クラシック音楽と政治で最も有名なエピソードはショパンとポーランドの蜂起であろう。
「1830年11月29日、ポーランド憲法に対する帝政ロシアの度重なる違反に嫌気がさしたポーランド士官候補生が駐屯地から武器を盗み、翌日までにロシア軍をワルシャワ市から撤退させた。この出来事が11月蜂起のきっかけとなり、それは1年近く続いた。
ショパンは蜂起拡大のわずか数週間前にワルシャワを離れていた。彼の友で旅の同行者である・ヴォイチェホフスキはポーランドの大義に参加するために引き返した。1831 年 9 月にウィーンからパリへ旅行中に、反乱が鎮圧されたという知らせが彼に届いた。
この時の感情がこれらの感情は「革命」エチュードに音楽的な表現を見つけた。」(出典
classicalconnect.com)
政治と音楽の関係で、欠かせないのはショスタコヴィチの交響曲第7番レニングラードであろう。1941年12月に完成し
孫崎享のつぶやき
随想⑨ショスタコヴィチ交響曲第7番「レニングラード」。ナチのレニングラード包囲戦は1941年9月から。死者百万人超え、この曲これを主題。だがシは『ファシズムは単に国家社会主義(ナチズム)だけでない。この曲は恐怖、屈従、精神的束縛』それは当時のスターリン体制批判でもある。
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コメント
コメントを書く全体主義が戦争するのでなく人種偏見や私利私欲が全体主義を採用し戦争を起こすのではないでしょうか。従って、国民国家を構成する個人や小集団に私利私欲や人種偏見が閉じ込められている限り全体主義は成立せず戦争にもならないということではないでしょうか。
もう一つの側面は国民国家が治安維持のために反権力を弾圧することです。この弾圧をナチスと同様の全体主義(ファシズム)と同様なものに見るのは正確性を欠くのではないでしょうか。更に言えば、他国から侵略された時仕掛けられた国が防衛上の団結を行い抵抗するのは避けられません。その団結はやはり、全体主義とは呼べません。
以上のように整理すれば、ドミートリ・ドミートリエビチ・ショスタコビッチの音楽はジョン。レノンと同じ平和願望の芸術ではないでしょうか。
>>1
スターリンとプーチンは防衛上の団結を成功させた点では同じだが反権力への弾圧は前者に比べて後者は微々たるものです。そして、もう一つ、前者は反資本主義の共産主義者、後者は資本主義且つロシア正教徒です。しかも、プーチンは日本や米国と仲良く共存したいと表明してます。
Military History Matters June 15, 2016
戦争の作曲家たち:ドミトリー・ショスタコーヴィチ
https://www.military-history.org/feature/war-composers-dmitri-shostakovich.htm
ドミトリー・ショスタコーヴィチは、20世紀のロシアを代表する作曲家の一人である。彼は生涯をソビエトの支配下で過ごし、ソビエトの厳しい検閲や芸術に対するアプローチと複雑な関係にあった。ショスタコーヴィチは才能豊かなピアニストであり作曲家であったが、19世紀の音楽よりも、イーゴリ・ストラヴィンスキーやセルゲイ・プロコフィエフといった同郷のロシア人たちの現代的なスタイルに興味を持っていた。
エンジニアの息子として生まれた彼は、早くから音楽の才能を発揮し、1919年、革命の余波にも拘わらず運営されていたペトログラード音楽院に入学した。彼は国家イデオロギーを支持することには殆ど関心を示さなかったが、それが後年の彼に問題を引き起こした。
彼は音楽の道に進み、当初は当局の支持を得ていたが、1936年にオペラ「ムツェンスクのマクベス夫人」の上演後、政府からの支持を失った。スターリンはその公演を観に行ったが、不快に感じたという。
