フレデイ タンさん のコメント
このコメントは以下の記事についています
芥川龍之介について記述した際、 キリスト教迫害に関する『おぎん』を引用しました。しかし、キリスト教迫害に関する著作に言及した際に、遠藤周作作『沈黙』に言及しない訳にはまいりません。 長崎には日本二十六聖人記念館があり、「キリスト教を信じることを禁じる政策が行われる弾圧の時代を迎え、ここ《西坂の丘》が 26 聖人をはじめとするキリスト教徒の殉教の地となる」と紹介されています。ここには舟越保武の記念碑があります。 こうして殉教者をしのぶことが大勢になっている中、遠藤周作は棄教者を扱いました。ウィキペディアに「あらすじ」が出ていますので引用します。 「神の栄光に満ちた殉教を期待して牢につながれたロドリゴに夜半、フェレイラ(かつての師、今は棄教)が語りかける。その説得を拒絶するロドリゴは、彼を悩ませていた遠くから響く鼾のような音を止めてくれと叫ぶ。その言葉に驚いたフェレイラは、その声が鼾などではなく、拷問
2.政治家にとっての信条
3.信者にとっての宗教
上記の三つとも、事情は似ていると私は考えてます。真面目な人には叱られるかもしれません。特に宗教では叱る人がいるように思います。
1.のケースでは、米国では製薬絡みで昔から科学者弾圧が頻繁に起こってます。大々的に売り出していてドル箱になっている薬に致命的な病気を引き起こす物質あるいはウイルスが含まれていることを発見した科学者はどうなるか?その論文とデータについて激しい論争が起こればいいが、業界カルテルが撤回を強制する場合があります。拒否すれば殺される場合もあるのです。命はやはり大事です。
2.のケースで信条を捨てれば、殺さない、となれば、信条を捨てます。状況が変われば、リベンジ出来るのです。
3.のケース。棄教すれば助かるとなれば、さっさと棄教し、臥薪嘗胆に徹する。
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