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りゃんさん のコメント

1964年といえば、中国が東京オリンピック開催にあわせて核実験をおこなったのは有名だし、そのかげで、多数のウイグル人が放射能被害にあわされ捨てられていたこともその後わかった。そういうなか、日本でがんばっていた官僚がいたという話だとおもう。わたしは城山三郎の「官僚たちの夏」を読んだことがあるが、ああいう雰囲気が日本の官僚に多かれ少なかれ漲っていたのだろう。

さて、孫崎さんの投げかけたい趣旨は理解できているつもりだし、全体として魚本大使の方向性が正しいことに異論はないが、わたしなどは、どうしても「朝霞に選手村を建設する手配」を全て整えていた文部官僚の、その後の苦労を想像してしまう。現在の組織文化でも、上司と勝手に結託して同僚を出し抜くような行為は嫌われる。

もっとも、外務官僚と旧内務官僚からすれば、文部官僚のような三流官僚などは、同僚ではなく、反撃される可能性もなく、こういう扱いでよかったのかもしれない。うがちすぎであろうか。

ライシャワー(米国)が寛容だったというのも、意外な感じはしない。また、結局、オリンピックを利用して物事を進めている点は、少なくとも動機において今回のオリンピックとかわらない。

孫崎さんの投げかけたい趣旨は理解できているつもりだし、全体として魚本大使の方向性が正しいことに異論はない。ただ、何もかも物事が現在よりも単純な時代だったのだろうというのが、わたしの受け止めだ。「今は昔」というときの、今との違いは具体的には、その点なのだろうなとおもう。
No.7
44ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 1980年、二度目の在ソ連大使館勤務を終えて、本省に帰ることとなりました。魚本大使が、「孫崎、一緒に食事をしよう」と言われ、昼食を共にしました。食事が始まるやいなや、魚本大使は、「君も本省に戻れば課長になる。それで一言言っておきたい」と切り出されました。私は「君も課長になるのだから、もう少し周りを見て行動しろ」と忠告を受けるものと覚悟しました。在ソ連大使館では、私は比較的好き放題の発言をしたのです。 「外務省では課長というポストは重要だ。それで政策が作られていく。外務省は課長には好きなように仕事をさせてくれる。自分の信念に基づいて最後までやり抜け」。  そして、魚本大使は、自分が北米局 安全保障課長をしていた時のことを話始めました。   第二次世界大戦後、米軍は東京・代々木に兵舎・家族用居住宿舎等の軍用地を持ち、この土地は 「ワシントンハイツ」 と呼ばれていた。東京オリンピックの主要競技場のすぐ隣に 「
孫崎享のつぶやき
元外務省情報局長で、駐イラン大使などを務めた孫崎享氏。7月に発行された『戦後史の正体』は20万部を超えるベストセラー、ツイッターのフォロワーも13万人を突破。テレビや新聞が報じない問題を、日々つぶやいている孫崎氏。本ブロマガでは、日々発信。週1回別途生放送を発信。月額100円+税。【発行周期】日々。高い頻度で発行します。