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りゃんさん のコメント

「敵国中国」というほど単純ではないですよ。
日本は清朝の味方をしていたし、漢族のなかでは汪兆銘政府の味方をしていました。かれらもまた「中国」です。

日本が主にたたかっていたのは蒋介石の国民党軍ですが、かれは米、英、DSのフロントですね。日本はDSとたたかっていたわけです。

そして、国民党軍と共産党軍とはたたかっていましたが(ともに「中国」)、その後の国共合作にはコミンテルンという外国勢力の陰謀、といって悪ければ、少なくとも関与があります。

日本が敗戦した結果、日本は「中国」と戦って負けたことになったわけです。その結果そのものに文句をつけるつもりはないですが、もう70年以上たったのだから、別の視点があってもいいとおもいます。ウイグルは「中国」ではないという事実も別の視点のひとつです。

創作活動に行き詰っていた平山氏が原爆体験という独自の原体験を武器にして成功した。その内容は「狂気の兵器を生み出した同時代の人びとの贖罪と救い」だ、というのも、なにも平山氏やその考えの真摯さにケチをつけるつもりは毛頭ないですが、わたしは、その時代の作為された論調、といってわるければその時代の空気や思想を結局は色濃く反映しているとおもいます。

原爆投下の、少なくともしばらくの間は、やられたからにはいつかやり返すと考えた人々が、かなり多くいたとわたしは信じています。
No.11
34ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 平山郁夫氏は中学三年の時、 広島の学徒動員先で原爆に被爆。彼は原爆症で苦しみながら、原爆投下の絵画を一点しかえがいていない。更に三四年経過し始めてこの体験を絵画にする。画家が自分の絵の背景を述べることはまれであるが、平山氏は自著『群青の海へ』で描くに至る経緯を記述、その内容はいかなる解説文よりも真髄をついているとみられるので、それを引用する。 「昭和二十年のその日、私は、舞い上がった広島の町から、どうにか脱出することができましたが、いつまでも私を追いかけてくるのは、巨大な炎でした。振り返り振り返り逃げまどう私の眼に映るのは、天を焦がす巨大な炎の中で、のたうちまわる断末魔の広島の町の姿でした。  背中のほてりは、ますます強まってきます。炎は歩いても歩いても追っかけてきます。人間が、石ころのように無造作に倒れています。じっとしている人、血だらけになってうめき声をあげている人、白い骨が露出している人
孫崎享のつぶやき
元外務省情報局長で、駐イラン大使などを務めた孫崎享氏。7月に発行された『戦後史の正体』は20万部を超えるベストセラー、ツイッターのフォロワーも13万人を突破。テレビや新聞が報じない問題を、日々つぶやいている孫崎氏。本ブロマガでは、日々発信。週1回別途生放送を発信。月額100円+税。【発行周期】日々。高い頻度で発行します。