りゃんさん のコメント
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私は防衛大学校教授の時に、生徒に次のように述べていた。 「偉くなりたいなら、私が教えることは全て忘れた方がいいだろう。下手に覚えて、批判をすれば偉くなれないだろう。ただ次の二つだけ覚えておいた方がいい。一つは出来るだけ多く、人に無償の助けをしてあげなさい。人生って不思議なことに、回りまわって自分が助けられる。次に誰かにプラスのことをするにしても、相手が期待する以上のことをしなさい。期待通りだったらそんなものかになるし、期待以下だったら逆に反発を招く」 実はこの教訓は 私が駐ウズベキスタン大使の時に自覚した。 私は外務省では、情報調査局(名称は時々変化)の事務官、課長、局長を経ているが、この仕事は誰かと協力して成果を出すというより、個人の努力に負うところが大きい。従ってどうしても「個人主義的」アプローチをとる。 私が駐 ウズベキスタン 大使の時、予想に反し日・ウズベキスタン関係が発展した。それは
https://ch.nicovideo.jp/magosaki/blomaga/ar2028560
わたしは、
「孫崎さんの場合は、まずみずから善意をつくし、相手を信頼し、相手をウインさせることで、つぎに天の配剤でみずからもウインする、というような展開がお好みなのかなあと感じる」
と書いた。
だいたいそのときわたしが思った通りの人生観、人生訓をお持ちなのだなあと思う。こういう人生訓を語るひとは珍しくはない。ただし、孫崎さんの場合は相手の期待よりさらに上をまず与えなければならない点が、やや実践が難しい。
わたしが気になるのは、この人生訓の限界線が奈辺にあるかということだ。今回のはなしに出てくるのは、直接的にはみな日本人だ。日本人どうしであれば比較的受け入れられやすい人生訓であろう。実践しているひとびとも多いだろう。日本文化と言ってもいいとおもう。
しかし、自公の政策のせいで移民が増えてくる。日本人と同じような顔をし、日本語もじょうずな元中国人(現日本国籍)なんてひとびとが増えてくる。そのときどこまでこの人生訓が維持できるだろうか。急激な移民は日本文化を目に見えて破壊するのではないか。
一方、外交の舞台ではどうだろうか。相手はそもそも日本文化を背負ってない。その相手に相手の期待よりさらに上をまず与えるというのなら、尖閣どうぞどうぞ、沖縄どうぞどうぞでは、まだダメで(なぜならこれらは相手の期待の範囲内だから)、もっとなにか与えなければならない。そのうえで、相手がなにか自分にとっていいことをしてくれるのを待つのだ・・・
どうも、わたし程度が思いつく限りにおいて、この人生訓は外交の場面では普遍的には役に立ちそうにない。
さきの随想の感想のなかに、
「しかし、宇治拾遺のわらしべ長者をみても、主人公の男には、多少は駆け引きがある。現実の外交関係でも問題はそういうあたりなんだろうとおもう」
と書いたとおりだ。鎌倉時代の日本人は、孫崎さんの人生訓よりも、少しリアリストだったようだ。
ところで、、自分と意見の違う他人には、ののしり、つきまとい、さげすむヒトがいる。こういうヒトは、この人生訓にかなった生き方をしているだろうか。
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