この作品は糾弾され、ショスタコーヴィチは頭を下げ、余り物議を醸すことのない音楽を作曲することを余儀なくされた。同年から始まった大粛清は何とか生き延びたが、1917年の革命的大衆運動の残滓を全て破壊することを目的とした見せしめ裁判で、多くの友人たちが殺されたり投獄されたりした。
■レニングラード交響曲
1937年、彼は交響曲第5番で再び支持を集め、レニングラード音楽院で教鞭をとることになる。ドイツの侵攻に抵抗したロシア精神の記念碑として賞賛された、有名な交響曲第7番を作曲したのはこの街だった。
1941年9月、ドイツ軍はレニングラードへの鉄道の接続を断ち、第二次世界大戦で最も長い包囲戦が始まった。ショスタコーヴィチは7月(それ以前という説もある)には既に新しい交響曲に着手していたが、民衆を抵抗へと駆り立てるような作品を作る決意を固めていた。彼は9月末までに4楽章のうち3楽章を完成させたが、家族と一緒にモスクワに疎開し、その後サマラに移って12月に作品を完成させることができた。
■論争の的となった作曲作品
ショスタコーヴィチの交響曲第7番に込められた意図については、いまだに論争がある。彼は包囲戦の前にこの曲に着手していたが、それはドイツ軍の進撃に対応するためだったのかもしれない。ソビエトの公式見解は、この交響曲は国家を支持し、ロシア国民の忠誠と武勇を宣言するために書かれたというものだった。
他の証拠によると、第1楽章はソビエトの弾圧や他の種類の専制政治に対する批判を暗示していたものの、包囲が始まると別の目的に転用されたことを示唆している。この作曲家の友人であるレフ・レベディンスキーは、ゴルバチョフ政権下のグラスノスチ期に、ショスタコーヴィチがドイツ軍の侵攻前にこの交響曲の作曲に着手していたことを明かしている。彼は言う:
<第一楽章の有名なテーマは、ショスタコーヴィチが最初にスターリンのテーマとしていたもので... 戦争が始まった直後、この作曲家はそれを反ヒトラーのテーマと呼んだ。後にショスタコーヴィチは、その「ドイツ」のテーマを「悪のテーマ」と呼んだが、それは全くその通りであった。なぜなら、世界の音楽界は、この2つの定義のうち、最初のものだけに固執していたにも拘わらず、このテーマは反スターリンに匹敵する反ヒトラーだったからだ>
ショスタコーヴィチが公の場でそのような感情を語ることができなかったのは明らかだが、この作品の最初のきっかけは、1936年の粛清に対する静かな反応だったのかもしれない。
「レニングラード交響曲」と名付けられたこの曲は、1時間を優に超え、ロシアの英雄主義を称えるテーマで満たされていた。ショスタコーヴィチはこの曲をレニングラード市に捧げ、プラウダは即座にソビエトの価値観を称える作品だと称賛した。士気を高めるために演奏や放送が企画され、熱狂的な喝采を浴び、スターリンでさえも承認した。
■抵抗
交響曲第7番は、ドイツ軍の侵攻に対する抵抗の国民的シンボルとなり、ソビエトはこの曲の連合国への輸出に熱心だった。スパイ映画のシナリオのように、楽譜はフィルムにコピーされ、テヘランに空輸され、カイロまで車で運ばれた後、西へ空輸され、1942年に英国と米国で演奏された。
このような記念碑的作品の登場は、ルーズベルト大統領にとって絶好のタイミングであった。ルーズベルト政権は、スターリン自身の独裁体制を無視する一方で、ソビエトをナチスとの闘いにおける米国の同盟国として描くことに熱心だったのだ。
1942年8月9日、レニングラード放送管弦楽団の生き残った音楽家たちは、不足を補うために軍楽隊の協力を得て、レニングラードでこの交響曲を演奏した。それは包囲していたドイツ軍に反抗の意を込めて拡声器で放送された。
