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p_fさん のコメント

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p_f
Military History Matters June 15, 2016

戦争の作曲家たち:ドミトリー・ショスタコーヴィチ
https://www.military-history.org/feature/war-composers-dmitri-shostakovich.htm

ドミトリー・ショスタコーヴィチは、20世紀のロシアを代表する作曲家の一人である。彼は生涯をソビエトの支配下で過ごし、ソビエトの厳しい検閲や芸術に対するアプローチと複雑な関係にあった。ショスタコーヴィチは才能豊かなピアニストであり作曲家であったが、19世紀の音楽よりも、イーゴリ・ストラヴィンスキーやセルゲイ・プロコフィエフといった同郷のロシア人たちの現代的なスタイルに興味を持っていた。

エンジニアの息子として生まれた彼は、早くから音楽の才能を発揮し、1919年、革命の余波にも拘わらず運営されていたペトログラード音楽院に入学した。彼は国家イデオロギーを支持することには殆ど関心を示さなかったが、それが後年の彼に問題を引き起こした。

彼は音楽の道に進み、当初は当局の支持を得ていたが、1936年にオペラ「ムツェンスクのマクベス夫人」の上演後、政府からの支持を失った。スターリンはその公演を観に行ったが、不快に感じたという。

この作品は糾弾され、ショスタコーヴィチは頭を下げ、余り物議を醸すことのない音楽を作曲することを余儀なくされた。同年から始まった大粛清は何とか生き延びたが、1917年の革命的大衆運動の残滓を全て破壊することを目的とした見せしめ裁判で、多くの友人たちが殺されたり投獄されたりした。

■レニングラード交響曲

1937年、彼は交響曲第5番で再び支持を集め、レニングラード音楽院で教鞭をとることになる。ドイツの侵攻に抵抗したロシア精神の記念碑として賞賛された、有名な交響曲第7番を作曲したのはこの街だった。

1941年9月、ドイツ軍はレニングラードへの鉄道の接続を断ち、第二次世界大戦で最も長い包囲戦が始まった。ショスタコーヴィチは7月(それ以前という説もある)には既に新しい交響曲に着手していたが、民衆を抵抗へと駆り立てるような作品を作る決意を固めていた。彼は9月末までに4楽章のうち3楽章を完成させたが、家族と一緒にモスクワに疎開し、その後サマラに移って12月に作品を完成させることができた。

■論争の的となった作曲作品

ショスタコーヴィチの交響曲第7番に込められた意図については、いまだに論争がある。彼は包囲戦の前にこの曲に着手していたが、それはドイツ軍の進撃に対応するためだったのかもしれない。ソビエトの公式見解は、この交響曲は国家を支持し、ロシア国民の忠誠と武勇を宣言するために書かれたというものだった。

他の証拠によると、第1楽章はソビエトの弾圧や他の種類の専制政治に対する批判を暗示していたものの、包囲が始まると別の目的に転用されたことを示唆している。この作曲家の友人であるレフ・レベディンスキーは、ゴルバチョフ政権下のグラスノスチ期に、ショスタコーヴィチがドイツ軍の侵攻前にこの交響曲の作曲に着手していたことを明かしている。彼は言う:

<第一楽章の有名なテーマは、ショスタコーヴィチが最初にスターリンのテーマとしていたもので... 戦争が始まった直後、この作曲家はそれを反ヒトラーのテーマと呼んだ。後にショスタコーヴィチは、その「ドイツ」のテーマを「悪のテーマ」と呼んだが、それは全くその通りであった。なぜなら、世界の音楽界は、この2つの定義のうち、最初のものだけに固執していたにも拘わらず、このテーマは反スターリンに匹敵する反ヒトラーだったからだ>

ショスタコーヴィチが公の場でそのような感情を語ることができなかったのは明らかだが、この作品の最初のきっかけは、1936年の粛清に対する静かな反応だったのかもしれない。

「レニングラード交響曲」と名付けられたこの曲は、1時間を優に超え、ロシアの英雄主義を称えるテーマで満たされていた。ショスタコーヴィチはこの曲をレニングラード市に捧げ、プラウダは即座にソビエトの価値観を称える作品だと称賛した。士気を高めるために演奏や放送が企画され、熱狂的な喝采を浴び、スターリンでさえも承認した。

■抵抗

交響曲第7番は、ドイツ軍の侵攻に対する抵抗の国民的シンボルとなり、ソビエトはこの曲の連合国への輸出に熱心だった。スパイ映画のシナリオのように、楽譜はフィルムにコピーされ、テヘランに空輸され、カイロまで車で運ばれた後、西へ空輸され、1942年に英国と米国で演奏された。

このような記念碑的作品の登場は、ルーズベルト大統領にとって絶好のタイミングであった。ルーズベルト政権は、スターリン自身の独裁体制を無視する一方で、ソビエトをナチスとの闘いにおける米国の同盟国として描くことに熱心だったのだ。

1942年8月9日、レニングラード放送管弦楽団の生き残った音楽家たちは、不足を補うために軍楽隊の協力を得て、レニングラードでこの交響曲を演奏した。それは包囲していたドイツ軍に反抗の意を込めて拡声器で放送された。

飢えと瀕死の状態にあった人々に与えた効果は絶大だった。喝采を浴び、レニングラードに残った市民を奮い立たせ、抵抗を続けさせた。指揮者のカール・エリアスベルクは後に、「あの瞬間、私たちは魂のないナチスの戦争マシーンに勝利した」と語った。

包囲は、1943年に大規模な反撃を受けるも、1944年まで解除されなかった。包囲が終わるまでに100万人ものレニングラード市民が死亡した。 しかし、このパフォーマンスは闘争の転換点として長く記憶された。
No.5
10ヶ月前
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孫崎享のつぶやき
元外務省情報局長で、駐イラン大使などを務めた孫崎享氏。7月に発行された『戦後史の正体』は20万部を超えるベストセラー、ツイッターのフォロワーも13万人を突破。テレビや新聞が報じない問題を、日々つぶやいている孫崎氏。本ブロマガでは、日々発信。週1回別途生放送を発信。月額100円+税。【発行周期】日々。高い頻度で発行します。