p_fさん のコメント
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クラシック音楽と政治で最も有名なエピソードはショパンとポーランドの蜂起であろう。 「 1830 年 11 月 29 日、ポーランド憲法に対する帝政ロシアの度重なる違反に嫌気がさしたポーランド士官候補生が駐屯地から武器を盗み、翌日までにロシア軍をワルシャワ市から撤退させた。この出来事が 11 月蜂起のきっかけとなり、それは 1 年近く続いた。 ショパンは蜂起拡大のわずか数週間前にワルシャワを離れていた。彼の友で旅の同行者である・ヴォイチェホフスキはポーランドの大義に参加するために引き返した。 1831 年 9 月にウィーンからパリへ旅行中に、反乱が鎮圧されたという知らせが彼に届いた。 この時の感情がこれらの感情は「革命」エチュードに音楽的な表現を見つけた。」(出典 classicalconnect.com ) 政治と音楽の関係で、欠かせないのはショスタコヴィチの交響曲第7番レニングラードであろう。1941年12月に完成し
戦争の作曲家たち:ドミトリー・ショスタコーヴィチ
https://www.military-history.org/feature/war-composers-dmitri-shostakovich.htm
ドミトリー・ショスタコーヴィチは、20世紀のロシアを代表する作曲家の一人である。彼は生涯をソビエトの支配下で過ごし、ソビエトの厳しい検閲や芸術に対するアプローチと複雑な関係にあった。ショスタコーヴィチは才能豊かなピアニストであり作曲家であったが、19世紀の音楽よりも、イーゴリ・ストラヴィンスキーやセルゲイ・プロコフィエフといった同郷のロシア人たちの現代的なスタイルに興味を持っていた。
エンジニアの息子として生まれた彼は、早くから音楽の才能を発揮し、1919年、革命の余波にも拘わらず運営されていたペトログラード音楽院に入学した。彼は国家イデオロギーを支持することには殆ど関心を示さなかったが、それが後年の彼に問題を引き起こした。
彼は音楽の道に進み、当初は当局の支持を得ていたが、1936年にオペラ「ムツェンスクのマクベス夫人」の上演後、政府からの支持を失った。スターリンはその公演を観に行ったが、不快に感じたという。
この作品は糾弾され、ショスタコーヴィチは頭を下げ、余り物議を醸すことのない音楽を作曲することを余儀なくされた。同年から始まった大粛清は何とか生き延びたが、1917年の革命的大衆運動の残滓を全て破壊することを目的とした見せしめ裁判で、多くの友人たちが殺されたり投獄されたりした。
■レニングラード交響曲
1937年、彼は交響曲第5番で再び支持を集め、レニングラード音楽院で教鞭をとることになる。ドイツの侵攻に抵抗したロシア精神の記念碑として賞賛された、有名な交響曲第7番を作曲したのはこの街だった。
1941年9月、ドイツ軍はレニングラードへの鉄道の接続を断ち、第二次世界大戦で最も長い包囲戦が始まった。ショスタコーヴィチは7月(それ以前という説もある)には既に新しい交響曲に着手していたが、民衆を抵抗へと駆り立てるような作品を作る決意を固めていた。彼は9月末までに4楽章のうち3楽章を完成させたが、家族と一緒にモスクワに疎開し、その後サマラに移って12月に作品を完成させることができた。
■論争の的となった作曲作品
ショスタコーヴィチの交響曲第7番に込められた意図については、いまだに論争がある。彼は包囲戦の前にこの曲に着手していたが、それはドイツ軍の進撃に対応するためだったのかもしれない。ソビエトの公式見解は、この交響曲は国家を支持し、ロシア国民の忠誠と武勇を宣言するために書かれたというものだった。
他の証拠によると、第1楽章はソビエトの弾圧や他の種類の専制政治に対する批判を暗示していたものの、包囲が始まると別の目的に転用されたことを示唆している。この作曲家の友人であるレフ・レベディンスキーは、ゴルバチョフ政権下のグラスノスチ期に、ショスタコーヴィチがドイツ軍の侵攻前にこの交響曲の作曲に着手していたことを明かしている。彼は言う:
<第一楽章の有名なテーマは、ショスタコーヴィチが最初にスターリンのテーマとしていたもので... 戦争が始まった直後、この作曲家はそれを反ヒトラーのテーマと呼んだ。後にショスタコーヴィチは、その「ドイツ」のテーマを「悪のテーマ」と呼んだが、それは全くその通りであった。なぜなら、世界の音楽界は、この2つの定義のうち、最初のものだけに固執していたにも拘わらず、このテーマは反スターリンに匹敵する反ヒトラーだったからだ>
ショスタコーヴィチが公の場でそのような感情を語ることができなかったのは明らかだが、この作品の最初のきっかけは、1936年の粛清に対する静かな反応だったのかもしれない。
「レニングラード交響曲」と名付けられたこの曲は、1時間を優に超え、ロシアの英雄主義を称えるテーマで満たされていた。ショスタコーヴィチはこの曲をレニングラード市に捧げ、プラウダは即座にソビエトの価値観を称える作品だと称賛した。士気を高めるために演奏や放送が企画され、熱狂的な喝采を浴び、スターリンでさえも承認した。
■抵抗
交響曲第7番は、ドイツ軍の侵攻に対する抵抗の国民的シンボルとなり、ソビエトはこの曲の連合国への輸出に熱心だった。スパイ映画のシナリオのように、楽譜はフィルムにコピーされ、テヘランに空輸され、カイロまで車で運ばれた後、西へ空輸され、1942年に英国と米国で演奏された。
このような記念碑的作品の登場は、ルーズベルト大統領にとって絶好のタイミングであった。ルーズベルト政権は、スターリン自身の独裁体制を無視する一方で、ソビエトをナチスとの闘いにおける米国の同盟国として描くことに熱心だったのだ。
1942年8月9日、レニングラード放送管弦楽団の生き残った音楽家たちは、不足を補うために軍楽隊の協力を得て、レニングラードでこの交響曲を演奏した。それは包囲していたドイツ軍に反抗の意を込めて拡声器で放送された。
飢えと瀕死の状態にあった人々に与えた効果は絶大だった。喝采を浴び、レニングラードに残った市民を奮い立たせ、抵抗を続けさせた。指揮者のカール・エリアスベルクは後に、「あの瞬間、私たちは魂のないナチスの戦争マシーンに勝利した」と語った。
包囲は、1943年に大規模な反撃を受けるも、1944年まで解除されなかった。包囲が終わるまでに100万人ものレニングラード市民が死亡した。 しかし、このパフォーマンスは闘争の転換点として長く記憶された。
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