり、-その支配力たりや実に強烈なものであるー意識的に
> 如何に大度最高潔な、或いは道理にかなったことであっても、夢にも考えてはならないのである。
これは「制度の奴隷」で成り立つシステムを死守したい権力側への痛烈な批判だ。従って、ラフカディオ・ハーンへのラベル付けを-
無害な「怪談」→ 〇
有害な「神国日本」→ ×
とする力が今尚 働き続けている。だからこそ「神国日本」など殆どの日本人は知らないのである。これで「現在にも当て嵌まる」ことが証明された。
(2)
併せて想起されるのは「人でなく、組織に潰された」の類だが、これにも違和感を覚える。制度も組織も、つまりは人間の産物だ。それらに対して支配的権限を持った特定の「誰か」が必ずいる。
従って、「制度の奴隷」とは、煎じ詰めれば(複数にしろ)この「誰か」の奴隷、即ち人間の奴隷と思う。
(3)
今 我々が目撃しているのは、まさに件の評価を地で行くクズ、カス官僚等の成れの果てだ。
係る衝動を行動に移すか否かは どれだけ高くつくかにも依ろうが、例えば天木直人氏のように甚大な代償を余儀なくされた場合でも、人生の最後には清々しい思いでいられるに違いない。
(4)
係る評価は今も当て嵌まると思うが、何故そんな状況から抜け出せないのか。独歩の行動が出来ないように育ってしまった大人は、次の世代には そうならないで欲しいと願うだろうか。多くは自分と同じタイプに育つよう仕向けるのでないか。
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