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フレデイ タンさん のコメント

>>4
当時、日本の国の形に思いを馳せた人はあまりいなかったのじゃないでしょうか。とにかく日本は解放区ですから。自由に商売し、自由に稼ぐことが出来たのです。権力の上部構造がどうであれ、自由で束縛されないのは何よりも大事だったんです。

三島由紀夫や全学連の学生はいろいろ考えたんでしょうが、当時の人間には「過激すぎる。ついていけない」と受け止められていたと思います。そういう中で、ワシントン・ハイツはふさわしくない、と考えた魚本大使は租界があっちにこっちに残っていて平気な日本に不満を感じておられたんでしょう。そして、ふっと、この心情こそが愛国心だと思った次第です。



No.6
44ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 1980年、二度目の在ソ連大使館勤務を終えて、本省に帰ることとなりました。魚本大使が、「孫崎、一緒に食事をしよう」と言われ、昼食を共にしました。食事が始まるやいなや、魚本大使は、「君も本省に戻れば課長になる。それで一言言っておきたい」と切り出されました。私は「君も課長になるのだから、もう少し周りを見て行動しろ」と忠告を受けるものと覚悟しました。在ソ連大使館では、私は比較的好き放題の発言をしたのです。 「外務省では課長というポストは重要だ。それで政策が作られていく。外務省は課長には好きなように仕事をさせてくれる。自分の信念に基づいて最後までやり抜け」。  そして、魚本大使は、自分が北米局 安全保障課長をしていた時のことを話始めました。   第二次世界大戦後、米軍は東京・代々木に兵舎・家族用居住宿舎等の軍用地を持ち、この土地は 「ワシントンハイツ」 と呼ばれていた。東京オリンピックの主要競技場のすぐ隣に 「
孫崎享のつぶやき
元外務省情報局長で、駐イラン大使などを務めた孫崎享氏。7月に発行された『戦後史の正体』は20万部を超えるベストセラー、ツイッターのフォロワーも13万人を突破。テレビや新聞が報じない問題を、日々つぶやいている孫崎氏。本ブロマガでは、日々発信。週1回別途生放送を発信。月額100円+税。【発行周期】日々。高い頻度で発行します。