芥川龍之介について記述した際、キリスト教迫害に関する『おぎん』を引用しました。しかし、キリスト教迫害に関する著作に言及した際に、遠藤周作作『沈黙』に言及しない訳にはまいりません。
長崎には日本二十六聖人記念館があり、「キリスト教を信じることを禁じる政策が行われる弾圧の時代を迎え、ここ《西坂の丘》が26聖人をはじめとするキリスト教徒の殉教の地となる」と紹介されています。ここには舟越保武の記念碑があります。
こうして殉教者をしのぶことが大勢になっている中、遠藤周作は棄教者を扱いました。ウィキペディアに「あらすじ」が出ていますので引用します。
「神の栄光に満ちた殉教を期待して牢につながれたロドリゴに夜半、フェレイラ(かつての師、今は棄教)が語りかける。その説得を拒絶するロドリゴは、彼を悩ませていた遠くから響く鼾のような音を止めてくれと叫ぶ。その言葉に驚いたフェレイラは、その声が鼾などではなく、拷問
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人間の一生は,「生老病死」であり、様々な災難が付きまとう。
現在は、医療が格段に進んでおり、「病」に対する不安は少なくなっている。また、社会福祉が進み、老後の不安は相当に緩和されている。
どのように生きるべきかのテーマに対する回答がかなり自律的にできるようになっており、簡単に過去に生きた人たちと現代に生きる我々とはおのずから、避けられない環境が大きく異なっており、簡単には比較できない。
仏教に、「自灯明、法灯明」という言葉があるが、最後のよりどころは、この言葉に尽きると思っています。ただ、そこまで到達できなければ、あれこれ考えて、悩むことになる。組織的なキリスト教、仏教に帰依することになるのでしょう.棄教を求められれば悩むことになるが、悩みは尽きない。
> 安保闘争を行った人々が、一般社会人の中にはいっていったのもそうでしょう。
今や安保闘争の正体をご著書等で それなりに知っている以上、彼らの多くには「棄教」する程の確たる理想/信念など端から無かったと推察する次第。誰かが自民・塩崎氏を「ああ見えてバリバリの安保闘士だったんですよ、信じられないでしょ(笑」と評していた記憶も蘇ってきた。「一億総懺悔」も勝手な創作だろう。「一億総」になるわけがない。つまり、本物の「信念」だったら、加えられる圧力に たとえ屈して「棄教」となっても、その後「のうのうと」生きていく選択肢は無い。自死しないまでも、生涯PTSDに苦しむだろう。森友事件で犠牲となった赤木氏、イラク/アフガン戦争の最前線から帰還した米兵が実証済みだ。
「棄教」した後、「いけしゃあしゃあ」と生き続けている類の「信念」とやらは、元々インチキ、イカサマだったということだ。
だが、断っておく必要があるのは、係る「信念」は自ずと反体制/反権力の性格を帯びるということだ。
>「許された空間で許される物的、智的豊かさを享受すればいい」
これが自分の「信念」だと嘯く輩もいる。アングロ・サクソンに何処までも付従うのが「信念」だった方もおられたようだが、彼等は皆、それで圧力が加わるとしたら即時「棄教」が目に見えている。要は、こんなものは「信念」と書いて「処世術」と読むのが正しい。
1.科学者にとっての科学
2.政治家にとっての信条
3.信者にとっての宗教
上記の三つとも、事情は似ていると私は考えてます。真面目な人には叱られるかもしれません。特に宗教では叱る人がいるように思います。
1.のケースでは、米国では製薬絡みで昔から科学者弾圧が頻繁に起こってます。大々的に売り出していてドル箱になっている薬に致命的な病気を引き起こす物質あるいはウイルスが含まれていることを発見した科学者はどうなるか?その論文とデータについて激しい論争が起こればいいが、業界カルテルが撤回を強制する場合があります。拒否すれば殺される場合もあるのです。命はやはり大事です。
2.のケースで信条を捨てれば、殺さない、となれば、信条を捨てます。状況が変われば、リベンジ出来るのです。
3.のケース。棄教すれば助かるとなれば、さっさと棄教し、臥薪嘗胆に徹する。
採り上げ恐縮です。「信念」はさておき、私などは「棄教」してPTSDが精々で、そんな のっぴきならない状況に遭遇しないことを祈るばかり。この種の話には、例えば、かつて山手線のホームから転落した人を助けようと、恐らく「犬死に」覚悟で線路に降りた韓国の留学生等も脳裏を過ぎります。
「沈黙」は読んだことがあるはずだが、内容もあまり覚えてないし、読んでなにを考えたかも覚えていない。なので、今回の孫崎さんの書き込みに触発されて考えたことで、「沈黙」の感想というわけではないのだが、たぶん「沈黙」を読んだときにも似たようなことを考えただろうという気がしている。
ロドリゴには二種類の道がある。1、棄教しない。2、棄教する。
1を選んだ場合。ロドリゴは死ぬ。信者たちも死ぬだろう。ただし信者たちはすでにロドリゴにとって異教徒である(棄教しているから)から、死んでもロドリゴの罪ではないとロドリゴはかんがえることができる。一方、ロドリゴは、死後、自分の属するキリスト教結社のなかで高い評価を与えられる。将来は福者とか聖者に列せられるかもしれない。
2を選んだ場合。ロドリゴは助かる。信者たちも助かるだろう。いのちが第一なので、それが正しい道なのであると自分に言い訳する。ひとびとに対しては、「ひどい弾圧を受けたからしかたなかった」と言い訳できる。では神に対しては・・・。
神に対しては、たとえば「キリスト教を棄ててもそのかわりに命が救えることこそ、真にキリスト教的な行為なのだ、この修正こそ正しいのだ」と言い訳できるのだ。
そして、ジュゼッペ・キアラは幽閉されたが、転向したヒトビトのなかには、所得倍増や高度成長という情勢のなか、大活躍して得難い人生経験をし、財も築いたものもいるかもしれない。そして、ときには讃美歌を歌ったりもするのだろう。
生き方に良いの悪いのはない。別にどっちが優れているとはおもわない。しかし、みずからの選択は正確に把握するにこしたことはないとおもう。