記事へ戻る 中庸左派さん のコメント 中庸左派 いつも考えさせられるのは、ヒトによって見えている世界は全く違うんだな、ということ。それは家族であっても、親しい友人、知人であっても同じ。 まして、世界観や政治観での見方が対立するようなことになれば、気まずい空気になったり、関係性そのものが壊れることになりかねない。 まさにストレスの種だ。その意味で、思想やものの見方、世界観から発する批判はもろ刃の剣のようなもので、自らのストレスの原因になることも多い。 では、いっその事、あらゆる社会、政治、経済、世界情勢からできるだけ距離を置く、或いはそうしたことに関する情報取得を最低限にして、出来るだけ目や耳を塞ぐのはどうだろうか? これは、実際に周囲を見渡すと、ほとんどの人はそうではないかな、と思われる。悪く言うなら、B層一般大衆、或いは半径2mくらいのことにしか関心のない人々。 実感としては、日常生活に追われ、日常些事に関する情報以外には関心がない人達が圧倒的多数だろう。 あそこの店がおいしい、あそこならこのポイントが貯まる、あのスーパーは何でも安い、好みの期間限定商品が発売になったからあの店に買いに行こう、等等。 日常些事の情報も巷に溢れているし、取捨選択も忙しいし、それなりに生活しづらい、生きづらい社会の閉塞感も抱えている。 いきおい、思想、良識、哲学、世界観を駆使して、この社会や世界を解釈しよう、などという奇特な考えには至らない。 むべなるかな。凡庸な人生。 要するに、批判には精神的エネルギーが必要。批判をしないほうが、精神的エネルギー消費が少なく、リスクも少ない。となれば、ヒトは易きに流れる。 しかし、そんな世間の素描をしつつ、故に半ば諦念しつつも、戦争を止める、とか戦争を回避するには批判精神はゼッタイに必要である、と考えている。 No.5 11ヶ月前 Post このコメントは以下の記事についています 随想① 花1994年頃、経済学者金森久雄氏の話、当時露経済の崩壊が言われていた時代「私は... 孫崎享のつぶやき 元外務省情報局長で、駐イラン大使などを務めた孫崎享氏。7月に発行された『戦後史の正体』は20万部を超えるベストセラー、ツイッターのフォロワーも13万人を突破。テレビや新聞が報じない問題を、日々つぶやいている孫崎氏。本ブロマガでは、日々発信。週1回別途生放送を発信。月額100円+税。【発行周期】日々。高い頻度で発行します。 » このブロマガへ
中庸左派 いつも考えさせられるのは、ヒトによって見えている世界は全く違うんだな、ということ。それは家族であっても、親しい友人、知人であっても同じ。 まして、世界観や政治観での見方が対立するようなことになれば、気まずい空気になったり、関係性そのものが壊れることになりかねない。 まさにストレスの種だ。その意味で、思想やものの見方、世界観から発する批判はもろ刃の剣のようなもので、自らのストレスの原因になることも多い。 では、いっその事、あらゆる社会、政治、経済、世界情勢からできるだけ距離を置く、或いはそうしたことに関する情報取得を最低限にして、出来るだけ目や耳を塞ぐのはどうだろうか? これは、実際に周囲を見渡すと、ほとんどの人はそうではないかな、と思われる。悪く言うなら、B層一般大衆、或いは半径2mくらいのことにしか関心のない人々。 実感としては、日常生活に追われ、日常些事に関する情報以外には関心がない人達が圧倒的多数だろう。 あそこの店がおいしい、あそこならこのポイントが貯まる、あのスーパーは何でも安い、好みの期間限定商品が発売になったからあの店に買いに行こう、等等。 日常些事の情報も巷に溢れているし、取捨選択も忙しいし、それなりに生活しづらい、生きづらい社会の閉塞感も抱えている。 いきおい、思想、良識、哲学、世界観を駆使して、この社会や世界を解釈しよう、などという奇特な考えには至らない。 むべなるかな。凡庸な人生。 要するに、批判には精神的エネルギーが必要。批判をしないほうが、精神的エネルギー消費が少なく、リスクも少ない。となれば、ヒトは易きに流れる。 しかし、そんな世間の素描をしつつ、故に半ば諦念しつつも、戦争を止める、とか戦争を回避するには批判精神はゼッタイに必要である、と考えている。 No.5 11ヶ月前 Post このコメントは以下の記事についています 随想① 花1994年頃、経済学者金森久雄氏の話、当時露経済の崩壊が言われていた時代「私は... 孫崎享のつぶやき 元外務省情報局長で、駐イラン大使などを務めた孫崎享氏。7月に発行された『戦後史の正体』は20万部を超えるベストセラー、ツイッターのフォロワーも13万人を突破。テレビや新聞が報じない問題を、日々つぶやいている孫崎氏。本ブロマガでは、日々発信。週1回別途生放送を発信。月額100円+税。【発行周期】日々。高い頻度で発行します。 » このブロマガへ
まして、世界観や政治観での見方が対立するようなことになれば、気まずい空気になったり、関係性そのものが壊れることになりかねない。
まさにストレスの種だ。その意味で、思想やものの見方、世界観から発する批判はもろ刃の剣のようなもので、自らのストレスの原因になることも多い。
では、いっその事、あらゆる社会、政治、経済、世界情勢からできるだけ距離を置く、或いはそうしたことに関する情報取得を最低限にして、出来るだけ目や耳を塞ぐのはどうだろうか?
これは、実際に周囲を見渡すと、ほとんどの人はそうではないかな、と思われる。悪く言うなら、B層一般大衆、或いは半径2mくらいのことにしか関心のない人々。
実感としては、日常生活に追われ、日常些事に関する情報以外には関心がない人達が圧倒的多数だろう。
あそこの店がおいしい、あそこならこのポイントが貯まる、あのスーパーは何でも安い、好みの期間限定商品が発売になったからあの店に買いに行こう、等等。
日常些事の情報も巷に溢れているし、取捨選択も忙しいし、それなりに生活しづらい、生きづらい社会の閉塞感も抱えている。
いきおい、思想、良識、哲学、世界観を駆使して、この社会や世界を解釈しよう、などという奇特な考えには至らない。
むべなるかな。凡庸な人生。
要するに、批判には精神的エネルギーが必要。批判をしないほうが、精神的エネルギー消費が少なく、リスクも少ない。となれば、ヒトは易きに流れる。
しかし、そんな世間の素描をしつつ、故に半ば諦念しつつも、戦争を止める、とか戦争を回避するには批判精神はゼッタイに必要である、と考えている。
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