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changeさん のコメント

孫崎さんでなく私たちでもこのような相談を受けたとき、どのような行動をとるかという、孫崎さんの投げかけとしてとらえたい。
Xさんは日本へ帰れないと思っていたが、日ソ交渉で日本帰国ができるようになり、どのような会話があって別れたかわからないが、結論としては、離別したということである。Xさんの気持ち次第では一緒に日本へ帰るという選択があったかもしれない。いずれにしろ、結果としては分かれたのです。
Xさんが日本に帰った後も連絡を取り合っていたが、一緒に生活するという選択が取れなかった。AさんとXさんの関係は終わったとみるべきでしょう。
問題は娘さんの気持ちの問題であるが、Xさんが娘さんに会うという選択ができたかどうか。非常に難しい問題です。
孫崎さんが日本との連絡を進めたことが起点になっており、孫崎さんにやりきれない気持がわいたのは避けられなかった。
では「どうしたらよかったか」という問題が残る。
No.1
41ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 私は外務省時代、一度、強い「やるせない思い」をしたことがある。  私は1993年ウズベキスタンに大使として赴任した。と言っても、まだ大使館の建物も大使公邸もなかった。ホテルの一部屋で大使館、別の部屋が大使執務室兼寝室だった。  その当時突然電話が鳴った。ロシア語で「大使、 私日本人です。会って下さい」  ウズベキスタンが独立して経済は大混乱の中にある。まだ日本から企業の人はほとんど来ていない。旧ソ連時代、タシケントに日本人が住んでいたとは聞いていない。そもそも日本語でなく、ロシア語で「 私日本人です」というのも不思議である。話を聞くと、シベリアに抑留されていた日本人とロシア女性の間に生まれた人が電話をかけてきたようだった。  彼女は執拗に「私日本人です。家に来てください。その時説明しますから」という。  ウズベキスタン人の運転する車で指定の場所に出かけた。タシケント市街の外れにあるような場所であった
孫崎享のつぶやき
元外務省情報局長で、駐イラン大使などを務めた孫崎享氏。7月に発行された『戦後史の正体』は20万部を超えるベストセラー、ツイッターのフォロワーも13万人を突破。テレビや新聞が報じない問題を、日々つぶやいている孫崎氏。本ブロマガでは、日々発信。週1回別途生放送を発信。月額100円+税。【発行周期】日々。高い頻度で発行します。