飢えと瀕死の状態にあった人々に与えた効果は絶大だった。喝采を浴び、レニングラードに残った市民を奮い立たせ、抵抗を続けさせた。指揮者のカール・エリアスベルクは後に、「あの瞬間、私たちは魂のないナチスの戦争マシーンに勝利した」と語った。
包囲は、1943年に大規模な反撃を受けるも、1944年まで解除されなかった。包囲が終わるまでに100万人ものレニングラード市民が死亡した。 しかし、このパフォーマンスは闘争の転換点として長く記憶された。
2023年4月21日 東京新聞
<旧ソ連で抑圧された作曲家ショスタコービッチ一筋30年都内楽団「ダスビダーシャ」。国家への皮肉、戦争への抗議。「暗号」を解く>
クラシック音楽以外になじみが薄いが、その作品一筋に30年間取り組むアマチュア・オーケストラが東京にある。2月東京芸術劇場で行われたオーケストラ「ダスビダーシャ」のコンサートで交響曲第四番が圧倒的な追力で演奏された。
最初の演奏会は1993年以来29回の定期演奏会で毎回この作曲家の交響曲を取り上げてきた。
若くして名声を得ながら29歳の時オペラがプラウダで「荒唐無稽」ともう批判された。背景にはスターリンの不満があった。テーマは女性の不倫や殺人などがあり社会主義国に不適当と烙印を押された。粛正が横行し芸術家も収容所送りや処刑が例外ではなかった。ショスタコービッチは死の恐怖を抱えながら国家に迎合する曲も書き生き抜いた。残した交響曲15曲。国家に対する皮肉や戦争や虐殺への抗議、さまざまなメッセージが音楽上の「暗号」として楽譜に込められているとみなされている。
スターリン時代と同じように強権的なプーチン大統領の下ロシアでは芸術作品でも反戦や反政府の姿勢を示すことはできないと東京新聞記者は締めている。
>>6
反戦、反政府の姿勢は日本でも取ることは出来ません。マスコミメデイアが日本政府の意向を忖度してそういう反戦主義者や反政府主義者を厳しく?遠ざけているのです。日本と比較すりゃ、プーチン政権下のロシアの方がウクライナ戦争デモとかあってオープンだと思いますがね。北海道の鈴木宗男さんがプーチンを称賛したら、日本中、もう大騒ぎだった。安倍さんは暗殺されちゃった。ひどいもんです。日本は自由謳歌の国じゃなかったのですか?
東京新聞は最近いろいろ弾圧されているから、こういう記事を書いて政権にすり寄っているのじゃないでしょうか。朝日みたいに右傾化し始めたのではないでしょうか。
レニングラード交響曲は、傑作であってもクラシック入門者にとってはすこし悔渋すぎるかなと
いう気がします。
これを機会にショスタコビッチでも,,と思ったかたには断然、第五番革命がオススメです。
演奏はムラビンスキー指揮のレニングラード・フィルハーモニー。
わたしは若き日に実演を聴きました。
初めての海外一流オーケストラを聴く機会でした。
ロックコンサートにも負けない凄まじいレニングラードフィルの音量の大きさ。
そして、なまいきな若造のわたしはソ連の国宝的芸儒家のムラビンスキーのことを
「ムラビンスキーのジイさん、あんたきっと耳が遠いな」と思ったのが思い出です。
もしかしたらレニングラード交響曲の初演もムラビンスキーだったかも。
独ソ戦の砲撃音で耳を悪くしなければよかったけど。
念のため言っておきますが、一流オーケストラとふつうのオーケストラを
聴き比べて一番の違いはその音量です。
技術は、ほとんど変わりません。
わたしはCDを聴いてオーケストラの格を聞き分けることができません。
でも実演の目隠しテストなら一発でわかります。
音が大きいほうが一流です。
これは個人演奏家にもいえます。
もうひとつ念のため。
ショスタコビッチの革命交響曲は、ショパンのピアノ練習曲とは別物です。
>>8
硫黄島もサイパンも、負けましたが、やり抜きました。本土に於いてもやり抜きました。
>>10
そうですね。音の大きさですね。